始業式の朝。
 にわかに教室がざわめき立った。
「ねぇねぇ! カッコイイよね?」
「そうだねー。去年来た……何先生だっけ。あの先生より、ずっといいって!」
 ひそひそと話し声が飛び交う中、彼女らの視線の先にはひとりの人物。
 年は今年で24歳。
 背もそこそこ高くて……など、挙げようと思えば良い点はいくらでもあるのだが、その中でもやはり目が行くのは容姿だった。
 細い縁のあるメガネの向こうには、芯の強そうな瞳。
 だが、決してキツイというわけではなく、優しそうな光をたたえている。
「初めまして、瀬尋祐恭(せひろ うきょう)です。よろしくお願いします」
 なかなか通る声での、自己紹介。
 そんな彼を見てから、隣に立っていた女性が生徒たちへ向き直る。
「瀬尋先生には、副担任としてみなさんを受け持ってもらいます。授業では……化学でしたよね?」
 担任である日永京子(ひなが きょうこ)の言葉に、彼が微笑んでうなずくのを確認したのを見てから、彼女はさらに続けた。
「1年間、よろしくお願いしますね」
「こちらこそ、ご指導よろしくお願いいたします」
 にこやかな彼女に彼は軽く頭を下げ、生徒に向き直ってから『よろしく』と頭を下げる。
 その姿に好感を覚えた生徒らは、彼ならば許してくれるであろうと何かを察知してか、早速質問を飛ばした。
「センセー。彼女とかいるんですかー?」
 手を挙げながら立ち上がった生徒が引き金となり、どよめきたった教室内は、さらに盛りあがりを見せる。
 定番といえば、定番になっている“イイ男の独身教師へのアピール”。
 この返答次第で、今後の自分との係わり合いとやらを考える者が多いのも事実。
 今の時代、女性は年齢を問わず積極的になっているのかもしれない。
「早速だね。……まぁ、一応」
 彼が苦笑を浮かべながら頭に手をやった途端、当然のごとくブーイングに似た声があがった。
「なんで!」
「……いや、なんでって言われても」
「キレイな人なの? じゃあ今度、写真見せてー!」
「なんで、そうなるかな……」
 いたずらっぽい顔を見せた生徒に彼が首を振って苦笑を浮かべると、また違う生徒から質問が飛んだ。
 この時間は、まだまだ終わらない。
「先生は冬瀬校からきたって聞いたんですけど、あそこの生徒ってどうですか? カッコいい人とかいる?」
「あー、私も聞きたいー」
「なんでよっ! あんた、彼氏いるじゃん!」
「だって、冬瀬校じゃ話は別だもん!」
「はいはい。あんたたち、もうちょっと静かに!」
 一気に騒がしくなる教室内。
 テンションが高まっている生徒たちを、担任の日永が制したおかげで少しは落ち着きを見せたところで、彼女は咳払いをひとつして彼に向き直る。
「みんな、そんなみっともない質問しないの! ……で、どうなんですか?」
「あー、なになにぃ? 先生も気になってるんじゃん!」
「そりゃあそうよ。若い子からパワーもらえるもの」
「えー。旦那さんに言っちゃうよー?」
 笑い声があちこちからあがり、日永の生徒に対するいつもの姿勢と、彼女を慕う生徒の姿がうかがえる。
 そんな様子を見て、祐恭も小さく笑みを浮かべた。
「日永先生も気になってらっしゃるなら、答えないとマズいですね」
 冗談交じりに顎へ手をやった彼が、少し真面目な顔を見せる。
 ふっと変わった表情で、生徒たちから小さく声があがったのは言うまでもない。
「冬瀬の連中は……んー、カッコイイっていうのが単に容姿だけなのか、中身も全部ひっくるめてなのかわからないから一概には言えないけど……まあ、みんなのレベルが高いから、釣り合うヤツは少ないかもね」
 冗談めかした言葉に、生徒たちからは笑い声と『ですよねー!』などとノリの声がいくつか上がった。
 とはいえ、中には言葉をそのまま受け取り、まんざらでもないといった感じの子もいたが。
「先生も冬瀬出身なんですよね?」
「うん。冬瀬には、まだ週に何度か教えに行くから、知ってるヤツがいたら伝言してもいいけど」
 口調からして、明らかに冗談だとわかる。
 だが、真に受けた子も何人かいたらしく、ひそひそと耳打ちをする姿がいくつか見られた。
「それじゃあ、そろそろ授業始めるわよー」
 “質問終了”とばかりに日永が手を叩くと、生徒たちも背を正し、前へと向き直った。
 なんだかんだ言っても、やはり県内でも有数の女子の進学校。
 授業に対する姿勢はしっかりしている子が多いようで、切り替えはスムーズなようだ。
 中には、すでに教科書を開いている子も数人いた。
「でも、日永せんせー。今回は頑張ったんですねー」
「でしょー!? 日永京子苦節ウン年、この年にしてようやくイイ男の先生を副担任に奪い取ったわっ」
 生徒のひとりが小さく拍手をすると、彼女もそれに応えるようにガッツポーズを作る。
 彼女に『頑張ったよねー』という声と口笛にも似た音があちこちからあがり、それに対して祐恭はひとり苦笑を浮かべた。
「では、失礼します」
「ありがとうございました。この子たちとはまた、化学の授業でお願いしますね」
 ドアに向かった祐恭に日永が小さく頭を下げると、改めて深々頭を下げた彼が廊下から外へと出た。
 途端、教室内の空気は変わり、いつもの日永の授業のモノへと変化する。
「ねぇ、羽織(はおり)。あのセンセ、アンタの好きなタイプじゃない?」
「……っ、急に何を言うのかと思ったら。私じゃなくて、絵里こそ好きなタイプでしょ?」
「んー、私別に眼鏡属性ないから。それに私には、ダァリンがいるから」
「…………え?」
「何?」
「今……ダーリンって言った?」
「何よ」
「……え、と……別に……」
 こそこそと小さく話しかけてきたのは、皆瀬絵里(みなせ えり)
 彼女とは幼稚園からの同級生で、いわゆる腐れ縁タイプの幼なじみ。
 普段言ったりしない“ダーリン”を連呼する絵里に思い切り戸惑いつつ何かを察知しながらも、羽織は彼女が彼に対して真剣な想いを持っていることも知っているため、なんだかんだ言いながらやっぱり羨ましくもある。
 確かに、瀬尋先生は悪くはない。
 むしろ、好みのタイプだ。
 それでも、教師に対して恋愛感情を持つというのはやはり抵抗がある。
 どうしたって“高校教師のわいせつ不祥事”が頭をよぎり、乾いた笑いしか出ない。
 そもそも、教師は教師で、相手は自分よりもずっと年上の大人だ。
 どうせ生徒のことなど本気で相手にしてくれるはずがない……と、頭のどこかに冷めた考えがあるからかもしれないが。
「こら、そこっ。いつまでもお喋りしないっ!」
「っ……わ、ごめんなさい」
「ごめんなさーい」
 ふたり揃って指差され慌てて日永に謝ると、クラス内に笑い声が響いた。
 ――ここは、神奈川県立冬瀬女子高等学校。
 9割が大学進学し、クラス編成もそれに合わせてとられている。
 教師のほとんどの者が一度赴任すると長くここにとどまる傾向があるのは、すぐに教師が変わっては生徒にとってよくない影響を及ぼしたり、いろいろ勘ぐられる可能性があるというのと、学業面での確立を目的としているのもあった。
 3年2組の担任である日永京子も例に漏れず、今年で6年目になる。
 ……だが。
 学業に力を入れている進学校という反面、まったく正反対の噂がある。
 それは、この学校に赴任する教師は、生徒と恋愛関係に陥る者が多いという噂だ。
 だが、噂とはいえ、現在結婚している教師の中にも、その伴侶は元教え子だったということが事実としてあるため、あながちただの噂だと切って捨てることはできない。
 それはここが女子校だからなのか、それとも別の理由があるのかはわからないが、その“噂”を生徒も知っているため、教師に対して恋愛感情を抱く者も少なくなかった。
 無論、この年代の生徒からすれば男性教師はもっとも身近な恋愛対象であり、何より、同年代の男性とは違って容易に恋愛感情を抱いても“安全”である可能性が高い。
 そのため、ある意味“恋愛ごっこ”をするには都合がいいからというのもあるだろうが、昔からタブーとされてきた教師との恋愛に幻想のみならず本気で身を投じたいと思う者がいるのも、また事実なのだ。
 ……そして。
 当然ながら、この学校への赴任を希望する教師の中に、そういうやましい考えを持っている者がいないとは言えない。
 ちなみに付け加えておくと、担任の日永もこの学校出身であり、3年のときに教育実習生としてやってきた教師が今の旦那様という話である。
 生徒らにとって、彼女はまさに“理想の恋愛のカリスマ”的存在であり、その事実を公言してまわる人物だからこそ、生徒からはある意味崇められてもいた。
「瀬尋先生もカッコいいけどねー。まー、ウチのダーリンほどじゃないかしらねぇ」
 板書する手を止めて少し頬を赤らめた日永に、生徒たちはすっかり慣れたもので、みな一様に『はいはい』と相槌を打った。
 彼女にとって、主人以外の男はすべてそうなることくらい、これまでの付き合いで十分わかっているからだ。
 ちなみに、授業の途中でこの話になると、割と長くなる。
 お陰で授業が中断したままで終わることも、実際少なくなかった。
 今回も、この調子で行けば授業どころではなくなるだろう。
 それを予感してか、生徒たちの何人かは教科書を閉じ始めた。
「次の時間、化学でしょ? 羽織、がんばってね」
「もぅ。何をがんばるの? 私は、係として聞きに行く以外の目的はないんだよ? それに、彼女いるって言ってたじゃない」
 ふぅ、とため息をついてみせると、絵里はいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「じゃあ、私が行こうか? ダァリンにも会えるし」
「……ねぇ、絵里。その『ダーリン』っていうのは、何? 何かの真似?」
「別に。ただ、なんとなく」
 なんとなく、と言いながらもなぜか顔は不機嫌そのもので、だからこそ羽織は眉を寄せるしかなかった。
 もしかして、ケンカでもしたのだろうか。
 ひとつの考えが頭に浮かぶが、今の彼女にソレをつきつけても、恐らくとりあってはくれないだろう。
 仕方なく、小さなため息をついてから肩をすくめて話を戻す。
「行ってくれてもいいけど……でも、ちょっと気になる……かな」
「なーんだ。やっぱり気になってるんじゃない。そうならそうと、正直に言えばいいのに」
「っ……そんなつもりじゃないんだけど。……でも、絵里こそどうしたの? ダーリン、なんて」
「だ、か、ら。いーでしょ、別に」
「……そんなに恐い顔しなくてもいいじゃない」
 いきなり真顔になった絵里に苦笑を返したところで、授業の終了を告げるチャイムが響いた。
 案の定、日永の授業はあそこで中断したままだ。
「あら、終わっちゃったわ。それじゃあ、45ページまで宿題にするから、きちんと要約しておいてね」
 いそいそと教科書をしまい始めた生徒たちに、古典の教科書をめくってからにっこりと日永が微笑んだ。
 途端、ものすごい勢いでブーイングがあがったのは、当然といえば当然のこと。
「いいじゃないのよー。ほらほら、次の授業の支度する!」
 口々に文句を続ける生徒を軽くあしらいながら、彼女はそのまま出て行った。
 これもまた、言うなれば“いつものこと”である。
 そんな日永を見送ってから、絵里は羽織を見てやたらと楽しそうに笑った。
「さー、羽織! 行ってきなさい!」
 何を言うかと思えば、彼女が口にしたのはやはり彼のこと。
 思わず、羽織の口からため息が漏れる。
「どうして絵里がそんなに楽しそうなの?」
 席を立ち上がった羽織を見て、ほかの子たちも声をかけてきた。
 内容はどれも、羨ましいといったものばかり。
 ……気が重いというか、プレッシャーになるのに。
 苦笑を浮かべてから逃げるように廊下へ出て、すぐ左折。
 ひとり、渡り廊下を通って2号館の奥にある化学準備室を目指しはじめると、ひとしれず心臓がどきどきと高鳴り始めた。
 「…………」
 少し、自分でも緊張しているのがわかる。
 今回ばかりは、みんなに羨ましがられて気分もよかった。
 ただの女子高生……しかも女子校に属す自分にとって、カッコイイ男の人と話ができるチャンスなど滅多にない。
 相手が教師であるからこそ、さほど躊躇せず話しかけられるものの、普通ならば考えられないような相手だ。
 ……優しそうで、カッコよかったし。
 ついつい先ほどの彼の顔が頭に浮かんでしまい、頬が熱くなった。
「っ……」
 こんな赤い顔で入ったら、絶対に怪しまれる!
 慌てて頬に両手を開け、ぱたぱたと熱を冷ますように扇いでから、深呼吸。
 それから、ゆっくりと準備室のドアノブを回し、入室を断るあいさつを口にする。
 何度となく入ったことのある場所。
 だけれども、今日だけは別。
 独特の匂いを吸い込んだ途端、また早鐘のように心臓がうるさく打ちつけ始めた。
「…………」
 棚と、あちこちに積み上げられた物のせいで、かなり狭くなっている通路。
 倒してしまわないように気をつけながら足を進めると、視界が開けてすぐに目的の机が目に入った。
 ――そして。
「っ……」
 そこに、彼はいた。
 ……瀬尋先生、だよね。
 先ほどは着ていなかった白衣がオプションとして加わったせいか、化学の教師という印象が強くなる。
 が、ダンボールに囲まれて眉を寄せながらどこに何を置こうか悩んでいる姿は、先程までの“なんでもできる人”の雰囲気とはあまりにも違っていすぎて、思わず小さく笑いが漏れた。
「っ……」
「ん?」
「あ、え、っと……すみません」
 こちらに気付いた彼と目が合い、何もないのに謝ってしまう。
 ……今、絶対顔が赤くなってる。
 しどろもどろの返事しかできず、恥ずかしさから視線が床へと落ちた。
「さすがに、すぐには片付かなくてね。……何か用事?」
「あ、私は瀬那羽織(せな はおり)です。3年2組の化学の授業担当係です」
「ああ、2組の生徒さんなんだ。これから、よろしく」
 ぺこり、と頭を下げて自己紹介を済ませると、意外にも握手を求められた。
 思わず目を丸くして彼の顔を見るも、そこにはにこやかな微笑。
 その笑顔に見とれてしまいそうになりながら軽く首を振って自身を取り戻し、慌てて手を差し出す。
「お願いします」
「よろしくね。次の時間は、とりあえず実験室に集まってもらおうかな。みんながどこまで進んでいるのかを把握させてもらってから、授業をしようと思うから」
「あ、はい。わかりました」
 慌ててこちらも微笑を返すと、うなずいて同じように返してくれる。
 ――と。
「…………」
「ぇ……あの……」
 何も言わず、ただじぃっと見つめられた。
 まじまじと目を合わせられたままの時間など、初体験。
 それも、これだけカッコイイ年上の人にまじまじと見つめられて、スマートに対応できるほど、自分はまだ慣れてない。
「……あ、のっ。な……なにか、ついてますか?」
「え? あ、いや、ごめん。ちょっと知り合いに似てたから」
 やっとの思いでしどろもどろに声を出すと、慌てたように笑みを浮かべて首を横に振った。
 その姿がなんともかわいらしくて、つい笑みが浮かぶ。
「それじゃ、連絡よろしくね」
「はい」
「あ、羽織ちゃん」
「え?」
 大きくうなずいて、部屋をあとにしようとしたそのとき。
 背中に声がかかった。
「ごめん、ちょっと頼まれてくれる?」
 声の主は先ほどまでの彼ではなく、田代純也(たしろ じゅんや)という別の教師。
 彼は1、2年のときに自分たちの担任だったので、よく知っている。
 ……だけでなく、実際はほかにも繋がりがあるのだが。
「なんですか?」
「これ、渡しておいてもらえる?」
「わかりました。ちゃんと渡しておきますからね」
「よろしくね」
 ふふ、と意味ありげに笑った羽織を見て、純也は苦笑を浮かべた。
 失礼します、と頭を下げて部屋を出た彼女を同じように見送った祐恭が、純也に向き直って口を開く。
「誰に渡すか言わなくていいんですか?」
「ん? あぁ、平気だよ」
 不思議そうな祐恭の声に、純也は笑顔でうなずく。
 が、どちらかといえば、笑顔というよりも苦笑に近かったかもしれない。
 そんな彼を見て、祐恭が首をひねったのは言うまでもない。


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