「ねぇ。昨日、瀬尋先生に送ってもらったって本当なの?」
「……え。いきなり、なんの話?」
 翌日。
 教室に入り、みんなに『おはよう』を言う前に中野さんが声をかけてきた。
 眉間の皺は濃く、いつもよりもずいぶん迫力が増していて、ちょっと怖い。
「本当なのか、って聞いてるの!」
「……本当だけど」
 かなり上から目線の横柄な態度に、思わずむっとしながら答えると、みるみる顔を青くした。
「……なんでこんな子が、瀬尋先生と……!」
 失礼な言葉が聞こえただけど、どうなの?
 こんな子って、ひどい。
 ふらふらとおぼつかない足取りで席へと戻っていった彼女は、椅子に座るとそのまま机に突っ伏した。
「おはよ。朝から大変ねぇ」
「……おはよ。ねぇ、絵里は言われなかったの?」
「うん。なんでも、助手席に乗ってた羽織しか見えなかったんだって」
「っ……」
 席へつくと、絵里が悪戯っぽく笑った。
 でも、絵里のセリフで血の気が引く。
 誰が見たのか知らないけど、朝から言われるとなると結構な人が知ってるってことだよね。
 ……う、やだなぁ。
 みんな知ってるとなると、このあとの展開が想像できるだけに、落ち込む。
「でもいいんじゃない? これで、ほかの子がショック受ければライバル減るし」
「っ……ライバルって。別に私は何も――」
「おはよう。みんな、席に着いて」
 かぁっと顔が赤くなった気がして首を横に振り、絵里に反論しようとしたそのとき、聞きなれた声が教室に響いた。
 SHRのために、瀬尋先生が教室へ入ってきた。
 ……う。
 なんていうタイミング……。
 副担任である以上当然なのに、どうしようと思った。
 だって昨日、『ほかの子には内緒ね』って言われたのに、朝一から広まってますなんて……言えない。
 あー、どうしよう。
 先生ごめんなさい……。
「ねー先生ー。昨日、羽織を家まで送ったって本当ですかぁ?」
「っ……」
 はいはーいと大きな声で手を挙げた子に追うように、ほかの子も声をあげた。
 うー、ごめんなさい。でも私が言ったわけじゃないんです。
 そうは思うけれど言うに言えず、頭を抱えたまま俯くしかできない。
 まさかこんなことになるなんて、思わなかった。
 あからさまに迷惑をかけるなんて――。

「本当だよ」

「っ……」
 教室に響いた瀬尋先生の声で、教室内が一気に騒がしくなった。
 だけじゃない。
 自分の鼓動も、大きく鳴った気がした。
「ただ、羽織ちゃんだけじゃなくて、皆瀬さんも一緒だけど」
 さらりと付け加えた彼の声で、絵里が小さく『ヤバ』と口元に手を当てたのが見えた。
 うん? ヤバってどういうことだろう。
 途端、ブーイングにも似た声が室内にわきあがる。
「えー!? なんだ、絵里も一緒だったのー? 話違うー!」
「ホントだよー。だいたい、絵里が言ったんでしょ?」
「う。……あー、ごほん。瀬尋センセー。早くHR進めてくださーい」
 慌てたように立ち上がった絵里がそう言うと、苦笑しながら彼がプリントを配り始めた。
 ……ちょっと待って。
 じゃあ、何?
 私がみんなの標的になってのって………。
「絵里! どういうこと? 絵里が広めたの!?」
「あはは、ちょっとしたジョークっていうか、なんていうか……」
 眉を寄せると、慌てて手を振った。
 ……もぅ。やっておいて『違う』はないでしょ。
 若干うなずけないところが多いけれど、しょうがない。
 急速に収束したから、もうこれ以上触れないのがいいと思った。
「でもさー今、『羽織ちゃん』って呼んだわよね? 昨日までは『瀬那さん』だったのに。……んー、何かあったのかなー?」
「何もないってば。ただ、瀬尋先生がお兄ちゃんの友達だったってだけ」
 相変わらず楽しそうな彼女に若干呆れながら返事をすると、なんだぁと詰まらなさそうな声が返ってきた。
 確かに、自分でも少し驚いたんだよね。
 まさか、名前で呼ばれるなんて。
「――ということで、今週中にアンケートの提出よろしくね」
 絵里との話に夢中になっていたら、すっかり瀬尋先生の話を聞き逃していたらしい。
 説明を終えた彼が余ったプリントを揃え、HR終了とばかりに教室から出て行った。
「アンケートねー。どうせ、おもしろくもないヤツでしょ」
「……アンケートに何を求めるの? 絵里は」
 絵里の言葉に笑いながらプリントを折り、机にしまう。
 ……と、そこに案の定クラスの子たちがぞろぞろ集まってきた。
「ねぇ、羽織。先生とどこまで行ったの?」
「ほんとほんと、教えなさいよねー」
「っな……もぅ。何もないったら。遅くなっちゃったから、絵里と一緒に家まで――」
「とぼけたって、だーめ。だって、先生『羽織ちゃん』って呼んでたじゃない?」
「そうそう! びっくりしちゃったー。何よ、もう付き合ってるわけー?」
「ち、違うってば!!」
 自分でも顔が赤くなるのがわかった。
 でも、目ざとくそれを見た彼女たちはさらに勢いを増す。
「本当のこと言いなさい! ほら!」
「わっ!? だ、だから、先生には彼女さんが――」

 バンッ

 響き渡った音で、一斉にあたりが静まり返った。
 教壇を思い切り叩いたのは、中野さん。
 わなわなと肩が震え、明らかにこちらを睨んでいる。
「……いい気にならないでよね。名前で呼ばれたから、どうだっていうの? 先生は私がモノにするんだから」
 それだけ言うと、彼女はぷいっと顔をそむけて教室を出て行った。
 特に、彼とのことをどうこう言っていなかったクラスメイトも、一斉にこちらを向いた。
「……こっわ」
「やばいのに目ぇつけられたね、羽織」
「ご愁傷様」
「っ……ちょ……えぇえ?」
 ものすごく眉が寄ると同時に、我ながら情けない声が出た。
 彼女――中野綾乃は昔から独身の先生に対して『とりあえず手を出す』とある意味有名だった。
 絵里の彼氏である田代先生にも、一時期そうとう付きまとってたんだよね。
 もちろん、絵里と田代先生が付き合っているのは内緒だから、彼女は知らないまま。
 それもあって、今でもちょっかいを出しているらしく、絵里は彼女のことをよく思っていない。
 今度は瀬尋先生かぁ……まあそうだよね。気持ちはわかるよ?
 私だって、そう、だし。
 でも、まさか彼女に直接ライバルとして選定されるなんて。
 ……気が重い。
「がんばってねー、羽織」
「応援だけはしてるから」
 周りに集まっていたみんなも、波が引くかのようにして、ぽんぽんと肩を叩いてからそれぞれの席に戻った。
「……うぅ。なんで、こんなことに……」
 眉をしかめてそれぞれの背中を見ていたら、絵里がつんつんと背中をつつく。
「いい? 負けたら承知しないから」
「っ……もぅ、絵里ってばぁ……」
「いい? 絶対よ、絶対!」
 絵里だけはフォローでもしてくれるのかと思っていたのに、向けられた目はいつになく真剣そのものだった。
 そんな顔で何を言うのかと思いきや、宣戦布告しなさいとでも言わんばかりのもので。
「……はぁ」
 久しぶりに学校が嫌になったのは言うまでもない。

 化学の授業前の休み時間。
 ひとり、廊下を歩きながら盛大なため息が漏れる。
「化学の授業係、代わってほしい……」
 教室を出るとき、中野さんにものすごい目で見られて結構つらかった。
 これから、授業があるたびにあんな目でみられるのかと思うと、それだけでもう相当なストレスなんだけど。
「あぁもう、ホントにやだなぁ」
 当然、向かう足取りも重い。
 いつもは違う。
 授業の内容だとはいえ、直接話す口実があることは特別だと思っていたし、嬉しかった。
 でも、宣戦布告をされた今はそうもいかない。
 準備室の前に立ち、重く感じるドアノブをゆっくりと回す。
 深呼吸をしてから中へ入ると、すぐに瀬尋先生の声が聞こえた。
 どうやら、誰かと話しているようだ。
「……だから、今は仕事中だって言ってるだろ? そういう話はあとで聞くって。何も今じゃなきゃいけない理由はないだろ?」
 まっすぐ進んでいくと、スマフォで話している彼と向かい合う形になり、すぐ気付かれた。
 一瞬合った瞳が、今までになかった気まずさを生んで、こちらとしてもどうしていいのか悩んでしまう。
 えっと、一旦出たほうがいいかな。
 なんてことを考えていたら、先に瀬尋先生が動いた。
「じゃ」
 通話を強引に終えた彼は、小さくため息をついてから苦笑を浮かべた。
 その顔に、少しだけほっとするものの、つい……つい、相手が誰なのか気にもなる。
 もしかして、彼女さん、とか?
 昨日聞いたことが引っかかるものの、でも、まだ関係は続いているのも事実。
「……変なところ見られたね」
「あ、いえ。こちらこそ……すみません、電話中とは思わなくて」
「いや、気にしないで」
 スマフォを机へ放るようにしたのを見て、思わず言葉が漏れた。
「……彼女さん、ですか?」
「いや、まぁ……ちょっとね」
 聞かなければいいのに、って言ってから思った。
 でも、聞きたかったのも本音なせいか、つい、聞いちゃったんだよね。
 苦笑を浮かべながら首を振る彼を見て、出すぎた真似をしたことに気づく。
 ……そうだよね。
 相手が彼女さんだったりしても、別に私に詳しく言う必要はないんだし。
 関係ないの。私には。
 この人には、大切な彼女がいる。
 付き合ってもうずいぶんになる、彼女さんが。
「……羽織ちゃん?」
「あ、ごめんなさい。あの、次の時間は……」
「うん、また実験室で。少し簡単な実験をするから、早めにきて準備してもらいたいんだけど」
「わかりました」
 なんとか笑顔を浮かべるものの、やはりぎこちなさは残る。
 それに気付いたのか、瀬尋先生が少しだけ訝しげな顔をした。
「大丈夫?」
「え? ……あ、ええ。大丈夫です! なんでもないですから」
 心配そうな彼に慌てて手を振ると、本当に少し元気になったような気がした。
 ……そう。そうじゃなきゃいけない。
 だって、全部自分のせいなんだもん。
 勝手にいろいろなことを思い描きすぎていた、ポジティブすぎる自分のせい。
「それじゃ、伝えておきますね」
「うん、よろしく」
 軽く頭を下げてから、準備室をあとにする。
 我ながら、タイミングよすぎでしょ。
 どうせなら、違った形で……ううん、特別というならばこれもそう。
 でも、でもね少しだけ。
 ほんの少しだけ、このタイミングに入ってしまったことを、我ながら悔しく思った。


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