「あー、やっぱりいいねぇ。のぞみは」
「ですね。広いし、早いし。何より、ラクで」
「そうそう。2時間だもんなぁ。すげーよ」
 先日、京都の大学での学会が大きな台風で延期になってしまった。
 なので、日を改めてというわけで、こうして今純也さんとふたりで京都に向かっている。
 本来は泊まりがけの予定だったのだが、さすがに明日から夏期講習が始まるため、無理を言って日帰りにしてもらった。
 しかし、あの台風の日に、名古屋駅で純也さんを見つけたときは本当にびっくりした。
 なぜここに、と。
 だが、それは彼も同じだったようで、顔を見合わせて思わず笑ってしまった。
 それぞれの大学関係者が揃って出席するものなのだが、彼は神奈川学園大学、そして俺は県立七ヶ瀬大学の関係者として出席していた。
「でも、寂しくないですか? 今年で高校教師辞めるなんて……」
「……うーん、まぁ、ね。でもまぁ、大学行ってもやることは同じだし」
 苦笑を浮かべてから缶コーヒーをひとくち含んだ純也さんが、伏し目がちに続けた。
「結局は、研究馬鹿ってことなんだよなぁ。大学で講師しながら研究できるって言われたとき、やっぱり心底嬉しかったからさ」
「気持ちはわかりますよ。やっぱ……いいですよね。自分のやりたいことだからこそ、それに没頭できる環境っていうのは」
「そうなんだよ。……ま、このことを絵里に言っても、わかってくれなかったけど。やっぱ」
「……まぁ、女の子には難しいかもしれないですよ。結局、それだけ男が我侭ってことかも」
「あはは、かもなぁ」
 苦笑を浮かべながら呟くと、彼もおかしそうに笑った。
「でも、祐恭君だって今年で方向転換だろ?」
「……んー……そのはずなんですけどね。一応、臨採は去年だけの約束だったんで」
「だよなぁ。じゃあ、祐恭君も大学戻っちゃえば?」
「はは。それも悪くないですね」
 いたずらっぽい顔をした彼に苦笑を見せると、やはり同じように笑ってからシートにもたれた。
 現在、豊橋駅を過ぎたところ。
 京都までは、あと40分程度だろう。
「……しっかしこの前は参ったよな。……まさかふたりであんなモン見てるなんて思わなかったよ」
「ホント、ふたりとも真剣に見てましたね」
 内容が内容だけに、どちらからともなく声が自然に小さくなる。
 だが、本当に驚いたのだ。
 名古屋から引き返して彼の家へと急いでみれば、玄関を開けても迎えにはこないうえ、リビングに近づくにつれてあの『声』が聞こえてきたのだから。
 男だったら1度は体験したことがあるからこそ、すぐにわかった。
 思わず純也さんと顔を見合わせ、

「「……マジか……」」

 そうハモったのはまだ記憶に新しい。
 あの光景は、生唾を飲み込むという言葉がよく当てはまるモノだった。
 お互いの彼女が揃って頬を染めながらも、真剣にAVを見ていたのだから。
 あまりの出来事に開いた口が塞がらなかったのは、正直初めて。
 事実、しばらく彼女らを食い入るように見てしまった。
 ……だが、始まったのはいきなりのアレ。
「うわっ……」
「っ……!」
 さすがに焦った。
 まさか、アレが出るとは。
 大抵のAVだったらあるとは思うが、俺自身彼女にさせたことはなかったし、純也さんの反応を見て彼も同じということがすぐにわかった。
 だからこそ、お互い顔を見合わせて止めることにしたのだ。
 そうしたら――……思いもしない言葉がとんできた始末。
 慌てて彼女を連れ帰って………で。
 とまぁ、そういうワケだった。
「……いまごろ、またふたりで見てたらどうする?」
「え」
 まさか。
 この前あれだけ責めたんだし、そんなことはしないだろう。
 さすがに彼女がもう1度……と望むワケもないだろうし。
「それはないと思いますよ」
「……だな。そう願うよ」
「それに、あのふたりなら帰ってその反応見れば、わかりますから」
「あはは、それもそうだな」
 苦笑を浮かべた彼は、どことなく懇願にも似た表情を浮かべていた。
 ……ありえないとは思う。
 だが、万が一ということが……いや、信じよう。
 彼女たちを。
 恐らくは、懲りたはずだから。
「……あのあと、さ」
「あのあと?」
「うん。祐恭君らが帰ったあと、絵里のヤツがどうしても気になるって言うから、見せたんだよ。アレ」
「……うわ。純也さん、(おとこ)っすね」
「だよなぁ。俺もよくやったと思うんだけどさ」
 ……とはいえ、俺もふたりきりだったら見せていたかもしれない。
 そう考えると、あながち『俺はやらない』とは否定できないが。
「最後まで見終わって、結局わからなかったらしいんだよな。スワッピングの意味。……まぁ、それっぽいシーンがちょろっと出てきたけど、イチイチ口で説明なんてしてなかったしさ。で、赤い顔してしつこく聞いてくるから結局教えたんだけど……」
「……よく、絵里ちゃんが最後まで見てましたね」
「いや。正確には“見てた”じゃなくて“見せた”だけど。……でも、やっぱAVってふたりで見るもんじゃねぇよな」
 頬を染めて口元を押さえながら呟き、瞳を伏せる。
 そんな彼は、やっぱり――……やっぱりらしい。
「……まぁそうっすね。本来彼女と見るものじゃないし。はけ口なのに、隣に彼女がいたら……ねぇ?」
「そうなんだよ。すげぇ後悔した。あのときはヤバかったなー」
 苦笑交じりにうなずくと、彼もため息をついた。
 そして、ふっと顔を上げ、静かに話し始める。
「……で、結局止めらんなくてさ。……でも、男には酷だぜ? 好きな女が目の前でAV見てたりしたら」
「そりゃそうっすよ。抑えらんなくなりますよね」
「そうそう! もうこればっかりは男のサガだからな。……ホント参った」
 ……やっぱり。
 思わず、心の中で苦笑を浮かべる。
 あれを見ていた現場を押さえただけでさえ、あれほどだったというのに。
 ……ふたりで一緒に見たりしたら、自分を抑えきれないに決まってる。
「……で。祐恭君は平気だったの?」
「まさか。俺は聖人君子じゃないっすよ」
「あはは。そうだよな」
 苦笑を浮かべてから首を振ると、彼も顎に手を当てながら声を殺して笑った。
「でも、絵里はともかく羽織ちゃんまで見るとは思わなかった。……祐恭君、いろいろ悪いこと教えたんじゃないのか?」
「いや、俺は何も……」
「ホントかぁー? なんか、前よりもずっといい女になってる感じしたけどなぁ」
「そう……っすかね。……まあ、確かにときどきヤバいと思うことが、増えてはきましたけど……」
 ふと彼女を思い浮かべながら呟き――……はっと我に返って彼を見る。
 ……案の定。
 そこには、ニヤニヤとした笑みを浮かべている純也さんがいた。
「いや、だからそういう意味じゃなくて――」
「ま、俺も同じような道通ってるからな。何も言えないっちゃあ、言えないんだけど」
「どっちかっていうと、俺より純也さんのほうが絵里ちゃんに厳しそうですけどね」
「……そうかなー? 俺は意外と祐恭君のほうがって思うけど」
 ……まぁ、ようはお互いどっちもどっちということで。
 それだけ、彼女を思っている気持ちがあるということにしておこう。
「結局、俺も彼女に言われて……スワッピングの意味教えたんですけどね」
「あ、やっぱり? ったく、しつこいよなぁ。そんなに知りたいもんなのかね」
「ですよね。いい意味じゃないし、むしろ知らないほうが幸せなのに」
 ペットボトルのアイスティーを飲みながら話していると、ふと前方からひとりの女性が歩いてきた。
 やけに胸元の開いた、服。
 思わず、彼と揃って視線を向けてしまう。
「…………」
「…………」
 女性が通り過ぎてから顔を見合わせると、つい苦笑が漏れた。
「……男のサガですよね」
「そうそう。こればっかりは」
 やはり、男たるものつい目が行ってしまう。
 女の子たちがカッコいい男ってやつに目を向けるのと同じくらい、普通。
 どうしたって、胸の大きい女性は気になるもので。
「でも、それをアイツらはヤラシイとか言うんだよな」
「そうそう! そんなこと言われても目が行っちゃうのは止められないんですけどね。わからない……よなぁ、まぁ」
 ため息をつきながら続けると、彼もまたうんうんうなずいた。
「別に、ナンパしようとか、そういうつもりじゃないんだけどな。これはどんな男だって、共通だぜ? 普通」
「男なんて、そんなモンなんですけどね。女の子って、そういうのないんすかね」
「……どうなんだろうな。まぁ、確かに一緒にいるのに違う男見てたらいい気持ちはしないけど――」
 ……と、そこで顔を見合わせる。
「……やっぱ、男って我侭っすね」
「かもな」
 小さく咳払いをしてからそれぞれの飲み物を手にしたところで、もうすぐ京都に着くというアナウンスが流れた。
「っと、早いな。……しっかし、また長いんだよな。研究を聞いてるのはいいんだけど、腰が痛くなる」
「確かに、結構苦痛ですよね。座りっぱなしっていうのも」
「そうそう。……こんなこと、アイツに言ったらどうせおっさんくさいとか言い出すだろうけど」
「はは」
 そう言って網棚に置いた荷物を取りながら純也さんが笑ったものの、ふっと俺を見てから微笑んだ。
「でも祐恭君、前と比べていい顔するようになったよ」
「……え?」
 一瞬戸惑う。
 自分ではそんなふうに思っていなかっただけに、かなり驚いたからだ。
「赴任してきたときと比べて、すげぇ優しい顔するようになったよ。……特に、羽織ちゃんといるときとか、彼女の話をしてるときね」
「そ……うですか?」
「うん。あー、羽織ちゃんのこと本当に大事なんだな、ってのが伝わってくる」
「……そうですね。ヤバいくらい惚れてますよ」
 思わず、うなずきながら笑みが漏れた。
 そんな俺に一瞬目を丸くするが、改めて彼は声をあげて笑う。
「ったく。朝から言ってくれるねぇ」
「まぁ、本当のことですから。……でも、純也さんこそ幸せそうですよ? 絵里ちゃんの話をしてるとき」
「……そうかぁ? 俺とアイツは、どっちかっつーとライバルみたいなモンで――」
「いいですよ、そんな照れ隠しは。純也さんも絵里ちゃんも、お互いを必要としてるってことくらい、見てればわかりますから」
 少しいたずらっぽく笑うと、頬を少しだけ赤くしてから咳払いをした。
 その顔。
 絵里ちゃんが見たら、なんて言うだろうな。
「さー、そろそろ降りないとな」
「そうっすね」
 彼のあとを追いながら車両を出ると、静かに駅へ停車するところだった。
 扉が開くと同時に、冬瀬とは違うむっとした熱気が顔に当たる。
 これこそが、短い時間で、いかに遠くまできたかを実感する瞬間だった。

 半日の研究発表を終えて新幹線に乗ると、その疲れからかすっかり眠ってしまっていた。
 それは純也さんも同じだったらしく、小田原駅を過ぎたあたりで目を覚ますと、彼はまだ寝たまま。
 いくら好きなこととは言え、ほとんどの時間座ったままで人の話を聞かなければいけないというのは、結構苦痛だ。
 それでも、帰路の2時間という時間はあっという間で、仮眠するには……少し短いかな。
 ここのところ、いろいろ忙しかったし。
 とはいえ、やはり家で待ってくれている人がいるというのは心もちが違うようで、早く家に帰りたいという気持ちがずっと強くなっていた。
 今ごろ、夕飯の支度でもしながら待ってくれているだろう。
 ……あぁ、でもテレビ見てるかもな。
 そんなことを考えていると、午前中に聞いた純也さんの言葉が蘇る。
「……そんなに変わったかな」
 ぽつりと呟いてから、窓に映った自分を見ると、そんな気もするし、そうでもない気もする。
 さすがに、これまで毎日見続けてきた自分の顔は、自分ではわからない。
 だが、彼女に対する気持ちはまったく違っていたし、彼女といるときの自分も変わったとは思う。
 彼にも言ったが、かなり自分が彼女に対して強い思いを持っていることは確かだ。
 ……こんなこと、学生時代のヤツらに言っても信じないだろうな。
 元カノが自分と付き合いながら先輩と付き合っていることを知ったときも、そこまで感情を表に出さなかっただけに、思わず苦笑が漏れた。
 あの、コンパのとき。
 アキにも言われたが、確かに人前で感情をあれほど出したのは久しぶりかもしれない。
 普段、物事にあまり頓着しないからというのもあったからだろうが。
 それでも、もし今彼女がほかの男に目を向けたと知ったら、どんな手を使っても阻止しようとするだろうし、恐らく彼女を渡しはしない。
 そこまでの独占欲と激しい感情が自分の中にあったのかと思うと、なんだか不思議な感じだった。
 ……そこまで惚れるとはな。
 なんてことを考えていると、見慣れた景色が目に映ってくる。
 新横浜に、もう間もなく到着。
 そうすれば、あとは電車でわずかの距離だ。
「そろそろ降りますよ」
 そっと純也さんの肩を揺さぶると、うっすら瞳を開けてから伸びを見せた。
「……あー……かったるいな。さすがに」
「ですね」
 苦笑を浮かべて自分もあくびを噛み殺し、鞄を棚から下ろす。
「どーぞ」
「ん、ありがとう」
 彼にまず渡してから自分のを手にすると、見慣れた景色から駅のプラットホームへと風景が変わった。
「……眠い」
「もうすぐっすよ」
「うん。……うー、やっぱ学会はたまにでいいな」
「はは。同感です」
 苦笑を浮かべてデッキへ出てから、自分も伸びをひとつ。
 もうすぐ、彼女が待つ我が家。
 彼女の笑顔が見れると思うと、なんとなく浮き足立つ。
 電車で、3駅。
 そこが、終着駅だ。
 新幹線から電車へと乗り換え、ドアにもたれるようにしながら彼と出口付近に立つと、自然に明日からの夏期講習の話に及んだ。
 夏休みなので授業をするワケにもいかず、これまでの復習をかねたプリントと受験対策の問題をやることにはしているのだが……。
 こんな話したら、どうせ彼女はいい顔しないだろうな、とは思うが、それはそれ。
 彼女の両親にも勉強は厳しくやらせると言った以上、手を抜くわけにはいかない。
 ……今晩あたり、少し復習させてみるかな。
 そんなことを考えていると、彼がまたニヤっとした笑みを見せた。
 慌てて手を振り、その場を乗り切れば、いよいよ冬瀬の町並みが見えてくる。
 ……家、か。
 早く帰りたいと思うのは、やっぱり彼女が待ってくれているからに違いない。


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