「じゃあ、そろそろ出かけようか」
「え? でも、レイトショーまではまだ……」
「飯食わないで、映画見るつもり?」
「……あ」
 すっかり日も暮れて、室内の明かりをつけながら雑誌を読んでいたら、ふいに彼が声をかけてきた。
 そういえば、冷蔵庫にはもう食材がなかったんだっけ。
 あとで買い物に――……なんて言っていたものの、結局映画を見にまたショッピングモールへ行くんだから、そのときに……ってことで決まったんだよね。
「支度は?」
「大丈夫です」
 鍵とスマフォ、そしてお財布を手にした彼にうなずき、バッグを手にあとを追う。
 夜のお出かけなんて、ちょっとだけどきどきしちゃうなぁ。
 それも、初めての映画デートだもん。
「それじゃ、行こうか」
「はぁい」
 伸ばされた手を握り、玄関へ。
 ……彼も、ちょっとくらいはどきどきしてくれてるのかな。
 ちらりと横顔をうかがいながら、またひとりでに笑みが浮かんだ。

「で? 決まった?」
「う。ちょ、ちょっと待ってください」
 いつもと同じショッピングモールだけど、これまでは入ったことのないレストランの一角。
 テーブルに広げられたメニューを食い入るように見つめている私を、彼は腕を組んだまま笑った。
 先生って、イタリアンも和食も中華もなんでも好きみたいだけど、そういえば外食でいちばん多いのはイタリアンかもしれない。
 パスタとか、グラタンとか。そういうのも、実は結構好きみたいで。
 そのあたりの好みは、もしかしたらお兄ちゃんと共通点が多いかもしれない。
 ……あ。
 もしかして、辛くないからだったりして?
「………………」
 すでにオーダーは決まったみたいだけど、メニューに視線を落としている彼をちらりと盗み見。
 何気なく置かれている手……の、長い指。
 細くもなく太くもなく、でもちょっとだけごつごつしてる。
 あ、こうして伏せがちにされてるとわかるけど、まつげも長いんだ。
 それに、きれいな二重だし。
 ……うーん、なんだろう。
 いつもと違って眼鏡がないからか、細かいところに目がいっちゃう。
「決まった?」
「え? あ、まだです」
「……ったく。じろじろ人のことを見てる暇があったら、先に決める」
「えぇ!? ……しっ……し、知ってたの?」
「当たり前だろ」
 思わず目を丸くすると、苦笑とともにうなずかれた。
 ……うぅ、目ざとい。
 まぁ、彼らしいといえばそうなんだけど。
 慌ててメニューに視線を落とし、今自分が食べたいものを懸命に探し出す。
 でも、どれもこれもおいしそうだから、あれもこれもって迷っちゃうんだよね。
「祐恭さんは、何にしたんですか?」
「ん? 若鶏のグリル」
「え……でも、これトマト入ってますよ?」
「でも、味がついてるでしょ?」
「……そうだけど……平気なんですか?」
「うん。羽織ちゃんだって、料理に使われてる人参は食えるでしょ?」
「……うん」
「それと一緒」
 ……そういうものなのかな。
 ってまぁ、そういうものなんだろうけど。
「じゃあ、私はアラビアータにしようかなぁ」
「ん。それじゃ、オーダーしよう」
 彼が手を上げて早速オーダーを済ませると、程なくして目の前においしそうな料理が運ばれてきた。
 いかにも、できたてあつあつという湯気が立っていて、食欲をかきたてられるいい匂いがした。
「……匂いが辛い」
「え?」
 パスタをくるくる巻き始めてすぐと、彼が眉を寄せた。
 ……うーん。
「……だって唐辛子入ってるん、ですもん」
「…………」
 何?
 まるでそう言いたげな目で見られ、びくりと小さく肩が震える。
 え、あの、別に私、あてつけとかそういうんじゃないんですけれど!
 何も言われていないのに慌てて首を横に振ると、嫌そうに見られた。
「辛いの、ね。ふぅん」
「……なんですか?」
「別に」
 意味ありげに見ていたにもかかわらず、視線を外してチキンを食べ始めた。
 ……わ、私、今回は何もしてないのに。
 思わずどきどきする。
 うぅ……もしかして怒った、のかな。
 表情を変えずに、チキンをナイフで切る。
 パンをちぎってひとくち。
 アイスティーもひとくち。
 改めて、ナイフを持って――……。
「……何?」
「…………祐恭さん、怒ってます?」
「え? どうして?」
「……その……私が辛いのを食べてるから」
 眉尻を下げたままお伺いを立てるようにすると、一瞬目を丸くしてから、ふっと笑い始めた。
「そんなことで怒るわけないだろ。俺、そんなに怒りっぽい?」
「あ、ううんっ。そういうわけじゃなくて……」
 慌てて手を振るも、なぜか私のお皿へフォークを伸ばしてきた。
 ……え、でも、辛いのダメなんじゃ……?
 と思いながらも見守っていると、器用にすくって、ひとくち。
「……」
「…………く」
 眉を寄せた彼が、ため息をついてチキンを食べ始めた。
 ……もぅ。先生ってば。
「無理して食べなくてもいいんですよ?」
「変に気にしてるみたいだったから」
「……え?」
 ぼそっと呟いたあとは、何も言わなかった。
 視線も、合わせてはこない。
 ……気を遣ってくれたんだ。
 もくもくと食べている彼を見て、思わず頬が緩んだ。
「あはは」
「……っ……笑うことないだろ?」
「だってぇ」
 頬を染めて視線をそらした彼が、なんだかとてもかわいく見えて、ついつい笑みが漏れる。
 もぅ。……優しいんだから。
 しばらく笑みは収まらず、いつしかそれが彼にも移ったようで、『参ったな』と苦笑を漏らした。

「それじゃ、そろそろ行こうか」
「あ、はぁい」
 食べ終わってしばらく話していると、程よい時間になったらしい。
 腕時計を見た彼とともに立ち上がり、お会計を済ませてから映画館に向かうと、この時間だからなのかそれなりに人も多かった。
「結構、多いですね」
「まぁ、こんなもんじゃないかな。夜のほうが、社会人は好都合」
「……あ」
「何?」
「ううん、なんでもないです」
 そうは言いながらも、繋いでくれた手に力を込め、少しだけ身体を寄せる。
 えへへ。
 こういう、何気ないやりとりがたまらなく嬉しいことを、彼は知っているだろうか。
「Cスクリーン、高校生2枚」
「かしこまりました。少々お待ちください」
 チケットカウンターへ向かってすぐ、放たれた言葉に思わず目を見張る。
 …………高校生、ですか。
「はい。……ん? どうかした?」
「えっと……高校生かぁ、って」
「まぁね。利用できるモノは、使う主義だよ? 俺は」
 チケットを渡してくれながら、彼は楽しそうに笑った。
 なんだかんだいって、満喫してるのかもしれない。
 口元に笑みを浮かべたままゲートへ向う彼を見ていたら、苦笑が浮かんだ。
 構えていたスタッフから半券を受け取ってCスクリーンと大きく示されているドアの中に入ると、以外にも人影はまばらだった。
 外にはあれだけの人がいたのに。
「どうした?」
「あ、ううん。別に」
 指定席まで彼が導いてくれたお陰で、すんなり席にたどり着いた。
 真ん中より、少し上。
 空いているお陰でベストな位置に座れたし、前列にもほとんど人がいない。
 そういえば、子どものころは前で見るのが好きだったっけ。
 さすがに今は、そんな無茶なことはしないけど。
「あ、そうだ。ジュース買ってきましょうか?」
「……そういや忘れてたな。行ってくるよ」
「いいのっ! ジュースは私が買ってくるから。何がいいですか?」
「……俺に聞く?」
「ですよね」
 苦笑を浮かべた彼にうなずき、立ち上がってから売店に向かう。
 オーダーは、もちろん“アイスティー”。
 それを受け取ってからふたたびゲートへ向かい、Cスクリーンのドアをくぐる――……ところで、ふいと目に入ったものがあった。
「あれ?」
 見覚えのあるカップルが、少し先を歩いていた。
 あの、うしろ姿。
 間違えようと思ってもなかなか間違わない、独特の雰囲気がある。
 ……あ、やっぱり。
 ふい、と彼のほうが横を向いたため、誰か判別することができた。
 山中先生と、しーちゃん。
 まさか、こんな時間にふたりが一緒にいるなんて……え、え、なんかすごい場面を見ちゃったのかな? もしかして。
 しかも、なんだかとっても嬉しそうだし。
 ……もう、どこからどう見ても恋人同士だなぁ。
 思わず微笑みながら席に戻ると、そんな私を見て彼は不思議そうにまばたいた。
「山中先生としーちゃん、きてますよ」
「え、ここに?」
「うん。ほらっ、あそこ」
 席についてから前列を小さく指差すと、私たちより5列ぐらい前の席に座るふたりの姿が見えた。
 そんなふたりを確認したらしき彼も、小さく微笑む。
「へぇ。微笑ましいね」
「でしょ?」
 アイスティーを渡すと、うなずいてから早速ひとくち。
 うん、よかった。
 自信満々でアイスティーを買ってきたので、『違う』と言われたら内心どうしようかとも思ってたんだよね。
「でも、どっちが見たがったんでしょうね。この映画」
「んー……。田中さんって感じじゃないけど……でも、山中先生……見るかなぁ」
 ――……そう。
 今から上映される映画は、バリバリのアクション。
 もちろん、お約束程度には恋愛要素も多少含まれるだろうけれど、意外といえば意外な選択なんだよね。
 しーちゃんは、恋愛物こそ見てもこういうアクションは見ないと思うし、山中先生はもっと大人しい映画が好きな気がして、なんとなくしっくりこなかった。
「……あ」
 ほどなくして流れた注意喚起のあと、ブザーとともに照明が薄れ始めた。
 映画が始まる前のこの瞬間は好き。
 なんだか、わくわくしちゃう。
 ……なんていったら、子ども扱いされるかもしれないけど。
「…………?」
 ふと、左側の感触が変わったので彼を見ると、真ん中にあった肘置きを上げたところだった。
「これ、上がるんですね」
「それが売りなんでしょ?」
「……そうなんですか?」
「そのためのラブシートだもん」
 …………ラブシート。
 っ……なるほど。
「そ……だったんですね」
「え。気付いてなかったの?」
「……えと、あの……ずいぶんゆったりしてるなぁとは思ったんですけど」
 しどろもどろに呟くと、スクリーンの光に照らされた彼が小さく笑った。
 ……うぅ。どうせ鈍いです、私は。
 何を言われても否定できないので、こっそり唇を尖らすしかできない。
「……もぅ。笑わなくてもいいじゃないですか」
「ごめん。まぁいいじゃない。ゆったり見れるんだから」
「……っ……それは、まぁ」
 なだめられて小さくうなずくと、彼がそっと肩に手を回してきた。
 少し驚いて彼を見るものの、すでに視線はスクリーンへ。
 とはいえ、まだ今後の予告映像ばかりで本編は始まっていない。
 ……でも、嬉しいから何も言わない。
 だって、今の彼なら誰に見られてもいいんだもん。
「…………」
 少しだけ、彼へもたれるように身体を預ける。
 すると、彼が髪に指をかけ始めた。
 多分、無意識なんだろうなぁ。
 ……でも、彼に髪を触られるのは好き。
 ちょっとだけ、気持ちよくて眠くなっちゃうけどね。


ひとつ戻る   目次へ   次へ