「あ、おはよー」
 翌日。
 9時よりも少し早めに水族館の前へ行ってみると、もう絵里たちは揃っていた。
 てことは、しーちゃんたちも来てるはずだよね。
 でも……見当たらないなぁ。
「しーちゃんは?」
「あそこ」
 きょろきょろと辺りを見回してから絵里に尋ねると、顎でそちらを示した。
 確かにそこには山中先生と、しーちゃんの姿。
 だけど、お互いに肩を並べている私たちとは違って、ふたりは紙のようなものを指差し確認しながら話していて、まるで事務的なやりとりをしているかのように見える。
 表情がぎこちないというか……なんだろうなぁ。
 頬はお互いに、ちょっぴり赤くなってるような気がするんだけど、あんまりうまく話が進んでいなさそうというか……。
「さっきから、ずっとああなのよ。……ったく。男ならもっとシャキっとしろ、っての」
「……お前、言葉悪すぎ」
 小さくため息をついて田代先生がなだめるものの、絵里はもちろん気にしていない。
 そのあとも、あーだこーだと山中先生に対して文句を言っていたけれど、『あれじゃ先が思いやられるわ』と盛大なため息のあとは、もう何も言わなかった。
「それじゃ、ごはん食べに行きましょ。お腹すいたし」
「あ、そうだね。私もお腹すいた……」
 苦笑を浮かべてうなずいたのを見て、絵里がしーちゃんに声をかけた。
「詩織ーっ。先に行くよー」
「えっ、あ、今行くね」
 慌てたように小さく返事をした彼女の向かいで、山中先生も笑顔でうなずいた。
 ……と、同時に。
 しーちゃんの手を握ろうかどうしようかと悩んでいる姿が見えた。ばっちりと。
「…………」
 それに気付いて、早くしてくれないだろうかと待っている、しーちゃん。
 手が、伸びる。
 引っ込む。
 かと思ったら、また伸び……。
「ち。早くしなさいよ」
「……絵里。だからお前は……」
「山中先生、がんばって……!」
「あと一歩だな……」
 4人がそれぞれやきもきしながら見守っている中、ついに山中先生が――諦めて、とぼとぼと歩いてきた。
 途端、大きなため息がハーモニーになる。
「はー」
「……煮え切らないな」
 さすがの田代先生も、ぽつりと呟いた。
 ……うーん。
 なんだかこう……しーちゃんが気付いて待っているのが見えただけに、彼女サイドとしてはいたたまれない気持ちになる。
 だって、もし自分がしーちゃんだったら、すごく寂しい気持ちになるもん。
 引いてばかりじゃなくて、押して欲しい気持ちはやっぱりあって。
「……あとちょっとだったのに」
「だね」
 思わず祐恭先生を見上げると、やっぱり苦笑を浮かべて小さくうなずいた。
 でも、だからといってどうしたらいいのか、わからない。
 ……困ったなぁ。
「ごめんね、行こっか」
 しーちゃんが、すぐここにきたのを見た途端、絵里が田代先生に腕を絡めた。
「……お前」
「いいじゃない。せっかくの休みだし、何よりわざわざ他県まできたのよ? 最悪なパターンとしてほかの生徒に見つかるかもしれないけど……それ承知で付き合ってるんだし。ねー、純也?」
 慌てたように田代先生が反応したものの、彼は何も言わなかった。
 にこにこととても機嫌よく笑っている絵里はすごく幸せそうで、私まで嬉しくなる。
 絵里、本当に大好きだもんね。
 何度か見たことはあるけれど、やっぱり幸せそうな絵里を見るのはすごく嬉しい。
「……ん?」
 なんて思っていたら、絵里が咳払いして目配せをした。

『アンタも早くやりなさい』

 その目は、明らかにそう告げているように見える。
 うぅ……どうしよう。
 だって、私だよ?
 ついこの間初めて手を繋いで、初めて……キスをして。
 ……ええと。
 確かに、その……その先も、ちょこっとだけ進んだといえば、進んだんだけれど……。
「ん?」
 ものすごーーく悩みはしたものの、指先だけでそっと祐恭先生の手を握ってみる。
 あーもう、すごく恥ずかしい。
 今、絶対顔真っ赤だと思う。
 さすがに顔を見ることができず、でも、自分から行動できたことはすごく大きなことで。
 きゅ、と彼の指を握ってからゆっくり見上げると、意外そうな顔をされた。
「あ……」
 でも、それは一瞬。
 彼はそのまま、指を絡めるように手を握りなおしてくれた。
 嬉しいなぁ、すごく。
 笑みが浮かび、じんわりと胸の奥が温かくなる。
「っ……」
「本音だよ?」
「もぅ……恥ずかしいです」
「いや、そこは素直に喜んでほしいけどね」
 彼が、ふいに『かわいい』と耳元でささやいた。
 もちろん嬉しいですけど、恥ずかしいんですってば。
 でもそれは、ひょっとしたら彼の吐息がかかって、身体が反応しそうになったからかもしれない。
「し……詩織ちゃん!」
「えっ?」
 ――私たちを見ていたからか、山中先生の大きな声が聞こえた。
 私は知らなかったけれど、そんな彼に、先生たちが意味ありげな視線を送っていたらしいことは、あとで聞いた。
「僕らも行こう」
「あ……っ。……はい」
 かすかに震えるような声だったけれど、でも、山中先生がしーちゃんの手を取る。
「……やればできるじゃない」
 絵里が笑って小さく呟いたけれど、恐らく彼女たちには聞こえていなかっただろう。

 オープンカフェのお洒落な店にぞろぞろと6人で入っていくと、奥の広い丸テーブルへと案内された。
 もっと早い時間からオープンしているらしく、すでにお店の半分ほどはお客さんで埋まっている。
「……うん」
 いつもは決めるのが遅い私も、今日はあっさりとオーダーが決まった。
 理由は単純で、モーニングでメニューが限られていたからだけどね。
「決まった?」
「あ、ちょっと待ってね」
「えぇと……」
 絵里がしーちゃんに声をかけると、山中先生ともども困ったような表情を見せた。
「…………」
「…………」
 そんなふたりを観察していると、なんだかとてもよく似ているのに気付く。
 雰囲気もそうなんだけど、なんていうか……仕草も、っていうか。
 一緒にいるから似てるのか、それとも似てるから一緒にいるのかは、ちょっとわからないけれど。
「……祐恭先生、血液型何?」
「俺? Oだけど」
「羽織はAよね?」
「うん」
 絵里にうなずくと、視線をはずして小さくため息をついた。
「私もOなの。で、純也はA。血液型で性格なんて判断できないと思うけど……まぁ普段の生活ぶりからの仮定ね?」
「……うん」
 グラスのレモン水を含んで、絵里がさらに続ける。
 いつもとは違って小さな声だから、一生懸命にメニューとにらめっこをしているしーちゃんたちには届いてないらしい。
「A型は慎重でマメとかっていうじゃない? まぁ、多少神経質ともいうけど。で、Oは冒険心が強いっていうか……ヘンなところにこだわりはあるけど、基本、流せるタイプでしょ? んで、ABは天才肌の天然で、Bは唯我独尊できるっていうか自立心があるとかなんとか。だから、AとOはないものを補い合うって意味で相性がいいっていうんだけど。……あそこ。ふたりとも、Aなのよね」
 絵里が指差したほうを見て、思わず納得してしまいそうになった。
 同じような顔をして同じようにメニューを見ながら、同じような仕草で選んでいる、山中先生と、しーちゃん。
 確かに、祐恭先生と絵里は、なんというか……ぐいぐいいくタイプで。
 田代先生は、私と同じで受身というか、あとからついていくというか。
 ……でも、しーちゃんと山中先生はどちらからも手が出せない、受身同士。
 だからこそ、こんな事態に陥っているのかもしれない。
 慎重すぎて、相手を傷つけるのではないかと、不安でいるのかもしれないけど。
「孝之はAだけど、全然慎重じゃないけどね。マメだけど」
「そういえば、お母さんもそうかなぁ。慎重っていうより、どーんと当たって砕けろって感じだよ」
「ま、そんなもんでしょ。確率の問題だもの、住んでる環境もきょうだいも違うんだもの。それに、最近じゃ血液型じゃなくて生まれ順のほうがしっくりくるって言うしね」
 お兄ちゃんもお母さんも、きっと今ごろくしゃみしてるだろうなぁ。
 いい噂じゃなくて残念というよりは、ああ、我が家のことをひけらかしてしまった気がして、ちょっぴり複雑。
「……うん、決まったよ」
「そ? じゃあ、オーダーしましょ」
 しーちゃんがうなずいたのを見て、絵里がオーダーコールを押した。
 ピ、と小さな電子音が鳴ってしばらくすると、かわいらしいメイド服をまとった店員さんがにこにことオーダーを取りにくる。
「お決まりですかー?」
「AセットとBセットをひとつずつ、ブレンドとアイスティーで」
 絵里が終わったのを見てから、自分もあとに続く。
「えと、Bセットとパンケーキセットで、ホットティーのストレートとレモンをお願いします」
「かしこまりました」
 そして、最後。
 メニューといまだに睨めっこをしていたしーちゃんが、慌てたように顔を上げた。
「Aセットをふたつ、アメリカンでお願いします」
「アメリカンがおふたつですね。以上で、よろしいですか?」
 全員の顔を見てから異論が出ないのを確認すると、にっこりと笑みを浮かべて『かしこまりました』と店員さんが頭を下げた。
 彼女がテーブルを離れると同時に、なぜか絵里がため息をついて腕を組む。
「純也、じーっと見すぎ」
「は? 何言い出すんだ、お前」
 ジト目で絵里が睨むと、少し慌てたように田代先生がグラスを呷る。
 でも、そんな姿を苦笑交じりに見ながらグラスを手にした祐恭先生も、しっかりと絵里に同じ顔を向けられた。
「祐恭先生もね」
「っ、俺?」
「だってそうでしょ。お姉さん見てなかったの、うちら女子だけだったわよ? あからさまだなーって、ある意味感心したわ」
 否定しないということは、つまりその……そういうことなんだよね?
 たしかに、かわいい人だった。
 そしてそして、胸も大きかった。
 丈の短いスカートに、胸元がやや強調された制服で、私だってちょっぴりどきどきしたもん。
「……先生も見てたんですね」
「いや、そういうわけじゃ……ていうか、羽織ちゃんまで何言い出すんだよ」
 そうは言うけれど、視線を合わそうとしないのはどうしてだろう。
 じぃっと顔を覗きこむようにするものの、苦笑を浮かべた彼は田代先生へと向き直った。
「気のせいですよね」
「そーそ。思い過ごしもいいところ」
 うんうんとふたり揃ってうなずくけれど、絵里の勘が鋭いのを知っているからか、いっこうに視線を合わせようとはしなかった。
 そんな姿が、余計に怪しいとも知らずに。
「ふぅん。ふたりともああいう格好した子が好きなんだ。……悪かったわね。どうせ似合わないわよ」
「絵里は似合うと思うけどなぁ」
「それを言うなら、アンタでしょ! ……あら、あの店員さんイケメンじゃない?」
「え? あ、ほんとだ。ねえ、ちょっとだけ新しいスポーツドリンクのCMの人に似てない?」
「あー! わかる! あ、ほら見て。あの笑顔とか、超絶そっくり!」
 絵里が指差した先には、大学生くらいのお兄さんがウェイター姿で注文を取っていた。
 そんな私たちの視線の先を慌ててふたりが追ったのは、無理もない。
 ……でも、その様子が見れて満足しちゃった。
 どうやらそれは絵里も同じらしく、目が合うと噴き出すように笑って『しょうがないわね』とつぶやいた。 「えっ」
 急に話を振ったせいで、きょとんとした彼女も、少し苦笑を浮かべてからうなずいた。
「……あのな。彼氏が横にいるのに、よくもまぁそーゆー話で盛り上がれるよ」
「あら。先に話題提供したのはどっち? 男のサガって言葉が何にでも通用すると思わないでよね」
 ある意味日常のやりとりと思える田代先生と絵里の姿を見ていたら、今しがた盛り上がったふたりの店員さんがそれぞれモーニングを手にテーブルへ近づいた。
「Aセットのお客様ー」
 言われて田代先生が手を挙げると、もうひとつの置き場所を探す。
「えっと……」
「あ、彼女です」
 意外にも、山中先生がさらりとしーちゃんを手で示した。
 そんな姿に少しだけ目を丸くしてから、彼女が嬉しそうに笑ったんだけれど……山中先生、ちゃんと見てたかなぁ。
 しーちゃん、よかったね。
 はにかんだように笑いながら、山中先生を上目遣いで見ている彼女の視線に、山中先生ははたして気づいているだろうか。
「わ……おいしそう」
 それぞれの前に、オーダーメニューと飲み物が揃って、テーブルが一気に賑やかになった。
 私の前には、ホイップクリームが写真より高く添えられているパンケーキセットが。
 いかにもってくらい甘い香りが漂ってきて、匂いだけで幸せな気持ちになる。
「朝から、よくこんな甘いも食べられるね」
「え? 朝だからこそ、糖分は必要なんですよ?」
「……それ、同じこと孝之も言ってた」
「え!? うぅ、撤回させてください」
 目を丸くした彼にくっくと笑われ、なんともいえない気持ちになった。
 Aセットはトーストと厚切りベーコンにスクランブルエッグ、そしてサラダがついていて、Bセットはスクランブルエッグが目玉焼きになっているものだった。
「あれ、お前のほうにはマカロニサラダ付いてるのか」
「え? ああ、そっちはポテトサラダね。交換してあげてもいいけど?」
「マジか。気前いいなお前」
「失礼ね。いつだって優しいでしょ私は」
 絵里と田代先生がやりとりしている横で、ふと祐恭先生のプレートへ目を落とす……と、何やら見慣れた赤い小さな子がいる。
 当然のように彼の視線もそこにあり、かと思いきやふいに目があった。
「羽織ちゃん、トマト好きなんだっけ」
「そこまで好きなわけでは……」
「遠慮しなくていいんだよ? はい、どうぞ」
「……もぅ。たまには食べてあげてくださいよ」
「トマトの栄養分は間に合ってる」
 にっこり笑ってお皿へよこされ、笑うしかなかった。
 でも、きっとこのやりとりはずっと先もなくならないんだろうなぁ。
 そのたびに、私は思い出す。
 あの実験室でのことを。
「詩織ちゃん、おいしいね」
「おいしいですね」
 お互いに別のものを頼んであれこれ話す私たちとは違って、同じ物を同じく幸せそうに食べるふたり。
 にこにこと微笑みながら何やらふたりだけの世界を作り出しているので、あえて誰も声をかけようとはしなかった。
「……あ」
「え?」
 ふいに、顔を覗き込んだ彼が私へ手を伸ばした。
「付いてるよ」
「え?」
 そちらを振り向くと同時に、頬についたクリームを指で拭われる。
 だけじゃなくて、ぺろりと舐めたのが見え、たちまち目が丸くなる。
「っ……す、みません」
「いいえ」
 優しい眼差しで微笑まれ、思わず頬が赤くなった。
 そんな私たちを、絵里と田代先生がにやにやと見ていたのに気づいたのは、少し経ってから。
 ふたり顔を見て、また顔が熱くなる。
「朝から、いちゃつかないでよねー」
「えぇ!? そういうつもりじゃ……」
「ご馳走さまー」
「っ……絵里!」
 ひらひらといたずらっぽく手を振ってあしらわれ、思わず眉を寄せる。
 でも、顔が赤いのは当然わかっていて。
 まったく説得力がないせいか、絵里はさらにおかしそうに笑った。
「……よかったわね、羽織」
「っ……うん」
 途端に表情を変えた絵里に、思わず笑みが浮かんだ。
 だって、今のひとことはからかいから出たものじゃないんだもん。
 いろんな意味の、『よかったね』だから。
「え?」
 ――と、今度は田代先生が絵里に手を伸ばす。
「お前も、ついてるよ」
 彼女が振り返った瞬間、唇の端を親指で拭ってから、田代先生が先ほどの祐恭先生と同じように舐め取った。
 そんな姿に目を丸くした絵里が、頬を赤らめてからぱくぱく口を開ける。

『何すんの、アンタ……!』

 まさに、そう言いたげな顔で。
「絵里が照れてる……」
「っ……! 違う!」
「違わないよー。あはは、かーわーいーいー」
「お馬鹿!!」
 いつもと違って反応がかわいかったから、先ほどの絵里と同じように今度は私が彼女をじりじりと追いやる。
 対照的に、田代先生は何事もなかったかのようにブレンドへ口をつけた。
「えへへ。いいもの見ちゃった」
「あー! しつこい!」
 いつもは強がっている絵里も、やっぱり田代先生の前ではただの女の子なんだなぁ。
 そんな一面が垣間見えて、なんとなく嬉しかった。

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