「テスト始めー」
 教室に自分の声だけが響くと、同時に紙を翻す音が広がった。
 長かった期末テストも、今日で一応は終わり。
 最終日の最終科目が化学というのは、何かしら妙な因果を感じもするが、まぁよしとしよう。
 教卓に手をついてから改めて生徒たちを見回すと、どの子も真剣に問題へ向かっていた。
 無論、羽織ちゃんとて例外ではなく、真剣に問題を見つめているのがわかる。
 以前とは違い、さらさらと書いていくようになった化学の答案。
 ……これは、ひとえに自分の教育の賜物か。
 それこそ、夏休み前までは化学ができずに困っていた彼女も、今ではそれなり。
 この分ならば、センターはいいところまでいくかもしれない。
「…………」
 危うく、欠伸が出そうになる。
 ……椅子にもたれてると、ついつい眠気が襲ってくるから困ったモンだ。
 これは昔と変わらないことで、一種のクセのようなもの。
 だからこそ、厄介なことに変わりないのだが……とりあえず、本でも読むか。
 椅子に座り直し、束ねてきたプリントとファイルケースの間から本を取り出す。
 本と言っても化学関係ではなく、久しぶりに孝之から読めと勧められた小説だ。
 推理物ながらも、結構面白い。
 ……途中で、犯人の名前に丸付いてたりしないだろうな。
 孝之がやりそうなことだけに、ついつい苦笑が漏れた。

「それじゃ、これで期末テストは全部終了。お疲れさま」
 響いたチャイムで立ち上がり、答案を集める。
 ようやく解放されて気が緩んだからか、伸びをする生徒たちが多かった。
 ……ま、気持ちはわからないでもないけどね。
 苦笑しながら教室をあとに――……したとき、目に入ったのは愛しの彼女。
 できてるのかできてないのか、判断が微妙なところか。
 表情からある程度の察しをつけながらも、渡り廊下を進んで準備室へ向かうことにした。
「……純也さん、早いですね」
「お。おかえりー」
 コーヒーを飲みながらうなずき、赤ペンでさらさら丸付けをしている彼。
 器用だなーなんて思いながら自分も机にテストを置き、早速採点を始めることに――……して、やめた。
 今夜は彼女が家に来るんだし、2組の採点はそのときにまわすか。
 ……敢えて、ね。
 目の前でちくちく苛めてやろう。
 相変わらず、どんどん彼女に対して意地が悪くなっている気がするのだが、まぁ、いまさら気にはしない。

 ……やるなら今しかない。
 ごく、と喉が小さく鳴った。
 夕食も終えた現在。
 いつもだったら、彼と一緒にお風呂へ入っている時間だ。
 だけど、今日だけは無事に私ひとりで入りきることができた。
「…………」
 ごくり、と喉が鳴りそうになるのを慌てて押さえる。
 今日だけは、どうしてもしなければいけない任務があるの。
 ――……それは、ずばり。

 『DVD探し』

「……よし」
 ぐっと両手を握ってからブランケットを背中に被ったままでテレビの棚に向かい、こそこそと探し始める。
 どうしても、彼にあげたかったDVD。
 売っていることはすでに確認済みなので、あとは彼が持っているかどうかを確認するだけ。
 もし、えっちなDVDが出てきたらどうしようかとも考えたけれど、そのときはそのときというわけで。
「…………」
 ここの音が浴室まで届くとは思えないけれど、万が一を考えて音をなるべく立てないようにDVDを探る。
 …………って、多いなぁ。
 自分の予想以上に出てきた、DVDとビデオ。
 それも、すべてが映画ばかりというラインナップ。
 DVDは字幕と吹き替えが選べるから判断するまでもないけれど、ビデオにいたってはすべてが字幕オンリーだった。
 相変わらず、彼は自分が考えている以上に映画を見ているらしい。
「………スゴイなぁ」
 以前、英語の勉強になるとは言われたものの……やっぱり、ネイティブの人の発音だと早くて聞き取れないんだもん。
 それに、知らない単語もあるし。
 ……でも先生、これ全部見たんだよね、きっと。
 出てくる出てくる、映画のDVD。
 こんなに洋画が好きだとは思いもしなかっただけに、意外な感じもする。
 …………いよいよ、もうすぐクリスマス。
 それで、何をプレゼントしようかずっと考えてたんだけど――……絵里に聞いたら、こんなとんでもない答えが返ってきた。

 あれは、つい先日一緒に買い物に行ったときのこと。
「羽織はさ、リボンだけ買えばいいんじゃない?」
「リボン?」
「そ。リボン」
 彼女の意図が読み取れずに眉を寄せると、雑貨屋のくまに巻かれていた赤いチェックのリボンを指した。
「ああやって、羽織もリボン首に巻いて先生の前に座ってみれば?」
「……え?」
「きっと、先生何よりも喜ぶと思うわよー」
「もぅ。何言ってるの? それじゃ、なんにもプレゼントできないじゃない」
「……だから。リボンを自分に巻いて、自分をプレゼントしろって言ってんでしょうが」
「…………」
「…………」
「……え、そういう……こと?」
「そゆこと」
 はぁ、とため息をつきながらうなずいた絵里に瞳を丸くすると、にやぁっと意地の悪そうな笑みを見せた。
 途端、頬だけじゃなくて身体もかぁっと熱くなる。
「お金もかからないし、何よりも先生が喜んでくれる。ほら、一石二鳥じゃない」
「ち、違うのっ! ていうか、そんなの、ダメっ!!」
「あら。なんでよ」
「な、なんでもでしょっ!」
 ぶんぶんと首を振って否定すると、おかしそうに絵里が笑った。
 ……うぅ。
 そんなことをした日には、先生に何を言われて、どんな目に遭うか……。
 熱い頬を手で押さえながら眉を寄せると、相変わらず絵里はものうごく楽しそうだった。
 ……もぅ。
 先生と似て、意地悪だよね。絵里ってば。
「……はぁ」
 ついつい、蘇った先日の絵里の言葉に、また顔が熱くなった。
 ……さすがに、そんなプレゼントはしないよ? 私は。
 これでも、今までの経験上そんなことをしようものなら彼がどう言うかくらいの見当はつくから。
 大きくため息をついてから改めて棚を見るも、出した物のほかに隠されていそうな物はなかった。
 ……うーん。
 自分が捜し求める物は、どうやらここにはないらしい。
 ということは、やっぱり持ってないんだ。
「……えへへ」
 にやけてしまう顔を抑えながら、出した物を元に戻し始める。
 ……ここも掃除しなくちゃなぁ。
 古いテープもあることだし、恐らく劣化している物もいくつか――……。
「わぁっ!?」
 ごそごそ戻しながらふとキッチンに目を向けると、そこには壁にもたれながらアイスティーを飲む彼の姿があった。
 しかもしかも。
 瞳を細めて、いかにも一部始終を見てましたという顔で。
「え……あぅ……えー……と」
 しどろもどろに呟きながら手早くDVDをしまい、ごまかすように笑みを浮かべる。
 それを見た彼は、ぺたぺたとスリッパの音を響かせながら近くに来て、グラスをテーブルに置いてから目の前にしゃがんだ。
「何してたの?」
「……お……お掃除」
「嘘つき」
「う、嘘なんかじゃ……っ」
 バレバレの嘘をつきながら眉を寄せると、にやにやと笑いながら頬杖をついた。
 ……え……?
「ウチに、羽織ちゃんが好きな物はないよ?」
「……好きな物?」
「そう。あ、これか」
 そう言った彼は1本のDVDをデッキに入れた。
 小さな始動音のあと、自動再生が始まって――……。
「っ!?」
 画面が目に入った途端、慌てて取り出しボタンを連打。
「なっ……な!?」
「絵里ちゃんに返すって言いながらまだ家にあるあたり、実は気に入ってるってことだろ?」
「違うのっ! これは――」
「そんな照れなくてもいいのに」
「照れてません!」
 にやにやと笑って瞳を細めてから、立ち上がってソファにもたれる彼。
 ……あぁもう。
 ていうか、どうしてひと目でこれが例のDVDだとわかったんだろう。
 先生、こっそり見てる……? って、そんなわけないか。
 絵里から誕生日にもらったAVを棚の奥深くにしまってから立ち上がり、彼から少し離れた場所に腰を下ろす。
 ……はぁ。
 なんか、気まずい。
 先生、いつから見てたんだろう……。
 それとも、気配を感じないほど探すのに集中してたのかなぁ。
 あれこれ考えながらテレビに視線を向けると、すぐそこにいた彼が鞄から何かの束をテーブルに置いた。
「……? なんですか? それ」
「何に見える?」
「えーと……。あ……」
 広げられたそれは、期末テストの答案だった。
 普段、家で学校の仕事をほとんどしないからか、ついつい物珍しさから興味が湧く。
「珍しいですね、家でやるなんて」
「ん? …わざと」
「わざと?」
「そ。出席番号7番、瀬那羽織」
「……え……」
 紙へ視線を落としたまま読み上げたかと思いきや、ふいに瞳を合わせてきた。
 もしかしてそれってあの、私の答案とかってものですか。
「目標点数は?」
「え? ……あの……平均点より高く……」
「今のところ、平均は55点。……若干低いな」
 どうやら少し不満らしく、ぽつりと呟いた彼が赤ペンを取り出してキャップを取った。
 その顔つきも、少しだけ険しい。
 ……う。55点って。
 どうしよう。50点切ったりしてたら。
「第1問。カリウムの炎色反応は何色?」
「え? ……赤……ですか?」
「……赤ァ?」
「あ、き……黄色?」
「黄色!?」
 うぐ。
 何もそんなに、も、ものすごく嫌そうな顔しなくてもいいじゃないですか。
 気持ちはわからないでもないですよ?
 ……でも、もうテスト終わったんだもん。いまさらいろいろ言われても困る……わけで。
 だって、答案用紙にもしっかりきっちりばっちりと、私は“赤”と書いたのに。
「……あの……ごめんなさい」
 上目遣いに彼を見ながら呟くと、頬杖をついたままで私を睨んでから、ペンでコンコンとテーブルを叩いた。
「紫」
 はぁ、とため息をついてから小さく斜めに線を引き、続いて第2問。
「…………」
 ――……は、何か言われるのかと思いきや、普通に丸が付いた。
 ……ほっ。
 3と4の問題も無言で丸をつけての、第5問。
 そこで再び彼の手が止まった。
「両性金属を4つ」
「……書いてある通りなんですけど……」
 ぽつりと呟いて彼を見ると、『早く答える』とばかりの視線が来た。
 ……うぅ。
 間違ってるなら間違ってるで、言ってくれればいいのに。
 視線を逸らしながら、書いてある通りに続ける。
「アルミニウムと、亜鉛と、鉛……」
「……あとひとつは?」
「それが……出てこなくて……」
「……はー。センターまであと何日だったかな」
 う。
 そ、それは……よくわかってるつもりなんだけど。
「スズだろ、スズ」
 4点中3点。
 それを示す、三角形に3の字を書き込んでから次の問題に丸をつけると、再び彼の手が止まった。


目次へ  次へ