「それじゃ、実行委員は瀬那と皆瀬ね」
 遠足の実行委員決めのHRの時間。
 立ったままチョキを出していた絵里と、そのとなりで眉を寄せた羽織は、教卓のうしろで“グー”を挙げにこやかに笑う日永を見て、軽いめまいを覚えた。
 当然、クラスの人間は誰ひとりとして異議を唱えるものはなく。
「…………」
「…………」
 ふたりは顔を見合わせて、大きな大きなため息を漏らしたのであった。
 祐恭が赴任してから、1週間ほど経ったある日のHR。
 結局、誰も遠足の委員を立候補でやりたがる者はおらず、じゃんけんでの選出になったのだ。
 こういうときに限って、運のいい人間がいる。
 日永に対して、絵里がさっくりと負けた。
 そして、絵里は羽織を相方に指名したのである。
「それじゃ、しおりは遠足の1週間前だから……そうね、草案は来週中に出してもらって、2週間後には完成させてちょうだい」
「えぇ!? そんな、無茶な!」
「無茶じゃないでしょ。2週もあるのよ? 14日よ? 大丈夫大丈夫。あ、くれぐれも手抜きしちゃダメだからね」
 にこりと笑う日永だが、結構気合を入れているのがわかる。
 彼女は古典の教師。
 京都という場所をこよなく愛している。
 もっとも、それがびしばしと伝わってくるから、余計に気が重いのだが。
「今回の遠足は京都への学習をかねた、1泊2日の旅行ね。あとで詳しい日程表を渡すから、くれぐれもちゃんとした物作ってよ?」
「……はぁーい」
「わかりました」
 渋い顔で返事をしたものの、再度絵里と羽織は顔を合わせ、ため息をついた。

「できた? 草案」
「そういう絵里は?」
 草案提出の締め切りが迫った、とある放課後。
 いよいよ明日、草案を提出しなければならない。
 しかし、そんな日にかぎって図書室が書庫整理で入れないため、場所を化学実験室に移して話し合っている。
「んもー、ふたりとも邪魔ー。やらないならあっちでやってよねー」
「……冷たいなぁ。もぅ」
「ホント。同じクラスだってのに、こういうときは鬼ね」
 挙句の果てに、ほかの部員にまで邪険にされる始末。
 しかたなく、ふたりでいちばん隅のテーブルに移って作業していると、そこに祐恭が近づいてきた。
「なんだ。部長と副部長そろってサボり?」
「もー。先生そう言わないでよー」
「そうですよ。切羽詰ってるんですもん」
 絵里と口を尖らせたのを見て、祐恭が苦笑を浮かべる。
「明日が期限だっけ。まぁ期待してるから」
 ……期待。
 その言葉がずしりと両肩にのしかかり、またため息が漏れた。
 どうせなら、副担任としてアイディアを出してくれてもいいのではないかとも思うのだが、部員に呼ばれたらしく、そちらのテーブルへと行ってしまった。
 そんな後ろ姿を見つめてから、再び作業へ。
 始めの内は冗談交じりにやっていたのだが、時間が経つにつれてお互いに無言になり、いつからかパラパラと資料をめくる音だけが響くようになっていた。

 気付いたときにはもう、外は真っ暗だった。
 当然ながらも部活動はすでに終了し、部員たちもこの場をあとにしている。
 残っているのは、羽織と絵里のふたりだけだ。
「はぁーーー、間に合ったぁ!」
 時計が19時を指そうとしたとき、絵里の声ががらんとした実験室に響いた。
「もうヤダ……」
 へたん、とテーブルに突っ伏す羽織をよそに、絵里は嬉しそうに両手を腰に当てて小躍りを始める。
 そんな姿を見ていたら、少し元気が戻ったような気がした。
「こんな時間までやってたの? お疲れさま」
 準備室側のドアが開くと、身支度を整えたらしく、鞄を持った祐恭が姿を現した。
 白衣ではなく、きちんとスーツを着込んでいる。
「ホント、疲れましたよー。それじゃ、そろそろ帰ろっか」
「うん、ホントにもう疲れた……」
「お疲れ」
 元気な絵里とは違い、なぜかやたらと羽織は疲れている。
 両手をテーブルについてから、へろへろと立ち上がる姿を見て、祐恭も苦笑を浮かべた。
「あ、そうだ。じゅ……じゃなくて、田代先生って戻ってます?」
「ん? いや、まだ帰ってきてないよ」
「そっか」
「なんだ、何か用でもあったの?」
 不思議そうな顔の祐恭に、絵里は首を横に振りながらも少しだけ残念そうな顔を見せる。
 それも無理はない。
 いつもは、彼と一緒に帰るからだ。
「うん、まあ、ちょっとね。じゃあ、しょうがない。羽織、足ある?」
「んー、多分お兄ちゃんがいると思うけど……」
 スマフォを取り出し、メッセージのアプリを立ち上げる。
 時間でいえば、すでに帰宅していてもおかしくない時間。
 だが、日によってバラツキがあるため、確証はない。
「……うーん」
 なんて送ればいいんだろう。
 迎えにきて? それとも、お願いがあるんだけど……?
 すでに、学校から自宅方面へのバスはなく、徒歩で帰るか車を呼ぶかの選択肢しか残っていない。
 かと言って家にある2台の車の所有者は父と兄しかおらず、母に連絡をとったところでどうにもならないのが現状。
 恐らく、父はまだ仕事だろう。
 だとすれば、今の時間ヒマなのは兄のみ。
「………………」
 すでにプロ野球が開幕した今、きっと家に帰った彼はリビングのテレビ前であーでもないこーでもない言いながら野球を見ているに違いない。
 二度目だが、ヒマなのは彼だけ。
 ……だが、迎えにきてくれと言ったところで、はたして素直に応じてくれるかどうか……。
「送っていこうか?」
「えっ」
「え、なになに? いいんですか?」
 もしかしたら、うーんうーんとうなっているのを見られたのかもしれない。
 ぼそり、と小さく呟いた彼の言葉で、絵里と顔を見合わせてから彼へと視線を移す。
「ホントに? 本気? マジ本気?」
「……すごい言葉だな。うん、本気。いいよ別に。……あー、ただしほかの子には内緒にして」
 絵里の言葉に苦笑を浮かべながらも、小さくうなずいた彼を見て、たまらず笑みが漏れた。
「らっきー! じゃ、お言葉に甘えてー」
「いいんですか?」
「うん、いいよ。もうバスもないし、帰りの足もないんでしょ? こんな時間に女の子ふたりきりで帰らせるのは危ないしね。男なら放っておくけど、そうはいかないかな」
 一応、副担任だし。
 そう笑顔でうなずいた祐恭に、ぺこりと頭が下がった。
「それじゃ、お願いします」
「ん、了解」
 それを見て、絵里はスマフォを操作し始めた。
 タップの具合からして、メッセージと思われる。
 相手は恐らく、純也だろう。
 目が合うと、なぜか知らないがにやりと絵里が笑った。
「それじゃ。お願いしまーす」
「了解。じゃ、プレハブ校舎の前にいてくれるかな」
 教師と生徒は玄関が違うため、待ち合わせ場所を決めてからわかれて昇降口へ。
 離れになっているプレハブ校舎の奥に、教員用駐車場があるのだ。
「先生、どんな車かしらね」
「んー、どうなんだろうね。雰囲気からして、普通の乗用車って感じもするけど」
 すっかり夜になった空を見ながら、絵里とともに昇降口から約束の場所へと向かう道中。
 あーでもないこーでもないといろいろな話をするのは、やはり楽しい。
 始めは祐恭の話をしていたはずなのに、いつしか純也のことへと話題が移っていたが、結局彼が来るまで話が途切れることはなかった。
「あ」
「お待たせ。……ちょっと狭いけど、いいかな」
 職員玄関の方向から歩いてきた彼が、ポケットから取り出したキーを弄る。
 途端、ピ、と電子音がしたかと思うと、すぐそこにあった車のハザードが点滅した。
「先生の車って、これ?」
「うん。意外?」
「え、と……予想してなかった、というか……」
 思わず丸くなった瞳のまま、運転席のドアを開けられた車を眺める。
 先ほどまで絵里と話していた中には出てこなかった、車種。
 それは、間違いなく目をひかれる真っ赤なRX−8だった。
「先生なら、それこそフィットとか……えーと、なんだっけ?」
「CR−Z?」
「それの前」
「シビック?」
「そう! それ!」
 びし、と絵里に指差されて笑うと、祐恭が笑った。
「そんなに、俺はホンダ好きそう?」
「や、えっと……そういうわけじゃないんですけれど」
「まあ、よく言われるよ。こんなのに乗ってるのか、って」
 後部座席を片付けながら笑った彼が、暫くしてからルーフ越しにふたりを見た。
「どうぞ」
「あ。それじゃ私、後ろで」
「えっ、ちょっと!」
 助手席のドアを開けてからうしろのドアを開き、さっさと乗り込もうとする絵里に慌てて声をかけるが、もちろん聞いてなどいない。
 仕方なく断りを入れてから羽織は助手席に座り、運転席に乗り込んだ彼を見る。
「……いいんですか? 私が助手席なんか座っちゃって。……彼女さんに怒られちゃうんじゃ……」
「ああ、気にしないで。アイツは乗らないから」
 アイツ、といういかにも親しい間柄を示す呼び方に、ちくん、と少しだけ胸が痛くなる。
 別に、悔しいわけじゃない。
 悲しいわけでもない。
 ただ、自分はやっぱり子どもなんだなと思っただけ。
「じゃ、道案内よろしく」
「はーい。それじゃ、信号真っすぐでお願いします」
「了解」
 独特のエンジン音に、思わず羽織は頬がゆるみそうになった。
 兄の車とも、父の車とも違う、音。
 ギアが入ってスムーズに動き出したのを感じると、なんとも言えない優越感が広がり始める。
 ……と、そこで小さく流れている曲に今気付いた。
「先生、このアーティスト好きなんですか?」
「うん。昔から聞いてるから、どうしても聞くことは多いかな。でも、よくわかったね。これ、昔の曲でメジャーってわけでもないのに」
 少し驚いたように答えた彼へ、『当然でしょ』と絵里が先に反応する。
「羽織、このアーティスト好きなんですから」
「そうなんだ。じゃあ、アルバムとか全部ある?」
「ありますよー。だから、これもよく聞きます」
 信号で止まった拍子に、小さく笑ってギアに手を置いた彼と目が合う。
 ……かっこいい、よね。
 思わず見入ってしまい、小さく喉が鳴る。
 普段、明るい場所でしか見ない彼の顔。
 それが、こうした暗い所だとまったく違った雰囲気だった。
「瀬那さんは、どの曲が好き?」
「え? あ、えっと……これも好きですけれど、前のアルバムも好きです」
「あー、なるほどね。たしかに、今回出したのと全然曲調違うし」
「そうなんですよね」
「俺も好きだな」
「ホントですか? いいですよねー、あれ。らしくないというか、テンションもすごく高くて、楽しい曲が多いですし」
 共感されたのがとても嬉しかった。
 そう。
 ただ、それだけのこと。
 なのに、どうしてこんなにも彼に近付けたように感じるんだろうか。
 わけもなく笑みが浮かんでしまい、ついついいろんなことを話したくなる。
 ――だが、そんな姿を絵里がしめしめと思いながら見ていたなどとは、まったく思わなかった。
「先生も、やっぱり車はマニュアル派ですか?」
「そうだね。俺が車を選ぶ絶対条件が、まずそれかな」
「けっこう……いじってますよね、車」
「へぇ、詳しね。さっきも、いろんな車種出るなとは思ったけど。まあ、目立たない程度にちょっとね」
 その後も、エンジンがどうのだのホイールがなんだなどの話が続いたが、もともと車に興味のない絵里は一切会話に入ってこなかった。
 それでも、こんなふうにいつも学校ではできない種類の会話を彼とすることができ、羽織は嬉しくて気づきもしなかったが。
「でも、瀬那さんホント詳しいね。車好きなの?」
「えっと……好きは好きですけど、兄がいるからかもしれないです」
「お兄さんいるんだ。それじゃ、詳しくもなるよね」
「えっとー。盛り上がってるところ申し訳ないんですがー」
「ん? 家の近く?」
「です」
 身を乗り出してふたりの間へ割り込むように顔をのぞかせた絵里が、左手にあるコンビニを指差した。
「そこのコンビニでいいです。家、すぐ近くなんで」
「わかった」
「っ……え? 絵里!」
「いーのいーの」
 ウィンカーを出してから、ゆっくりと駐車場へすべりこんだところで、絵里が羽織を降りるようにうながす。
 ドアを開けて一度絵里とともに降りてから、再度助手席へ座ったところで、絵里が顔をのぞかせた。
「ホント、ありがとうございましたー。それじゃ、先生。羽織のこと、お願いしますね」
「うん、しっかり届けるよ」
「じゃあ……絵里。また明日ね」
「はいはーい。おやすみー」
 ひらひらと手を振ってあいさつをした絵里に羽織が眉を寄せていたが、気づかない祐恭は、ゆっくりアクセルを踏み込んだ。
 一度クラクションを鳴らしてから、流れに乗ってバイパス方面へと走り始める。

 ――その車のテールランプを見ながらひとり、絵里は意味ありげに小さく笑う。
「羽織、がんばりなさいよー?」
 にやり、と笑って口元へスマフォをあてた絵里の言葉を、羽織は知るよしもない。


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