「……鍋?」
「そう! 夏といえばやっぱり鍋でしょ!!」
 翌日の学食で、絵里が声高に説明を始めたのはついさっきのこと。
 葉月と同じおかずのお弁当っていうのはいつもと同じなんだけど、なぜかタイミングよく玉子焼きをお箸でつまんだところで、目が合った。
「えっと……鍋っていうのは、その……キムチ鍋とか、なんか、そんな感じの?」
「そうよ! それ以外に何かある?」
 ずず、と残り少ないフルーツオレを飲んだ絵里に睨まれ、慌てて首を振る。
 さすがに『なんで鍋なの?』とは、もう聞けない雰囲気だ。
「昨日、純也と話してたのよ。そろそろ鍋の時期じゃない? って」
「……そうなの?」
「そーなの! ほら、よく言うでしょ? こたつで食べるアイスクリームがやたらおいしいって! だから、今回はそれの逆バージョン! クーラーきんきんの部屋で鍋よ!!」
 ぐぐっと目の前に絵里がこぶしを突き出した。
 ……あ、きれいな色のネイル。
 こういうピンク、絵里に似合うよね。
「え?」
「あんたねぇ……話聞いてた?」
「え、聞いてるよ?」
「あ、そ。じゃあいいけど」
 ごめんなさい、まったく聞いてませんでした。
 とはいわない。
 ええと……は、半分くらい……ごめん、上の空だったんだよね。実は。
 なんて告白するまでもなく、絶対にバレてるはず。
 くすくすと苦笑する葉月が見え、乾いた笑いのまま『だだいじょうぶ』なんて、まったくだいじょばない言葉が勝手に漏れた。

「そんじゃま、つーわけだからふたりとも、それぞれカレシ誘って明日の夜18時にうち集合ね」

「………………」
「………………」
「……え?」
「っだーもう! ぜんっぜん話聞いてないじゃないのよ、おばか!!」
「ご、ごめん!」
 唐突すぎる日時の設定に葉月と顔を見合わせると、大げさなため息をついてから絵里が額に手を当てた。
 かと思いきや、ちらりとむこうに視線を向け、私を見て顎で示す。
「明日の夜、予定空けとくように言ってきなさい」
「え? ……あ」
「何事も、早めが大事よ。わかった?」
 これまで、何度も何度も……それこそ毎日、ごはんを食べたり話をしながらも探してばかりだった。
 お兄ちゃんはほぼ毎日見かけるんだけど、祐恭さんを見かけたことはなくて。
 あったとしても、学食を出て行くところだったりで、話しかける時間もなかった。
「……ちょっとだけ……いい? 行ってきても」
「行ってきなさいってば」
 しっし、と追いやるように手を振る絵里だけど、顔は優しい。
 話を半分くらいしか聞いてなかったから、またあとでちゃんと聞かないと怒られちゃうかな。
 でも……カレシを誘って、ってことは……みんなでお鍋パーティって考えても間違いじゃないんだよね?
 ……えへへ。
 祐恭さんと一緒に行けたら、絶対楽しいだろうなぁ。
 まだ返事をもらってないどころか、声さえかけていないのに、楽しいことすぎてつい想像が膨らむ。
 今しがた学食へ来たばかりらしく、食券を片手にメニュー決めの最中らしい彼。
 白衣ではなく、ワイシャツの背中を見ながらつい頬がゆるみ、ゆっくりと伸ばした手よりも指先へ力がこもった。
「……え? あ」
「こんにちは」
「よかった」
「え?」
「会えて」
「っ……」
 とんとん、と触れた相手が誰かわからなかったらしい彼が、私を見てすぐ表情を緩めた。
 その瞬間の表情だけでもたまらなく嬉しかったのに、もっと嬉しいことを言われて、情けない顔へ変わる。
「お昼は、もう食べた?」
「あ、はい。……祐恭さんはこれからですよね?」
「うん。講義のあと、学生につかまってね」
 苦笑交じりの顔だけど、やっぱり“先生”のときの彼はとてもいい顔をしている。
 晴れやか、っていうのかな。
 生き生きとしていて、とても楽しんでいる顔そのものだ。
「そうだ。明日の夜、空いてるかな?」
「明日ですか?」
「うん」
 食券を引き換えるために並んでいた列から外れ、壁際まで彼が移った。
 途端に、これまでのざわつきが遮られ、自然と声も小さくなる。
「実は、純也さんの自宅へ招かれたんだけど……」
「……あ。それ、絵里からも聞きました」
「そう? なら話は早いね。どうかな? 都合は」
「もちろんっ、あの、私は全然っ! 大丈夫です!」
 小さく笑った彼にぶんぶん首を振ると、目を細めて笑った。
 この顔、好き。
 すごく優しくて、柔らかくて……ちょっぴりかわいいんだもん。
「よかった。それじゃ、明日……うちへ来てもらってもいいかな? 一緒に行こう」
「っ……はい」
 一緒に。
 彼の口から聞けたセリフがとても嬉しくて、ぶんぶんと何度もうなずきながら満面の笑みが浮かぶ。
 だってだって!
 祐恭さんのおうちで待っていられるうえに、一緒におでかけだなんて……えへへ。どうしよう、すごく嬉しい!
 デートって、やっぱり言葉だけでも十分にどきどきするんだね。
 嬉しすぎて、もしかしたら今夜眠れないかもしれない。
 ……なんて、誰かに聞かれでもしたら『子どもか!』ってつっこまれそうだけど。
「じゃあ……明日。待ってて」
「はいっ」
 明日の夜まで、あと何時間?
 ……って、残念ながら24時間以上はあるよね。今はお昼だし。
 それでも、明日の夜っていう確実な約束を得られたからこそ、それを糧にがんばれるのは間違いない。
「……嬉しい」
 どうしたってひとりごとが漏れ、にまにまと笑った顔もなかなか元に戻らない。
 ……でいたら、小さな咳払いが聞こえ、ようやく我に返った。
「っ……ご、ごめんなさい。ヘンな顔ですよね」
 こほん、と改めて咳払いをした彼が、わずかに首をかしげる。
 あ、ちょっとだけいたずらっぽい顔?
 そんな予測どおりに、口元へ当てていた手を落とした彼は、少しだけいつもと違った笑みを浮かべていた。
「そういう顔は、ふたりきりのときにしてもらえると……ありがたいかな」
 わずかに瞳を細められ、思わず体温が上がる。
 こくん、と喉が動き、言いかけた言葉が……出ない。
「…………」
 こういうとき、なんて返事したらいちばんいいんだろう。
 だって、『YES』とも『NO』とも言いにくいんだもん。
 ましてやここは、彼の部屋じゃない。
 大多数の人間が行き交う公の場所だけに、えっと、その……なんか、どうしたらいいのか迷うんだよね。
 こういうとき、もっとストレートに返事ができればいいなって思うの。
 それこそ、お兄ちゃんが絡んできたときの、葉月みたいに。
 だから――……。
「…………まいったな」
 言葉にはできない。
 その代わりに、こくん、とうなずいて笑みを浮かべ、唇だけで言葉を紡ぐ。
 でも、どうやら十分だったらしい。
 一瞬目を丸くした祐恭さんは、口元に手を当てると視線を空へ移した。
 こういうときの顔、すごく好きなんですけれど。
 ……って、このこともいつか伝えられたらいいな。
 さすがに、こんなに開けた場所じゃなくて、できればふたりきりのときに……こっそりと、だけど。


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