「っく………はぁ」
「……あー……気持ちいい……」
「……なんて言うかこう……抜かれる前って……」
 思わずぞくりといた感覚に口元を緩めると、純也さんもどこか悦の表情を浮べていた。
 途端、ぎゅっと締め付けに襲われる。
「……く……純也さん、俺もうダメかも」
「祐恭君……まて、早まるな!」
「…………う……あ」
「祐恭! ま、待てっ! まだ――……!!」
 彼が、慌てたように身体を起こした途端――……。
「はいはいはいはい。そんな声出さないでください」
 大柄な女性の看護師に、一喝された。
 ……そりゃそうだ。
「あはは、すみません」
「……いや、なんかこー……つい」
「つい、じゃないですよ」
 半ば呆れた様子でバンドを巻いた右腕に手際よく太い針を刺すと、彼女は機械を動かしてから次の場所へと足を向けた。
 そんな後ろ姿を見ながら、純也さんと顔を見合わせて苦笑する。
 本日は、午前中3時限を使って献血が行われていた。
 年に1度の催しといえば、まぁ催しだろう。
 かくいう自分も、高校時代には3度ほど献血の経験があった。
 ……というわけで。
 やけに太くて長い針を腕に刺されたまま数十分。
 半分寝たような体勢で己の血が抜かれていくのを、ひたすら見るだけ。
 ……これは、結構暇で。
 ついあんな遊びをしてたんだが……そりゃ、怒られるよな。
 成分献血や400mlが主流になっている現在、俺達男性教員はもちろん400ml。
 400ってすごいよな。
 そんな量の血液が身体から出ていく状況は、日常生活ではまず考えられない。
 んなことになったら、事件だ。事件。
「……しかし、俺たちなんてまだ大人しいほうだよなー」
「そうそう。内山先生のはしゃぎっぷりはハンパなかったすね」
 体育科の内山教諭。
 厳つい体格で、いかにも体育科という雰囲気をぷんぷん漂わせている。
 結構オクテのようで実は女性関係が激しいとか、実はロリコンで他校の生徒に手を出した……とかいう噂も聞く。
 ……そんな教師を、体育科に配属しないでもらいたいもんだが。
「『俺は今っ、人のためにぃッ』とか言ってたしね」
「そうそう! ……びっくりしましたよ。何かと思った」
「血が抜かれてるの見てるときも、やたらハイだったしな」
「……なんか、ちょっとヤバい人でしたね」
「ちょっとどころじゃなかったろ」
 彼の勢いに呼応するかのように血の出方もハンパじゃなかったらしく、数人の看護師が集まって困った顔をしていたのが思い出された。
 ……恐い人だ。
「しっかし、自分の血が抜かれるって……なんかなぁ」
「ですね。まぁ、男の場合こうして抜いてもらったほうがいいらしいっすけど」
「だろうなー。大怪我でもしない限りは、新しい血なんて作られないし」
 だくだくと脈打つ針の刺された部分を見ながら呟くと、みるみる赤い血液が袋へと入っていった。
 ……しかし、暇だ。
 などと考えていると、優人がバスに乗り込んできた。
「お疲れっす」
「おー、菊池先生。これから?」
「ええ。ヌキにきました」
 あははと純也に笑った彼が、笑みを浮べて小さく返した。
「……なんか、その言い方やらしいな」
「えー? 何を想像したのか聞きたいっすね」
 にやっと純也さんに笑ってから椅子に座った彼も、看護師にあれこれ準備をされ始める。
 ……つーか、こいつは……。
 やっぱり、彼が教師としてこの場所にいるのが、不思議でならない。
「で? 最近、おふたりはどうなんですか?」
「……何が?」
「夜の営み」
「……優人。お前喋るな」
「祐恭に言われたくないねぇ」
 眉を寄せて彼を見ると、平然と返された。
 ……くそ。
 その顔がまるで『俺はなんでも知っている』と言っているようで気に食わない。
 ……一体どこまで知ってるんだ、お前は。
 などと思っていたら、純也さんが顎に手を当てた。
「……いや、俺は普通……ていうか、祐恭君のほうこそ結構――」
「ぬぁっ!? 何を言い出すんですか!」
「あ、やっぱ田代先生もそう思います?」
「うん。ほら、まだ若いし」
「いやいやいや、俺も純也さんも変わんないっすよ!?」
「いやぁー、2歳の差は大きいよ」
 にやにやと笑いながら顎を撫で、興味ありげな視線をこちらに送ってきた彼。
 ……じゅ……純也さんまで敵に回らなくても。
「……う……いや、あの……」
 頭をかいてふたりから視線を外すと、優人が小さく笑って声を潜めた。
「あ、そうそう。……ふたりとも、知ってます?」
「……何を?」
「いいラブホ情報」
 ……またコイツは。
 優人は、昔っからこういう話が好きだ。
 大学のときも、頼んでないのにいろいろ吹き込まれた。
 そもそも、お前の情報源は一体どこなんだ。
「……へえ。どういいわけ?」
 しかし、意外にも純也さんが楽しそうに身を乗り出した。
「いや、それが――……」

 しばらくの“間”。

「うっそ、マジで!?」
「もちろん。マジも、大マジ」
「すげー、そんなトコあるんだ……」
「ほら、祐恭も行きたくなったろ?」
「……う。いや、俺は別に……」
「嘘つけー!お前、アイツにそういうことしたいとか一瞬考えたろ! え!? このエロ教師がっ」
「ちょ、待て! デカい声で言うな!!」
 内心冷や汗をかきながら首を振ると、先に入っていた純也さんが終わったらしく管と針を外されて立ち上がった。
「んじゃ、詳しい話はまた今度聞かせてよ」
「あはは、わかりました」
「じゃ、お先ー」
「お疲れっす」
 ひらひらと手を振ってバスを降りる彼を見送ると、優人が楽しそうに話を続けてきた。
 ……だから、なんなんだその顔は。
 お前、絶対またよからぬことを言おうとしてるだろ。
「行きたいだろ?」
「……別に」
「嘘つけー。お前、顔がニヤけてるぞ?」
「……こ……れはだな」
 慌てて口元を押さえると、おかしそうに彼が笑った。
 ……悪かったな。
 でも、誰だってこういう顔になるぞ。きっと。
「ま、今度行ってみろよ。場所教えてやるから」
「そんな暇ねぇよ」
「いいからいいから。1回行ったらハマるかもよ?」
「……誰が?」
「羽織が」
「ぶ。まさか!」
 意外な人物の名前に思わず吹き出すと、にやっとした笑みを浮かべて首をかしげた。
 ……って、えぇ!?
 いやいやいや、それはないだろ。
 だって、彼女が……?
「わかんねーぞー? アイツ、結構好きかも」
「……でも、なぁ」
「ま、テストが終わったら行ってこいよ」
「考えとく」
 そんなことを言いながら苦笑を浮べると、ようやく俺も献血が終わった。
 手早く処置を施してもらい、とっととバスを降りる。
「じゃあな」
「おー」
 優人に軽く手を振って出ると、いくつかの粗品を渡された。
 ……最近はこんなモンまでくれるのか。
 カレーセットと書かれた箱を手にして、感心する。
「……ん?」
 昔はジュース1本とかだったのにな……と考えながら2号館へ足を向けたとき。
 同じように、小さな袋を手にした羽織ちゃんを見つけた。
 ……どうやら、最近目ざとさが増したらしい。
「献血終わったの?」
「あ、先生」
 振り返ってこちらを見た彼女に、いつもよりもふわふわしたような印象を受ける。
 ……貧血? え、今ので?
「……平気?」
「え? ……何が?」
「なんか、今にも倒れそう」
「……うん。倒れるかも」
 舌を少しもつれさせながら彼女が弱く笑うと、本当に儚くて今にも消えてしまいそうだった。
「……おいおい。ちゃんと問診受けたのか?」
「ん。ちゃんと比重も見てもらいましたよ」
「……で、受けたの?」
「うん。あの量って、もっと多いのかと思ったけど、だいじょぶでした」
「まぁ……それならいいけど。昼飯、ちゃんと食えよ?」
「ん。大丈夫」
 絵里ちゃんに呼ばれてそちらを振り返ってから、こちらに笑みを浮かべて軽く走っていった彼女。
 ……走ると転びそうだな。
 眉を寄せて彼女を見送ってから、別の校舎へ足を向ける。
 ……大丈夫か?
 不安ではあるものの、どうすることもできないのが歯がゆい。
 やはり、そういう意味でも学校っていう場所は厄介だ。
 ……まぁ、教師と生徒なんだから仕方ないけど。
 そうは思いながらも、いつもと違ってしゃきっとしていない彼女のうしろ姿が、やはりいつまでも瞼に残った。

「………来ないな」
 化学の授業前。
 いつもならばとっくに連絡へ来ている彼女が、今日は昼休みが終わるころになっても来なかった。
 ……なぜ?
 などと考えながら頬杖をついてプリントを手持ち無沙汰に弄っていると、ドアがノックされた。
「……あれ」
「連絡に来ました」
「羽織ちゃんは?」
「死にそう」
 ……やっぱり。
 入って来たのは、彼女ではなく絵里ちゃん。
 ……まぁ、さっきのあの様子じゃ仕方ないと思うけど。
「今日は、期末前だから自習。……にしたいけど、プリント。まぁ、自習みたいなもんだな」
「はーい」
 それだけ告げると、返事をしてから準備室をあとにした。
 ……とはいえ、純也さんと話してからだけど。
「…………」
 再び頬杖をついて窓から外を眺めると、晴れているのにどこか光が弱く見えた。
 これも、冬だからってことか?
 などとため息をつくと、小さな笑い声が聞こえた。
「……え?」
「いや、祐恭君って羽織ちゃんが連絡に来ないと、つまんなそーだなーと思って」
「……まぁ、やっぱり。1週間長いっすからね」
「気持ちわかるなー。……って、俺の場合は毎日顔見てるからあれだけど……」
 こういうとき、一緒に暮らしているというのは素直に羨ましい。
 やっぱ、週末だけしか会えないからこそ……寂しいものもあるし。
 まるで、ちょっとした遠距離恋愛でもしているようだ。
 ……って、実際の遠距離はこんなんじゃないんだろうが。
 姿を見れる分、まだいいと思わなければいけないかもしれない。
「しかし、貧血かー……。貧血だと何が効くんだろ」
「すっぽんドリンクとか飲ませれば?」
「……本気で言ってます?」
「ちょっと本気」
 にっこり笑った純也さんに苦笑を浮べると、ダメかなー? と訊ねられた。
 ……純也さん、それはないでしょ。
「…………彼女が飲むとこ、想像できないんすけど」
「だから、いいんじゃない。結構そそられるかもよ」
 ……彼女がすっぽんドリンク?
 うわぁ……ちょっと萎える。
 あ、いや。
 まぁ、飲んだあとは楽しみだけど。
「いやいや、それはないっすよ。……って、純也さん。もしかして飲ませたことあるんですか?」
「……え? いや、どうだったかなー」
 豪気だ、この人。
 瞬時に絵里ちゃんが飲む姿を想像できてしまい、笑えた。
「じゃあ、アレだ。たまには祐恭君がメシ作ってあげれば?」
「……メシ……ですか?」
「うん。ほら、男の料理っていうやつ? 喜ぶんじゃないかなー」
「………メシかぁ」
 そんなことを考えながら彼と話していると、チャイムが響いた。
 どうやらすでに実験室には生徒が集まっているらしく、ざわざわと話し声が聞こえてくる。
「ま、彼女無理させないためにも……しばらくはお預けだな」
「……俺は、毎日毎日食ってませんよ」
 さらりとすごいことを呟いた純也さんに苦笑を浮べて立ち上がり、プリントを持って実験室へ。
 ドアを開けた途端に聞こえた号令で、頭を下げてからプリントを配る――……と、自然に目は彼女へ向いた。
 ……あー、ありゃダメだな。
 ホントに、すっぽん飲ませたほうがいいかも。
 机にふせって今にも崩れそうな顔をしている彼女を見たら、ため息が漏れた。
 ……でも、俺がメシ……ねぇ。
 確かに、作ってやろうかという気にはなる。
 だが、何を作れば喜ばれて、どうすれば血が作られるのか……よくわからない。
 トントンと指で机を叩きながら頬杖をついていても、いい考えが浮かぶわけもなく。
 ただただ、時間だけが過ぎていった。


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