「……それじゃ」
「え……?」

「さよなら」

「っ……!」
 初めて、だった。
 まじまじと見つめられたあと、切なそうな顔をされたのが。
 そして――……こんなふうに『さよなら』なんて言われたのも。
「やっ……!!」
 どくんっと心臓が強く打ち付け、苦しくてたまらなくなる。
 同時に開く、瞳。
 どくどくと耳に痛いほどの鼓動だけが聞こえる中、ぼんやりと薄暗い室内が目に入る。
 ……天井。
 窓。
 そして、ドア。
 早朝特有の青い光が満ちる部屋は、紛れもなく私のもの。
 決して、彼と過ごした彼のあの家では……ない。
「……っ……」
 今ごろになって、気付いた。
 ――……自分の両手が、微かに震えていたことに。
 ……でも、それだけじゃない。
 肩も、唇も。
 微かながらも、全身が震えていた。
「っ……」
 きゅ、と唇を噛み締め、両手で肩を抱く。
 彼の夢を見たのは、いったいいつ振りだろう。
 ……しかも、あんな――……あんなふうに……優しくて、だけど強いキスをされる夢なんて。
 夢は現実の裏返し。
 理想であり、深層心理の表れであるとも言う。
 ……深層心理。
 確かに、間違ってないと思う。
 だって……。
「……………」
 私は確かに、怖がっているから。
 いつか近いうちに、彼が……私に『さよなら』と言う日が来るに違いない、って。
 確かにこの前、私から彼に『さよなら』を告げた。
 でも、あれは……あれは、違う。
 どう違うと言われても、やっぱり違うの。
 だって、言うつもりなかったんだもん。
 ……だけど、彼を見ていたら……言うしかなくて。
 彼が好きでたまらない。
 でも、今の彼は……私に対して困った顔しか見せてくれないから。
 だったらやっぱり、私がそばに居ないほうがいいんじゃないか、って。
 ずっと……ずっと、そう悩んでいたから。
 あれは、悩み抜いての結果だった。
 だから……本当は、こんなふうに後悔しちゃいけないのに。
 それなのにやっぱり私は、ずるい、から。
「……っ……」
 溢れそうになる涙をこらえ、慌ててまばたきの回数を増やす。
 ……たとえどんな結果になっても、どんな未来が手に入っても、記憶を消してほしいなんて思わない。
 だって、そのほうがよっぽど、つらいから。
 ……消えちゃうのは、嫌だ。
 私と彼がすごした、確かで大切な時間が。
 この前、葉月とお兄ちゃんに言われて、そう思えるようになった。
 ようやく、自分でも納得できるようになった。

 私が、証だから。

 私が覚えてることが、証拠。
 これまで、彼と過ごしてきた日が本物だっていう……絶対な、証拠。
「…………」
 きゅ、とパジャマを握ると、ようやく鼓動が落ちつき始めてきたのがわかった。
 ……大丈夫。
 私はもう、揺るがない。
 だって……彼は、絶対に約束を守る。
 あのとき確かに、彼は言ってくれたんだから。

『俺だって……羽織ちゃんを必ず好きになるから』

 星が降ってくるんじゃないかと思えるくらい、沢山の光が空にあった夜のこと。
 まだそこまで時間も遅くない夜に、彼とふたりで夜道を歩いた。
 手を繋ぎ、身体を寄せ。
 ……彼は私を引き寄せるようにして、腰を抱いてくれた。
 あたたかくて、嬉しくて。ほんの少しだけ、恥ずかしさもあった。
 でも、やっぱりなんともいえない感情が、身体いっぱいに満ちて。
 最後には、彼へまた一層の想いが募った。

 私が好きになるのは、先生だけだから。
 ……これは、絶対ですよ。

 あのとき口にした言葉に、嘘はない。
 ……だけど今は、少しだけ不安。
 好きになっても、いいのだろうか。
 このまま彼を……想い続けても……?
「………………」
 迷惑になってしまったら、それが1番つらい。
 彼にとって負担になるなら、いっそのこと――……想いは、自分の中だけに閉じ込めておいたほうがいい。
 ひっそりと、小さく。
 誰にも……特に、彼にだけは絶対。
 悟られないように。
 気付かれないように。
 ……そうやって彼を想うのが、彼のためでもあり……そして私のためでもあるんだよね……?
「はぁ……」
 小さくため息をつき、もう1度横になる。
 今日もまた彼に会えるかな、って考えてた。
 ――……ほんの、1週間前までは。
 なのに今では、『見れたらいいな』になっている。
 ……まるで、片思いしてるみたい。
 ううん、『みたい』じゃなくて、完全にそうなんだろうけれど。
「…………」
 いつだったかな。
 彼に対して、そんな想いを馳せるようになったのは。
 ……でも、私は最初から恵まれていた。
 だって、彼とは何かのきっかけを作ることなんかしなくても、話すことができたから。
 クラスの副担任で、化学担当の先生。
 私は、彼のクラスの生徒で、化学の教科連絡の係り。
 ……そういえば……今の彼は、戻っちゃったんだよね。
 あの、出会ったばかりのころの彼に。
「……ぁ」
 それじゃ――……私も、戻ればいいのかな。
 彼の何気ない仕草を見つけたり、いろいろな表情を見せてくれるたびに、心の中で喜んでいた……そんな、あのころの私に。
「…………」
 同じ家から出かけて、同じ家に帰る。
 同じ車に乗って、同じ食事をして。
 ……そんな生活をしていたころが、今では夢のよう。
 でも……だからこそ。

『もういっぺん、最初っからやればいいことだろ?』

 この前のお兄ちゃんの、正論といえば正論が頭に響いて、薄っすらと苦笑が浮かんでいた。

「そろそろ暑くなって来たわねー」
 さほどクーラーも入っていない学食。
 その窓際の席へ座った絵里が、ぱたぱたと手で扇いで見せた。
 もう、6月は目前。
 すでに衣替えをしている人たちも、割と多い。
「……あ」
「え?」
 彼女の目線が、私を飛び越えて後ろに向かった。
 当然のようにそちらへ顔が向く――……と。
「あっ!? や、羽織っ……!」
 慌てたように絵里が私を制した。
 でも、きっとそれは普通というか……当たり前の反応だったんだと思う。
「……あ……」
 その先には、沢山の人がいた。
 白衣を着ていたり、上下ともスーツを着込んでいたりと、いろんな格好の人が歩いている。
 ……何か、話してるみたい。
 それくらいは、雰囲気や口元でわかる。
 …………久しぶり……だなぁ。
 あんなふうに真面目な顔をして、誰かと話している彼を見るのは。
「………………」
 こうして改めて見ると、わかる。
彼がどれほどの雰囲気をまとっているか、が。
 ハタから見ていると、その雰囲気に呑まれそうになる。
 知的で、他を寄せ付けないような威圧感にも似たクールな鋭さ。
 ……カッコいい、よね。
 ふと周りを見れば、自分と同じように彼に見惚れている人がいるのに気付いた。
 もしかしたら、一緒にいるほかの先生方を見ているのかもしれない。
 …………でも、私にはそうは思えなくて。
 だってやっぱり――……私も、彼に憧れて密かに想いを寄せているうちのひとりでしかないから。
 だから、わかる。
 彼を好きでいる人のことが、なんとなく……だけど。
「……不釣合い……かな」
「え?」
 絵里に反応されて、初めて気づいた。
 彼を見たままで、ぽつりと本音を漏らしたことに。
「あ。……えっと……なんか、ね? ……ほら、やっぱり……なんか今のほうが思いっきり研究に打ち込めてるっていうか……」
 しどろもどろと、言い訳染みた言葉が口から漏れる。
 でも、どれもこれも……本音であり、違う言葉。
 ただ、不安でたまらないから。
 だから――……どれもこれも否定してもらいたいだけ。
 ……ずるいよね、私。
 いつから、こんなふうになっちゃったんだろう。
「だから……彼にとっては、今のほうがいいのかなって……思ったの」
 そう言いながらも、いつしかまた視線は彼を探して求めていた。
 真剣な顔をして、話しこんでいる姿。
 ……彼は、こうあるべきなのかもしれない。
 だって、すごく熱心で、すごく真面目で。
 きっと今だって……ううん。
 私がいなくなった今のほうが、きっと研究にも打ち込めているはず。
 彼がずっと求めた場所。
 それが、この大学という彼の元来あるべき場所だ。
 ようやく念願叶って戻ってこれた大切な場所だもん、今のほうがきっと――……。
「っ……!」
 いつの間にかそんなことを考え始めてしまっていて、気付いたら彼と目が合っていた。
 ここからは、遠く離れた場所。
 でも、彼の瞳は確かに私を見てくれている。
 ……嬉しい。
 だけど――……。
「………………」
 思わず、まばたきをしてから慌てて視線を逸らしていた。
 なんだかんだ言っても、やっぱり会いづらいというのが1番にあって。
 もちろん、あんなことを言った手前……というのもある。
 ……でも、きっとそれだけじゃない。
 彼に会いにくい理由が、ほかにもあることを知ってる、から。
「……もしかしたら何かの偶然だったのかな、って。彼が私を選んでくれたのは……何か、奇跡が重なったっていうか――……」
「……怒るよ」
「え……?」
「そんなことアンタが思ってたとしたら、私は怒るから」
 絵里が、低い声で呟いてから私を見据えた。
 ……いつ以来かな。
 絵里がこんな顔を私に見せたのは。

「祐恭先生は、本気だった」

「っ……」
「……祐恭先生の顔、知ってるでしょ? アンタを見るときの顔。……知らないはずないわよね?」
 鋭くて、きれいな顔。
 まっすぐに私を見つめた絵里が、有無を言わさないような口調で言葉を続ける。
「いつだって優しくて……温かくて。誰が見たって、アンタを好きで好きでたまんないって顔してた」
「……それは……」
「疑ったことなんて、ないクセに」
「……え……」
「祐恭先生が、羽織を想ってくれてる気持ち。一度だって、疑ったことなんかないでしょ?」
 凛とした眼差しだった。
 すべてを見透かしている、間違いのないもの。
 やっぱり……絵里だな。
 私の言葉ひとつで、何もかもわかっちゃうなんて。
 ……カッコ悪い。情けない。
 真剣な眼差しで叱ってくれている彼女を見ていたら、申し訳なくなった。
 …………あんな考えしてるなんて知ったら、悲しむよりも先に怒られる。
 絶対に、間違いなく。
 やっぱり私……まだまだ、なんだな。
 口では『大丈夫』なんて言っても、全然大丈夫なんかじゃない。
 むしろ、ずっと引きずったままでいて、情けないくらい弱気でたまらないのに。
 ……繕ったって、バレちゃうのに。
 ましてや、これまでずっと小さいころから一緒にいた、絵里に対してなんて。
「…………ごめん」
 少しだけ頭を下げて、だけどちゃんと言葉で言う。
「なんで謝るの?」
「……だって私……嘘、ついたから」
 ――……そう。
 アレは、嘘。
 自分を守るため、正当化するための、利己的な嘘。
 傷つきたくなくて、彼に拒絶されるのも怖くて、そうされる前にって自分を守るための盾。
 そうやって前もって1歩引いておけば、いざってとき想像以上に傷ついたりしないから。
 ……ずるい、よね。
 絵里に怒られるのも、当然だ。
 今まで気付けなかったことのほうが、どうかしてたのに。
「…………」
「絵里……?」
 まじまじと何か品定めでもするかのように私を見つめた絵里が、真剣な顔つきをしてから――……。

「よし」

「……え?」
「いいわ。ホントのこと言ったから、許してあげる」
 にんまりした笑みを浮かべて、胸を張った。
 腰に両手を当てて。
 そんな今までとは丸っきり違う態度に、思わずこちらも笑みが浮かぶ。
「……なんか……絵里って、嘘発見器みたい」
「何よそれ。失礼ね」
 くすくす笑いながら呟いた瞬間、眉を寄せて『心外だわ』と彼女が続けた。
 そんな姿を見て、やり取りができて、ちょっとだけ気持ちが緩む。
 ……でも、緩ませすぎちゃダメ。
 引き締めなきゃいけない。
 だって……こんなふうに絵里に怒られるのって、なんだか本当に久しぶりなんだもん。
 何年振りだろう。
「……あ」
「ん? 何?」
「え? ……ううん、なんでもない」
「えぇ? ちょっと。なんなのよー」
「あはは。ごめん」
 一瞬脳裏をよぎった光景。
 ……あれは、中学のとき。
 夕焼けに染まる放課後の教室で、窓を背に立った絵里に向きなおったとき……怒られたんだよね。
 きっと、そう。あの日以来だ。
 好きな人のためにって言い訳しながら、その人へ向いていた気持ちを諦めた――……あの日以来かもしれない。


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