「いい? 落ち着いてやるんだよ?」
「……うん」
「ほら、そんな顔しない。面接受けるんだろ? もっと笑顔で」
「が……がんばります」
 11月14日の日曜日。
 今日は、七ヶ瀬大学の公募制推薦入試の日だ。
 日曜日ということもあったので、付き添いを兼ねて大学にきたワケだが……。
 彼女はものすごく緊張した面持ちで、朝から飯もロクに食べてない。
「そんな顔して面接官に話しても、聞いてもらえないよ?」
「だけど……」
 眉を寄せて、相変わらず不安そうというか、自信なさげというか……。
 学食の前を通って6号館を目指すと、すぐに試験会場である建物が見えてきた。
 いくら、さほど広くないキャンパスとはいえ、彼女が迷わないという可能性もないワケで。
 結局、ここまでついて来てしまった。
 6号館にある、1番広い講堂。
 そこで、まずは小論文と実力試験が行われ、次に3階で面接が行われる。
 懐かしいもんだ。
 今では、6年も前のこと。
 当時の俺と同じように冬瀬の制服を着た学生も、何名か見かけた。
 冬女から推薦入試を受けるのは、彼女と絵里ちゃん、そしてほかのクラスの子を含めて全部で8名。
 さすがにみんながみんな受かるとは思えないからこそ、こちらも緊張してしまう。
 面接時間は5,6分と短いものなのだが、なぜかえらく長く感じるし。
 人の時間概念なんていうのは、いい加減で不思議なものなんだよな。
「はい」
「……え?」
「祐恭先生のお守り」
 建物の前にきたところで彼女に差し出すのは、1本のシャーペン。
 それを受け取ってまじまじと見てから、彼女が顔を上げる。
「これ……」
「俺が受験のときに使ったシャーペン。……ちょっとは気も楽になるかなと思って」
「っ……そうなんですか?」
「うん」
 小さく笑ってうなずくと、嬉しそうに微笑んだ。
 それはいつもと同じような笑みで、特にぎこちなさは感じられない。
「ありがとうございます。じゃあ、お借りします」
「どうぞ。ほら、そうやって笑ってるほうがずっといいよ。……わかった?」
「……うんっ」
「よし。じゃあ、名前書き忘れないように」
「はぁい」
 軽く手を振って彼女を見送り、そのまま図書館へ向かう。
 せっかく大学まで来たので、図書館で論文でもやっていることにしたのだ。
 どうせ、入試も昼までだし。
 ……そういや、孝之いるのかな。
 などと考えながら、学食の前を通って図書館に足を向けた。

 ……どうしよう。
 ここにいる全員、ものすごく頭がよさそうに見える。
 たしかに、そんなのは不安な気持ちが表れているだけだってこともわかっているけれど……。
 やっぱり、すごく不安だった。
 受験票を取り出して、机の右上に置く。
 番号と名前が書かれた、葉書。
 なのに、やけに重く感じられた。
「…………」
 3列前には、絵里がすでに座っていた。
 真剣な表情で、英語の教科書を読んでいる。
「……はぁ」
 本当に私にできるのかな。
 そんな不安ばかりが朝からずっと拭い去れない。
 今まで目指していたよりも、ずっとレベルの高い大学。
 その現実を知っていたから、きっと自然にほかの大学を……と避けていたんだと思う。
 だけど、彼に言われて……受けたいと思った。
 先生が通った大学だから。
 ……っていうのもあるし、やっぱり、ここの大学で学校心理学を学びたかったから。
 教師にもなりたいし、色彩心理学も学びたい。
 そんな我侭な願いを叶えてくれる、この大学。
 だから……ここにこようと思った。
「…………」
 思わず、彼に借りたシャーペンを握り締める。
 受かりたい。
 いい返事が欲しい。
 そんなことを考えていると、試験官の人が入ってきた。
 途端に、講堂内がさらに静まり返る。
「では、ただ今から90分間。小論文と実力試験を行います」
 思わず喉が鳴った。
 90分。
 時間配分を考えて、できればいいけれど……ううん。やるしかないんだ。
 荷物を机の横に置いて、机の上には筆箱と時計、そして彼のシャーペンを載せる。
 ……いよいよ、始まる。
 私にとって、初めての入試というものが。

「……ん?」
 気付くと、すでに昼近かった。
 もう実力試験は終わり、恐らく面接に入っているころ。
 ……ちゃんと笑えてるのかな。
 ふと、窓から見える6号館に目が行き、ため息が漏れた。
 終われば電話があるだろうけど――……。
「ん? ……お前か」
「なんか、心配だよな」
 苦笑を浮かべながら孝之が隣に腰をおろし、持っていた本を机に置く。
 その顔は、いつもの彼より――……なんつーか、なんだかんだいって兄貴なんだな。こいつも。
「自分らの試験のときより、緊張するよなー」
「……それはあるな。きっと、俺たちのときに周りにいた大人はこういう気分だったんだろうな」
 思わず苦笑を浮べると、孝之も小さくうなずいた。
「でもさー、アイツ面接とかで上がりまくって、変なこと言ってんじゃねーかなーって思うんだけどさ」
「……それはある」
「だろ?」
「でも、こればっかりはな……。あ、そういや今日、紗那が試験官のバイトだって言ってたな」
「そうなのか?」
「ああ。……多分、面接のとこで立ってるはず」
 ふと思い出した。
 数日前に、紗那が羽織ちゃんは推薦入試にくるのかどうかメールで聞いてきたのだ。
「ま、何かあったら言ってくるだろ」
「まぁな。つーか、その前に今週の金曜だろ? 結果出るの」
「そうそう。……なんか、1週間仕事が手につかない感じだな」
「かもな。ましてや、俺なんて毎日大学くるんだし。余計落ち着かねぇ」
「そりゃそうだ」
 苦笑を浮かべてそんな話をしていると、ふいにスマフォへ着信があった。
 時間もいい頃合だし、恐らく終わったのだろう。
「……っと。噂をすれば」
「終わったか」
 立ち上がって館内エレベーターに向かいながら、電話に出る。
 すると、案の定彼女からの着信だった。

 試験を終え、いつも通りの平日が始まった。
 いよいよ、金曜日には学校にも連絡が来る。
 そして、七ヶ瀬大学のHP上でも、10時に合格発表が行われるはずだ。
 ……ちょっと不安。
 って、俺がそんなこと言ってちゃいけないか。
 軽く頭を小突いて準備室に向かうと、いつも通りの朝を迎えた。
 ――……が、しかし。
 受験が終わった、あのとき。
 彼女は、不安そうな表情をずっと浮かべていた。
 試験前なら、そういう表情もわかる。
 だが、普通は試験が終わったあとには、晴れ晴れとした顔になるだろ?
 ずっと抱えていた緊張や不安から、解放されるんだから。
 ……そのはずなのに。
 しばらく経っても、彼女は不安そうな顔を変えなかった。
 むしろ、金曜日が近づくに連れてその色は濃くなるばかり。
 ……どうして?
 結局、木曜日の授業前連絡のときも不安そうな顔のままで、いつものような笑顔が見られなかった。
 大丈夫かと聞いても、いつも通りの答えだし。
 ……それでも。
 ひとつだけ違ったところがあった。
「何か隠してる?」
「えっ!?」
 そのひとことに、大きく反応したのだ。
 そのあとすぐ、慌てたような笑顔を見せて首を振っていたが……。
 恐らく、間違いないだろう。
 何か、ある。
 だが結局、それが何なのかわからないまま、発表当日の金曜の朝を迎えてしまった。

「瀬尋先生」
「あ、日永先生。なんですか?」
 久しぶりに彼女に呼び出されて職員室に向かうと、1枚の白い紙を無言で差し出した。
 受け取ってまじまじと見る。
 すると、そこには先日の試験結果が表記されていた。
「この前の結果で――……え……」
「……残念だけど、そういう結果になったの。……どう伝えようか迷っているんだけど……」
 思わず喉が鳴った。
 無機質に並ぶ文字を見つめたまま、しばらく動けなくなる。
 ……なぜ……?
 いや、確かに入試だからこそ仕方ないとは思う。
 だが……。
「彼女らも、大人ですから。ましてや、これは最初のチャンスですし。……きっと、きちんと受け止められると思います」
 精一杯の笑顔を見せて彼女に頭を下げてから紙を返し、そのまま職員室をあとにするしかできなかった。
 ……不安げな表情。
 それが的中するとは。
 こうなることが最初からわかっていたかのように、彼女はこの1週間ずっと不安な顔をしていた。
 日永先生もそれに気付いているだろう。
 だからこそ――……。
「……はぁ」
 化学準備室のドアの前で、思わずため息が漏れる。
 どう伝えればいいのか。
 ……その前に、仲がいいからこそ彼女は気にするだろう。
 こういう結果になってしまったんだ。
 どうしようもない。
 カチャン、と音を立ててドアを開け、机に向かってパソコンを起動する。
 どうしても、この目で確かめたかった。
 ひょっとしたら、彼女の番号があるんじゃないか――……心のどこかではまだ、あの紙切れ1枚の結果を信じたくなかった。

 その日の昼休み。
 いつも通り、彼女が連絡をしにきた。
 だが、ついこちらが普通の態度をとることができない。
 ……それをわかっているかのように、彼女が苦笑を浮かべる姿が本当につらかった。
 大丈夫、と呟く彼女。
 入試だから仕方ない、という言葉。
 そのどれもが、俺が言ってやらなければいけない言葉だったんじゃないかと、ひどく後悔した。
「…………」
 5時限目の授業中、やはり浮かない顔をしているのは絵里ちゃんで。
 一方の羽織ちゃんはというと、普通に授業を受けていた。
 そんなふたりを視界の端に捕らえながら授業を進めていくと、キリが悪いところでチャイムが響く。
 ……もうそんな時間か。
 いつもはこうなる前に時間を見ながら、終わらせてしまっているのだが……。
「それじゃあ、今日はここまで」
 小さくため息をついて生徒たちを見送ると、絵里ちゃんだけがこちらにやってきた。
 その顔は、これまで以上に浮かない。
「どうして羽織が落ちなきゃいけないの」
「……しょうがないだろ。そういう結果になったんだから」
「だけど……! だけど、小論文も実力試験も、ずっといい点数とってるはずなんだよ!?」
「今ここでそういう話をしても始まらない。……次のセンターに向けて切り替えるしかないんだよ」
「っ……」
 諭すように呟くと、眉を寄せて俯きながら実験室をあとにした。
 ……俺だってそう思った。
 理数系の教科が、ひしめいているというのならば話はわかる。
 だが、彼女が得意とする文系教科ばかりの実力試験で、どうして……彼女が不合格になったのか。
 直接、教授たちに聞きたいくらいだった。
 ……とはいえ、もう決まってしまった覆すことのできない決定。
 受験がそういうものだってことくらい、嫌でもわかっていたつもりだった。
 自分のことならば納得できただろう。
 だが……。
「…………」
 俺のほうがよっぽど、切り替えができそうにないな。
 小さくため息をついてから準備室に戻り、深く椅子に腰をかけると、つい眉は寄りっぱなしだった。

 その日の部活でも、彼女は普通に笑みを見せていた。
 今までのことが嘘だったかのように。
 それどころか、浮かない顔をしている絵里ちゃんを一生懸命励まし、おめでとう、と笑顔を見せているのも見た。
 それに対して、最初は戸惑っていた彼女も、いつしか素直にうなずけるようになっていた。
 ……強いな。
 だが、そんな羽織ちゃんを見ていると、こちらがどうしてもつらくなる。
 相変わらず、彼女は自分を押し込めているのがよくわかったから。
「……あのさ」
「っ……」
 部活が終わってからテーブルに近づくと、彼女が顔を上げて申し訳なさそうに眉を寄せた。
「……まだ何も言ってない」
「そうなんですけど……今日は、家に帰ります」
「そう?」
「うん。……先生と一緒にいると、嫌な思いさせちゃいそうだから」
「そんなことあるわけないだろ。……むしろ、俺にぶつけてくれたほうが――」
「大丈夫っ。ほらぁ、まだ受験がこれっきりなんじゃないんですから。ね?」
 屈託なく笑う彼女。
 ……それこそ、芯の強さをまざまざと見せつけられた気がした。
 だが、何か言おうと手を伸ばすと、彼女が頭を下げて手を振る。
「……それじゃあ……バスがあるから」
「…………わかった」
 差し出した手を握って彼女を見送るも――……やはり、気分は晴れない。
 家に帰って、ひとりで泣くんじゃないか……?
 そんな考えが、べったりと頭にへばりついて取れなかったから。
 勤務を終えて自宅に帰り、いつも通り寝室で着替える。
 いつもならば、彼女がそれをハンガーに掛けてくれてから……夕食の支度を始めるキッチン。
 そこも、今日ばかりは本当に灯の消えたようになっていた。
「…………」
 それこそ、彼女の今の気持ちを表しているようで、まともに見ることはできなかった。


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