「あら、ふたりともお帰りなさい。スイカ切ったから。食べてね」
「わぁ、ありがとうございます!」
「……珍しいな。スイカなんて」
「でしょ? うふふー。お隣さんからいただいたの」
 買物から帰ってくると、母がにっこりとした笑みを見せた。
 ……スイカ、ね。
 そんなモン食べるのは、本当に数年ぶりだ。
 などと考えながら和室に向かうと、いい風が吹き込んできた。
「あー……。昼寝するにはもってこいだな」
「あはは。そうですね」
 テーブルに置かれたスイカと塩。
 ……塩。
「塩ってさ。かける?」
「え? スイカにですか?」
「うん。……俺さ、昔からわかんないんだよな。スイカに塩って」
「んー……麦茶に砂糖みたいな感じですかね」
「……あ、そうかも。友達の家に行って麦茶が甘いと、びっくりするもんな」
「そうそう!」
 早速スイカを手にして、ひと口。
 よく冷えた甘い味が口に広がる。
「……おいしー」
 嬉しそうに食べる彼女とこうして実家にいるというのは、なんだか不思議な気分だ。
 今まで付き合っていた子を家に連れてきたことがなかったせいか、なんとなく笑えた。
 好きになることはないと思っていた、年下の子。
 しかも自分の教え子で、友人の妹。
 だが、どうして彼女に惹かれたのかは、こうして一緒にいるようになってよくわかってきた。
 一緒にいるときの自分が、1番リラックスしていて、1番穏やかになっているから。
 ……まぁ、1番意地の悪い自分も、彼女といるときに出てくるけど。
「……なんだか、不思議な感じですね」
「ん?」
「だって、先生のことを好きになって……でもコンパのあと、絶対振り向いてもらえるなんて思わなかったんですもん」
「……ああ、アレか」
 上目遣いで俺を見た彼女に、思わず苦笑が漏れる。
 彼女に対して、どういう反応を取っていいのかわからず、なんともいえない表情で過ごしたあの日。
 最近の俺にとって、少なからず昔の“地”が出た数少ない日だ。
「えーと、なんでしたっけ? あの実験」
「あぁ、あのときの?」
「そうです。あの、青い液の……」
「硫酸銅の結晶、ね。……ふぅん。名前、出てこないんだ?」
「っ……だ、だって! あれは……中学でやったし……」
「ま、そういうことにしておいてあげるよ」
 食べ終えたスイカをお盆に置き、テーブルへ頬杖を付きながら彼女を見る。
 すると、困った顔ではなくいたって普通の顔で、首を軽くかしげた。
「でも、どうしてあのとき、そんな実験やってたんですか?」
「……気になる?」
「うん」
 俺を見ながらスイカを置いた彼女が、こくん、とうなずいてからまじまじと俺を見つめた。
 ……覚えてないのか、それとも思い出せないのか。
 まぁ、話せばわかることか。
「……羽織ちゃんさ。部活の自己紹介のとき、『1番好きな実験は?』って聞かれて……それ答えたの覚えてない?」
「覚えてます……けど……でも、どうして?」
「……内緒」
「えぇー? どうして? 教えてくれてもいいじゃないですかっ」
「ダメ。……ま、そのうちね」
「……もぅっ。いじわる……」
「なんとでも言いなさい」
 なるほど。どうして、ってのはそういう意味か。
 確かにまぁ、気にはなるよな。
 ……でも、お陰でわかったことも、ひとつあるんだけど。
「…………」
 肩をすくめてスイカをもうひとつ頬張ってから、ちらりと彼女の横顔を覗く。
 自分に向けてくれていた、真剣な思い。
 純粋で、まっすぐで、決して折れない強いモノ。
 どう受け入れるべきか悩むのは、違う。
 迷ってる時点ですでに、答えは出てるんだから。
 ……なんて、今ならすんなり言えるあたり、余裕だなと思う。
 あのときは、悩んで悩んで、ロクに飯すら食えなかったクセに。
「? なんですか?」
「別に」
 そんなことはおくびにも出さず、肩をすくめてから食べ終えたスイカをお盆へ。
 ふと視線を外へ向けると、じりじりとした太陽がキツく照りつけ、比例するかのごとくセミが鳴いていた
 子どものころは、これでも虫取りなんかをした。
 でも、最近の子どもはそんなことしないんだろうな。
 自分の1番身近にいる和哉がしないのを知っているせいか、ふと思う。
 少し寂しいよな。
 『遊び』と呼んでいい物か迷うが、それでも命の尊さを勉強するには1番の教材。
 部屋の中で遊ぶことは年中変わらず同じだが、外ならば季節に応じて違う遊びができるのに。
「……さて」
 彼女がスイカを置いたのを見て立ち上がり、その顔を見つめる。
 ただ、黙って。
 まるで何かを待っているかのような表情に、つい笑みが漏れた。
「……部屋行く?」
「行きたいです」
「……。なんで、そんなに楽しそうなの?」
「え? だって、見たことないんですもん」
「そりゃそうだけど……。荒らさないでね」
「しませんよー、そんなこと!」
 ホントか? なんてつっこむことはせず、ぽん、と頭に手を置いてから階段へ向かう。
 ……の前に、彼女は相変わらず律儀なのか、きちんとお盆をキッチンへ片付けてくれた。
 こういうところは、俺も見習ったほうがいいのかなとも思う。
 ……よくできた彼女だ。
 一瞬違う形容詞が浮かび、緩く首を振る。
 違う。まだ。
 ……まだ?
「…………」
 実家にいるせいか、両親を意識してか、ついつい考え方がそちらに寄る。
「あー。あつ」
 こほん、と咳払いしながら階段を上がり、吹き抜けに沿って1番奥のドアへ。
 久しぶりだな。
 ……って言っても、正月以来だけど。
 見慣れたドアを開けて中に入ると、母が窓を開けてくれていたらしく、いい風が吹き抜けた。
「わぁ……! 先生、相変わらずきちんとしてるんですね」
「そう? 単に、物が少ないだけだと思うけど」
 苦笑してベッドに腰掛けると、本棚へ彼女が近づいた。
 まっすぐ。
 ほかに見向きもせず。
 その率直さに、ついまばたき。
「……羽織ちゃんが期待するような物はないよ?」
「え? アルバムですか?」
「あぁ、そっちか」
「……んー? ほかに何があるんです?」
「いや、別に」
 肩をすくめ、彼女の隣まで歩いて行ってから、本棚の1番上で若干埃にまみれていたモノを取ってやる。
 ……アルバムか。
 それこそ、俺にとってはそう何度も見返したくなるようなモノではないんだが、どうやら彼女にとっては思いがまるで違うらしい。
 手渡した途端、それはそれは大切なモノを扱うかのような仕草をしてから、ちょこん、とその場に腰を下ろした。
「……おもしろくも、なんともないと思うけど」
「そんなことないですよー! ……えへへ。すごく嬉しい」
 眼差しがもう違う。
 大切な何かを見るような優しい目に、思わず目が丸くなった。
 相変わらず、俺とは何もかもが違う彼女。
 ……まぁ確かに、俺とて彼女の昔のアルバムを見ることができる機会があったとしたら、もしかすると同じような反応が出るかもしれないが、まぁ、ここまで素直じゃないだろう。
「っ……わあ……! 先生、ちっちゃいー」
「うわ。お袋そっくり」
 開かれた1番最初のページに、懐かしいというよりもものすごく幼い、見覚えのある園服を着た自分が写っていた。
 不思議なもので、その当時は大人がやけに大きく思えたのに、今ではそんなに大きいという印象がない。
 人にされることは覚えていても、する立場になると印象が薄れるってヤツか。

「……あ。小学校ですね」
「うん。まあ……そうだね」
 入学式、と大きく書かれた看板の隣に立つ、在りし日の自分と母。
 写真の色がなんとなく褪せているように感じるのは、月日の流れがそうさせるからか。
 ……にしても、お袋、わかっ。
 なんだかムダに若い様相が、『うわ』と言ってしまった原因かもしれない。
「……あ……」
 嬉しそうにあれこれ言いながらめくっていた彼女が、不意に手を止めた。
 覗くまでもなく見える、高校時代の数少ない自分。
 孝之とは違い、そこまで写真に写ることが好きじゃなかったからか、本当に数枚しか自分の手元には残っていない。
 修学旅行で撮った、孝之はもちろん、ほかの友人たちと一緒に撮った馬鹿さ満点な写真。
 まぁもっとも、そこまで馬鹿なことしてるのは俺じゃないけど。
「先生も、京都だったんですよね」
「そ。神奈川から京都なんて定番すぎて、おもしろくないけどね」
「かもしれないですね。高校になると、北海道とか海外に行く子もいるのに」
 くす、と小さく笑いながらうなずいた彼女が、ゆっくりと次のページを開けた。
 途端、目に入る鮮やかな赤。
「……卒業式……」
 胸に赤いカーネーションを付けている自身を、ぽつりと呟いた彼女がしげしげと見つめた。
「……同い年」
「だね」
 写真に残る、まだあどけない感じのするその顔。
 それは、今の彼女と同い年の18歳の自分。
 以前、彼女に写真のことで少し寂しい思いをさせたこともあり、なるべく昔の写真を見せるようにしていた。
 それによって、そのときの思い出話もできるし、何より彼女が嬉しそうに笑ってくれるのが嬉しくて。
 自分としては、昔の写真を見るのは好きではないのだが、やはり彼女に喜んでもらえるなら、という思いのほうが勝る。
「高校までなんですね」
「うん。大学入ってからは、全部あっちだからね」
「……そっかぁ。ありがとうございます」
「いいえ」
 パタン、と閉じたアルバムを大事そうに渡してくれた彼女に笑い、元あった場所へ戻す。
 だが、同じ格好で座っている彼女の隣に腰を下ろしても、彼女はしばらく何も言わなかった。
 ただただ黙って俺を見つめ、そして……ゆっくりと微笑む。
 ……こういうとき、何を考えているのかわかる道具があれば、どれほどいいか。
「……ん?」
 不意にもたれてきた彼女の肩に手を回して顔を見ると、ほっとしたような……そんな優しい笑みを浮かべていた。
「……なんでもないです」
「ズルいな」
「えへへ。先生がいつも使うから」
 屈託なく笑って、擦り寄るようにした彼女が、ふっと瞳を閉じた。
 嬉しそうな表情がしっかりとあって、見ているこちらも穏やかな気持ちになる。
「……珍しいね。羽織ちゃんから寄ってくるなんて」
「なんか……こうしたかったの」
「そう?」
「……です」
 小さくうなずいたのを見てから、自分も彼女にもたれて目を閉じる。
 ささやかだが、こういうときに幸せを感じられる自分は、本当に満ち足りているのだと思う。
 今がどれだけ幸せで、どれだけ余裕があるか。
 それを物語っているような気がして、好きだった。
 仕事で嫌なことがあろうと、何かにイライラしていようと……彼女が笑顔で迎えてくれて、何も言わずに抱きしめてくれることで、これまで何度も救われてきた。
 ここにきて、初めて“一生”という言葉が浮かぶようになった自分。
 それを考えるのは社会人としての自覚の芽生えうんぬんが関係するのかもしれないが、彼女ならば、と思えることは何よりも素直に嬉しかった。
 ……願わくは、彼女も同じ思いでありますように。
「…………」
 さわさわと静かに吹き込む風。
 心地よくて、暑さを感じられないモノで。
 だからこそ、腕の中にある彼女の温もりが際立って。
 ……ああ、俺は幸せだよな。
 そう考えたのを最後に、ふ、と意識が途切れた。
 ただ、ひとつ。
『ああ、寝るな』と瞬間的に思ったのは覚えている。


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