……あぁ、そうか。そういえば、あの日もそうだったな。
 海に行く約束をしたあの日。
 あのとき、彼女には4時ごろに起きて……と言ったのだが、結局あの日は寝ずに朝まで書斎にこもってしまっていたのだ。
 そのときの疲れが、今になって出たのかもしれない。
 徹夜して疲れきるようなことはこれまでなかったが、ここ数日珍しく外に出る予定が入っていたため、突然的な睡魔が襲ってきたのだろう。
「……ねむ」
 小さくため息をついてから論文に向かっていると、しばらくして洗面所の引き戸が開いた。
 弾かれるようにそちらを見れば、思った以上の彼女の姿に瞳が開く。
 ……目が覚めた。
「? なんですか?」
「……いや……ちょっと」
「え?」
 思わず、彼女を手招く。
 不思議そうな顔で俺を見て、首を傾げてから近づいてきた彼女。
 ピンクの布地に、プリントされた雪ウサギ。
 それだけでも十分かわいかったのだが、彼女が着ると若干大きかったらしく、胸元が少し開いていた。
 ぺたぺたとスリッパを履いてやってきた彼女だが、袖が長いためか指先しか見えていない。
 同じように、ズボンも長いため、スリッパに軽くかぶっていた。
「……どうしたんですか? そんな……」
 椅子に座っているので、いつもとは逆に彼女を見上げるかたち。
 ゆっくりと、彼女の頬へ手を伸ばすと、少し顔を赤くした。
 予想以上のかわいさ。
 よく、男物のシャツを着せるのが男の欲望のひとつなどと言われているが、これもそれに近い。
「……かわいいなぁと思って」
「っ……せ、せんせ……」
 少し困ったような顔をして口元に手を運ぶと、肘を曲げてもなお指先が見える程度だった。
 ……やはり、このパジャマを彼女に見せたのは正解だったな。
 当たり、と言ってもいい。
「……でも、少し大きくて」
「そんなことないよ。……むしろ、それはそれで」
「え? そう……ですか?」
「うん」
 微笑んで首を振るも、彼女は不思議そうな顔。
 まぁ、それはそうだろう。
 彼女にそのよさを語ってわかってもらえるかどうかは、疑問だ。
 むしろ、迂闊に口にして、着るのをやめられでもしたらかなわない。
「いいね。目の保養」
「……もぅ。だったら、先生のほうこそ――」
 立ち上がって彼女の耳元へ手を伸ばし、頭のうしろへ手を回してから、そっと唇を近づける。
「かわいいよ、すごく」
 それだけ言ってから顔を覗くと、困ったように眉を寄せた。
 頬を染めてから見せるその顔が、たまらなく愛しい。
 ……やっぱり、ひとりにしていくのは心苦しいな。
 彼女に口づけをしながらそんなことが浮かび、小さくため息が漏れた。
 よりによって、こんな時に学会とは。
 これまでの自分なら、考えられないことだ。
 女よりも、友人。
 友人よりも、どちらかといえば研究。
 そうして、時間を費やしてきた自分なのに。
 ……まさか、研究馬鹿から彼女馬鹿になるとは。
「は……ぁふ……」
「……ん。いい声」
「っ……せんせ……」
 目が合った彼女に笑みを見せるも、やはり口づけは1度じゃ済まなかった。
 結局、この夜も彼女弄りに精が出てしまい、論文は朝方に起きて打ち込むことになった。

 ――……翌日。
 いよいよ、明日は彼女を残して京都へと行かなければならない。
 ただでさえ彼女をひとりにするのは気が引けるのに、一晩、家を空けなければならないというのが心苦しかった。
 ……やはり、彼女を離したくないというのが本音。
 だが、学会に出向かないわけにも行かず。
 できることならばその日のうちに帰ってきたいのだが、なかなかそうも行かないのが面倒くさい付き合いというもの。
 ほかの学者連中と酒を飲むくらいならば、彼女と過ごしたほうが何万倍もマシだ。
 1日とはいえ、彼女の温もりがなくなる。
 それを考えただけでも、結構ヘコんでいる自分がいた。
「はいっ」
「ん?」
「明後日の分もやっておきましたから。このまま持っていってもらえば、皺にならないと思います」
「ありがとう。……しかし、器用にやるね。感心する」
「そんな……アイロンぐらいで感心しないでください」
 久しぶりに見た、ぴしっとアイロンされたシャツ。
 いつも面倒で形状記憶かもしくはクリーニングに出してしまっていたので、誰かにアイロンしてもらったシャツなど久しぶりだった。
 器用に家事をこなす女性というのは、やはり魅力的。
 なんでもそつなくこなす人のことを“器用貧乏”というが、あながちそうではないと思う。
 どれかひとつ突出していても、ほかがまるでダメというよりは、なんでもそつなくこなす人間のほうが生きるためには得だと思うから。
 化学に関しては誰にも負けない人間でも、結局ほかのことができないのでは……人としてどうだろう。
 我が身を振り返りつつ、恋愛に関しての勝者になれたことを、本当に誇りに思う。
「もう、準備はできてるんですか?」
「うん。あとは遅れないように行くだけ」
「よかった」
 ふっと笑った彼女が、どこか寂しげに瞳に映った。
 少しだけうつむいたのを見て、さらにその気持ちは色を濃くしていく。
「……あ。お風呂たまりましたね。先にどうぞ」
「いや、羽織ちゃん入りなよ」
「もぅ。明日お仕事の人が先」
 ね? とばかりに首を傾げられ、思わずその頬に手を当てていた。
「じゃあ、一緒に入ろうか」
「……っえ……」
 途端、彼女の瞳が丸くなる。
 と同時に、頬に少し赤みがさした。
 そんな彼女を抱き寄せて、耳元で囁くようにしてやる。
 ……相変わらず、ズルいな。
 こうしてしまえば、彼女が『うん』としか言わないのを知ってるのに。
「明日は、そばにいてあげられないし。……ダメ?」
「……でもっ……あの……」
 困ったように眉を寄せた彼女の両頬をそっと手で包み込んでやると、自然に瞳が合う。
 必死に逸らそうとするのはわかるが、そうさせてやるほど優しくないんだ。俺は。
「……イヤ?」
「っ……嫌じゃ……ないけど……」
 困ったように、上目遣いで見てくる彼女。
 ……よし。
 ここまでくれば、あと少し。
「じゃあ、入ろう? 先に入って待ってるから」
「……ぅん……」
 してやったり。
 瞳を伏せがちにしながらも小さくうなずいたのを見て、思わず笑みが浮かんだ。
「いつでもおいで」
 頬に口づけをしてから立ち上がり、先に洗面所へ向かう。
 恐らく、今ごろ彼女はどきどきしながら困っているだろうが、こうしてしまえばあとはこちらのもの。
 彼女ならば、1度した約束を破らない。
 先に浴室に入ってシャワーを浴び、さっさと髪を洗ってしまう。
 ……また伸びてきたな。
 つ、と前髪をつまんでそんなことを考えるものの、よく行く美容院の店長は結構クセがあるので、あまり好きじゃなかった。
 昔から行ってはいたが、なんとなく行きづらいんだよな。
 そのため、ぎりぎりまで粘ってから行くようにしていた。
 ……あの人と係わり合いを持つのは、最低限でいい。
 小さくうなずいてからコックをひねると、泡が床に広がった。
 簡単に身体を洗ってからシャワーに手を伸ばす――……と、背後で小さな音。
 ……きたな。
 思わず笑みがこぼれる。
 ざっとシャワーで泡を流してから、雫がこぼれる髪をかき上げ、湯船に浸かってそっとドアに手をかけてやる。
「……っ! っな……んですか?」
「いや、入りにくいかなぁと思って」
「……う」
 図星だったらしく、困ったようにタオルを握る姿がそこにはあった。
 ふっと小さく笑って掌を差し出すと、少し驚いた顔。
「おいで」
「っ……。……うん」
 手を握ってやってから中に導く。
 恥ずかしそうに俯いてシャワーに手を伸ばす彼女を、ついまじまじと見てしまった。
 やはり、普段こうして見ることができないせいか、つい目が行く。
 細い身体。
 華奢というか、小柄というか。
 自分と同じ物を食べているはずなのに、どうしてこうも体格が違うのかと不思議になる。
 ……まぁ、相手は女の子なのだから当然といえば当然なのだが。
 ざっと髪を洗って前髪を上げた彼女は、少し大人びて見えた。
 いつもと違う彼女。
 その姿を見れただけで、十分得した気分になる。
 ……まぁ、一緒に風呂に入れたこと自体がかなりの奇跡なのだが。


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