「夏休みの間、一緒に暮らさない?」
「え……?」
 海への旅行から帰ってきてすぐの、マンションのリビング。
 すぐに荷物を整理し始めた羽織ちゃんが落ち着いたのは今しがたで、マメだなと素直に思った。
 すでに洗濯機は動いており、ほどなくすればまた彼女は片付けるべく動くんだろう。
 そういう意味で言えば、孝之とマメさは似てるとも言える。
「いい、んですか?」
 きっと、かなりどきどきしてるんだろうな。
 嬉しい反面、本当にいいのかなとでも言いたげな顔をしたのを見て、改めて引き寄せる。
「もちろん。ご両親にはちゃんと話しに行くし……まぁ、わかってもらえるかわからないけれど。でも、今年受験でしょ? だから……家庭教師代わりに勉強教えてあげることくらいはできるから……っていうのを名目にしたらマズいかな」
 自分で言っておきながら、随分と都合のいいことばかりだな、と思わず苦笑が漏れた。
 だが、できる限り彼女と一緒にいたいという思いがあるからこそ、言い訳してまでも許してほしい。
 たしかに、受験生にとってはこの夏が1番大切だ。
 だが、塾などの予定がないのであれば、自分がつきっきりで勉強を教えてあげることができるから。
 ……というのが、言い訳のひとつ。
 そう。
 結局は、どれもこれもが言い訳。
 やはり、普段一緒にいられる時間が限られてしまっているからこそ、こういった長期休暇は一緒にいたかった。
「……私も……そうできたらいいなって、思ってたんです」
 ぽつりと呟いた彼女の言葉に、つい大きく反応していた。
 無理かもしれないと思いながら口に出した言葉だからこそ、余計に。
 相手は、まだ高校生。
 それでも、彼女が賛同してくれたことが、何よりも嬉しかった。
「よかった。それじゃあ、実現できるよう……ご両親の承諾をもらわなくちゃね」
「はいっ」
 羽織ちゃんへ手を伸ばすと、にっこり笑ってうなずいた。
 満面の笑みに嬉しそうな色がうかがえ、素直に嬉しい。
 ああ、こんな気持ちになるものなんだな。
 自分でも知らない自分の部分がわかるようで、若干くすぐったくもある。
「……ん」
 どちらともなく口づけ、離れてすぐ目を合わせる。
 いつもそう。
 嬉しそうなのに、照れたようにうつむく姿がかわいい。
 ……そう。かわいいんだよ。彼女は。
 だからこそ、この年で一時期とはいえ同棲のお願いなんて……認めてもらえないだろうな。
 弱気になるのもいたしかたない。
 俺は、彼女の父を知っている。それこそ、公私ともに。
 だからこそ、果たして彼がどう言うか、そしてどう思うかに思いを巡らせる。
 高校生のころから孝之とは付き合いがあり、それこそ自宅にお邪魔したことは数知れず。
 最初は『先生の家』ということもあって緊張もしたが、孝之とつるむことで学校での負の場面も多く見咎められ、ほどなくして緊張というよりは申し訳なさのほうが強くもあった。
 全部知ってるんだもんな。俺のこと。
 すでに数年前とはいえ、記憶にはまだ新しい高校生のころの自分を思い出すと、乾いた笑いしか出ない。
 果たして、瀬那先生にこの打診をしたら、返答はどうだろうか。
 いくら教師と生徒という立場で結婚されているとはいえ、娘が同じように教師を連れてきたら?
 しかも、その教師と夏休み中一緒に暮らすなどと言われたら……。
 素直に『いいよ』と言えるかどうかは甚だ(はなは)疑問だ。
 なんてことを考え出したらキリがなく、どんどん不安が大きくなっていく。
 ……やっぱり無謀か。
 ましてや、一緒に住むということはそれなりに男女の関係というのも視野に入ってくるだろうし。
 あー……さらに許してもらえなさそうだな。
 すでに彼女とはそういう関係になったものの、そんなことはもちろん言えるはずなく。
 だが、それゆえにやはりこの提案をお願いしにあがるというのは、なんとも厳しいものが……。
「先生?」
「え? あ、ごめん。ちょっと考えごと」
 不安そうに俺を見た彼女に慌てて笑みを浮かべ、考えを振り払うように首を振る。
 ……俺が不安になってどうする。
 俺よりもずっと不安で心配なのは、当人である彼女なんだから。
「それじゃあ、まずはやっぱりご両親へ挨拶に行こう。了承をもらえたら、そのときに荷物を持ってきてもらって……それから、日用品でも買い出しに行こうか。ウチ、何もないし」
 冷蔵庫を見てもらえばわかるだろうが、食材はもちろん、基本的に炊事をしないのでキッチン用品もほとんどない。
 あと必要なのは、こまごまとした雑貨か。
 それらは彼女に書き出してもらうのがいちばんだとは思うけれど、まずはご両親の了解を得ること。
 それが終わってからでないと、やはり行動に移すことはできない。
「ご両親って、今日いるかな?」
「あ、はい。いると思います」
 うなずいた彼女の頭を撫でながら、思わず苦笑が浮かんだ。
 これから彼女がするであろう、反応が目に浮かんで。
「今から会いに行こうか」
「え!? い、今からですか?」
「うん。早いほうがいいだろうし。……何より、了解を得られないと落ち着かなくて」
「……それは……そう、ですよね。わかりました」
 案の定、少し困ったような反応をしたが、それもそうだと納得してくれたらしく、顔を上げてからにっこりと笑う。
 素直なのが、彼女のいいところ。
 そういう意味で言えば、孝之とはやはり違うか。
「それじゃ、出ようか」
「はい」
 立ち上がってから車のキーを持ち、彼女の背に手をやる。
 ……しかし、結婚の挨拶みたいだな……。
 思わずそんなことを考えたあとで、何を考えてるんだと苦笑が漏れた。

「夏休みいっぱい? 羽織と?」
「はい」
 ところ変わって、瀬那家のリビング。
 目の前には、お茶を入れてくれているお袋さんと、その緑茶を含む瀬那先生。
 ……緊張する。
 何がって、こうしてご両親の前に彼女と並んで座っているのが。
「けど、そんなに長い間羽織が一緒だと……祐恭君、鬱陶しいわよ?」
「え? いや、そんなことは――」
「だって、この子ってば放っておけばいつまでも夜起きてるし、いつまでも朝寝てるし。もう、だらだらした生活してて困っちゃうんだから。今年は受験でしょ? なのに、この大事な夏休み中にもかかわらず、祐恭君と暮らしてたってそんな生活するかもしれないのよ?」
「おおお母さん!? 何もそんなこと、今話さなくても――」
「だって、本当のことじゃない」
「うっ」
 いらぬことを言われたらしく、彼女が抗議するがさも当然とばかりにさらりと肯定。
 そんなふたりのやり取りに、思わず苦笑が漏れた。
「ねぇお父さん。どう思う? 祐恭君に迷惑がかかると思うんだけれど……」
「……うん、そうだな」
 小さく呟いたお袋さんと、その言葉にうなずいた瀬那先生とを見ていたら、両方と目が合った。
 ……これは気まずい。
 思わずごくりと喉を鳴らし、一体何を言われるのかとヒヤヒヤし……たものの、こちらの予想をはるかに裏切る言葉が聞こえた。
「しかしながら、私も同じような思いをしたことがあるからね。無碍に駄目だとは言えないよ」
「え……? そうなの?」
「やだー懐かしいわー」
 意外なセリフで羽織ちゃんが目を丸くすると、少し照れたようにふたりがうなずいた。
「ほら、お父さんとお母さんも、同じような立場だったでしょ? だから、やっぱり夏休みとか冬休みとかの間は一緒にいたいと思っていたのよ。だけど、おじいちゃんに反対されてねー。でも、どうしても一緒にいたくて……ねぇ?」
「そうそう。あのときの母さんにはびっくりしたよ。『一緒に暮らせないのなら、受験しない!』なんて言い出すんだから」
「えぇー!? そ、そんなこと言ったの?」
「……そうなんですか?」
「うっふっふ。まぁ、昔の話よ。昔の。若気の至りっていうのかしら」
 昔は、まさに猪突猛進だったわ。
 彼女同様に驚いてお袋さんを見ると、困ったように頬を染めてうなずいた。
 まさか、そんなことを言い出していたとは……。
 そう思うと、彼女と似ているような似ていないような不思議な感じだ。
「だって、お父さんと一緒にいたかったんだもの。まぁ、それでもちろん成功したけどね」
 ぶい。
 と、ピースをして見せた彼女に、親父さんが苦笑を浮かべた。
 ……なるほど。
 きっと、このふたりは昔からこんな調子だったんだろう。
 若かりしころの様子が思い浮かんで、少し微笑ましかった。
「家に連れて帰ってからかなり叱ったんだが……でも、一緒にいたかったなんて言われたら、やっぱりかわいくてね」
「やーだー! もう、お父さんってば!」
 ばしばしと彼の背中を叩きながら照れる彼女は、やはり羽織ちゃんに似ている気がした。
 純粋に相手を思うところが、彼女にそっくりだ。
「だから……まぁ、ふたりが暮らすことに関しては、別に反対はしない。それに、羽織はどうせひとりじゃ勉強しないだろう? だったら、祐恭君のそばでみっちりとしごいてもらったほうがいいだろうから」
「そうねぇ。祐恭君、できの悪い娘だけど……よろしくね」
「あ、いえ。ですが、もちろん勉強面に関しましては、厳しくするつもりでいますので」
「ぇぇっ!?」
 慌てたような彼女の反応が聞こえたが、あえて何も言わない。
 ふたりが言うことは間違ってないし、元よりそうするつもりだったから。
 何より、彼女は今年大事な受験を控えている、まさに受験生なんだし。
 彼氏ができたせいで学業がおろそかになった、なんて言われた日にはどう責任を取っても取りきれない。
 彼女には、未来がある。
 それを叶えるために、今、勉強してるんだから。
「でも、この子本当に生活態度悪いから、呆れたらいつでも追い出してくれていいからね?」
「そうそう。甘くしなくていい。羽織はすぐ、楽なほうへ流れてしまうクセみたいなものがあるからな」
「……そんな。私、ものすごく悪い子みたいじゃない……」
「はは、わかりました。何かあったときには、すぐにご連絡します」
 しっかりとうなずいてから彼らに微笑むと、ふたりも顔を見合わせてからうなずいてくれた。
「それじゃあ、娘のことよろしく頼むよ」
「お願いね」
「はい」
 改めてふたりに頭を下げ、リビングをあとにして彼女の部屋へと上がる。
 了解が得られたあとは、荷物の整理。
 そう決めていたからとはいえ、部屋へ入ってすぐ彼女が『教科書持っていきます』と苦く笑った。
「勉強道具はもちろんだけど、鞄とか服とか……必要な物は全部持ってきて。あ、もちろん制服もね」
「え? 制服もですか?」
 きょとん、とした顔で聞き直す彼女の頭に手をやってから――にっこりと顔を覗き込む。
「夏期講習と模試があるの、忘れてないよね?」
「あ」
 やっぱり。
 小さくため息をつくも、彼女はかわいらしく笑ってから荷物をまとめ始めた。
「……でも、ずいぶんすんなりと許してもらえたな。正直驚いたよ」
「やっぱり、相手が先生だからじゃないですか?」
「俺だから?」
「ふたりとも、何かにつけて先生のこと話してますよ」
「そうなの?」
「うん。あんなにいい青年はいないとか、お兄ちゃんと取り替えたいとか……」
「……へぇ。それは光栄だな。じゃあ、期待を裏切らないようにしっかりしないとね」
 予想外のことばに笑うと、彼女のほうこそ嬉しそうに微笑んだ。
 信頼してもらえていると知った以上、裏切るようなことは絶対にできない。
 それが、信頼というものの重さだと知っている。
「荷物はこれで全部?」
「大丈夫……だと思います」
 学校用の鞄と旅行用バッグ、そして制服のかかったハンガーという、割とコンパクトな荷物。
 それらを持って1階へ降りると、リビングでテレビを見るふたりの姿がそこにあった。
「それでは、失礼します」
「あ、はーい。何かあったらすぐに言ってね」
不束(ふつつか)な娘だけれど、よろしく頼むよ」
「大切にお預かりします」
「じゃあ、行ってきます」
 背中にいた彼女が顔を覗かせると、ふたりがにっこりと微笑んだ。
 ああ、なんか……ちょっとくすぐったいな。
 頭を下げてから玄関を出て、車庫前に停めていた車へ荷物を積み込む。
 隣の助手席には、もちろん彼女。
 顔を見合わせてからエンジンをかけると、来たときとは比べ物にならない安堵感が身体いっぱいに満ちていた。
「それじゃ、行こうか」
「はいっ……!」
 こくん、とうなずいた彼女を見てから、ギアを入れる。
 今日から、正式な夏休み。
 彼女がいる、我が家での特別な生活がいよいよ幕を上げた。

 一方。
 羽織と祐恭があとにした瀬那家のリビングでは、両親が揃っておかしそうに笑った。
「……なんだか、思い出しちゃうわね。昔のときのこと」
「そうだな。まさに、子は親を見て育つ、か」
 ふふっと笑いながら母がお茶をひとくち飲み、苦笑を浮かべた彼の腕を取る。
「でも、お陰でこうしてふたりきりになれたんだもの。私たちもいい夏休みを過ごしましょうね?」
「ははは、そうだな」
 年月を経た今も、ふたりは相変わらず仲が良かった。
 ……それはいいとして。
 すっかり孝之の存在を忘れているあたり、やはり羽織の両親というべきだろうか。
 ちなみに、彼が土曜出勤から帰ってきたとき、『なんでアンタいるの』とでも言いたげに怪訝な顔を母が見せたことを付け加えておく。


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