火曜日の化学の授業前。
 いつも通りに、ひとり向かう化学準備室。
 いよいよ今週の金曜から、冬休みに入る。
 そのせいか、ついつい浮き足立ってしまっていた。
 ……ものの。
「…………はぁ」
 今日、例の化学のテストが返ってくる。
 すでに自分が何点を取っていたのかは知っているものの、点数に若干疑問があった。
 どうして、『69点』がやらしい点数なんだろう。
 彼に聞いても結局教えてもらえないままで、今日という日を迎えてしまった。
 ……でも、あえて気にしないことにしよう。
 よくわからないけれど、彼が言いたがらないことを無理やり聞き出さないほうが、自分のためにはいいような気がするし。
 小さくうなずいてからドアを開けると、いつもと同じ声が出た。
「失礼します」
 見慣れた通路を通り、彼の机へ。
 自分が持参したお弁当はすでに片付けられており、マグカップに口付けながら答案用紙に目を落としている姿が見えた。
「先生」
「次は、テスト返却。嬉しいだろ?」
「…………あんまり……」
「……ふぅん。そういうこと言っちゃうんだ。……へぇ」
「あ、ううんっ。嬉しいです! すごくっ」
 瞳を細めて淡々と言われ、慌てて手と首を振る。
 すると、くすくすと笑いながらコーヒーを置いた。
 ……珍しい。
 思わず、瞳が丸くなる。
 だって、こんなふうにお仕事中欠伸をするなんてところ、見たことないんだもん。
「……昨日、がんばりすぎたかな……」
「え?」
 がんばる。
 ……って、何を?
 なんて考えながら彼を見ると、頬杖を付いたままでじぃーっと見られた。
 ……え……?
 えぇえ!?
 ……ち、ちがっ……!
 私、何もしてませんよ!?
 まるで『羽織ちゃんのせい』と言い出しそうな彼に慌てて首を振ると、それはそれは意地悪そうに、にやっと笑った。
「……論文の話だけど?」
 あ。
 ……そ、それは……そうですよ。
 当たり前じゃないですかっ。
「……し、知ってます」
「今、違うこと考えたろ」
「かっ、考えてませんっ! もぅっ!!」
 頬が赤くなるのを感じながら彼を軽く睨み、慌ててその場をあとにする。
 ドアを閉めるときにこっそり奥を覗くと、田代先生と何やら話しながらまだ笑っているのが見えた。
 ……もぅ。ホントに、楽しそうな顔するんだから。
 小さくため息をつく……ものの、ついつい自分の顔にも笑みが浮かぶ。
 それが、少しおかしかった。

 席に着いて絵里とあれこれ話していると、彼がテストの束を持って教室に入って来た。
 それを見て号令がかかり、起立、礼を済ませて席に着く。
「テスト返すから、順番に取りに来て」
 どこか楽しそうな彼に、苦笑が浮かぶ。
 ……なんで、あんなに楽しそうなんだろう。
 なんて考えながら見ていたら、ほどなくして自分も呼ばれた。
「はい、どうぞ」
「……ありがとうございます」
 にっこり笑ってそれをくれたものの、どうしてもあの夜のことがなんとなーく浮かんでくるわけで。
「……やらしい」
「なっ……!」
 受け取る瞬間、彼が口元に手を当てて小さく呟いた。
 驚いて彼を見るものの、すでにそ知らぬ顔で次の子を呼んでいる。
 ……うぅ。意地悪。
「……はぁ」
 先日見たままの答案を手に、机へ戻ってからもう1度見直してみる。
 ……まぁ、彼の採点に間違いがあるとは思えないけれど。
 小さくため息をついてから半分に折って外を眺めていると、絵里が背中をつついた。
「ちゃんと確認したの?」
「……したもん」
「あっそう。でも、あと1点でも違ってれば、そんなこと言われなかったのにねー」
「…………うぅ」
 くすくす笑いながら席に着き、椅子を寄せてこちらに視線を向けた彼女。
 ――……実は。
 どうして『69点』がやらしいのか、彼女に聞いてみたのだ。
 だけど、やっぱり――……絵里は教えてくれなかった。
 あれは、『知らない』っていう顔じゃない。
 それはわかったんだけど……ね。
「でも、先生ってホント楽しそうよね」
「……楽しそうって……何が?」
「だから、羽織に何か言ってるとき」
「…………そうかなぁ」
 まじまじと彼を見ると、答案を手にしたほかの子と何か喋っていた。
 いつも自分に向けられる意地悪な笑みじゃなくて、私が惹かれたあの優しい笑み。
 ……む。
 なんとなく、自分といるときよりも楽しそうに見えるのは気のせいかな。
 ……あれ、これってもしかして、嫉妬?
「………………」
 両手で頬杖をつきながら彼を見ていると、答案を返し終わったらしく改めて姿勢を正した。
「じゃあ、解答配るから」
 1度机で揃えてからそれぞれに配られた、プリント。
 それを見て、絵里も席に着く。
 回ってきたプリントを見てみると、やっぱりどれもこれも先日彼に直接聞いた答えばかりだった。
 ……はぁ。
 教室内に、当然といえば当然なんだけれど彼の声が響きわたる。
 それは、やっぱり心地良い。
 彼と初めて会ったときから、ずっと好きな声。
 そして、彼と付き合うようになって、もっともっと好きになった時間。
 少しずつ化学にも興味が出てきたし、比例するようにちょっとずつだけど点数もよくなっている。
「それで、この式は――……」
 チョークを持った手で、カツカツと黒板に書かれていくきれいな字。
 そして、丁寧な化学式や構造。
 ……長い指。
 弓道をやっていたから? って、あんまり関係ないか。
「…………」
 腕力だって自分よりずっとある、大きな手。
 教卓にもたれるようにしながら解答を説明する声。
 そして、少し伏せ目がちな眼差しも、どれもこれもが彼だった。
 つい、答案用紙ではなく彼に見入ってしまう。
 授業中はほとんど視線が合うことはないものの、それでもときおり合うとやっぱり嬉しくて。
 …………あ。
 ペンを握りながら彼を見ていたら、ふいに視線が合った。
 もちろんすぐに逸らされ、彼はそのまま黒板に字を書き始める。
 だけど、一瞬とはいえ目が合うのは、やっぱり……いいんだよね。
 にまにまと笑ってしまいそうになるのをこらえながら答案に目を落とし、私も間違った箇所に彼の答えを書き込んでいくことにした。

 授業を終えての、時間。
 結局、彼が途中で脱線してしまったため、時間内に答え合わせが終わらなかった。
 それで、自分で答え合わせをしていたんだけど――……。
「……あれ」
 1番最後の問題。
 そこに、バツが付いていた。
『二級アルコールが酸化すると、何になるか』
 答えは、ケトン。
 ……確か……合ってるって言ってたよね。
 あの夜の言葉を思い出しながら、ふと考える。
 事実。解答用紙にもケトンと書かれているわけで。
「……わざと69点にしたかったんじゃない?」
「え?」
 振り返ると、すぐ横に絵里が立っていた。
 しかも、その顔は……ものすごく楽しそうだったりして。
「……まさかぁ」
「わかんないわよ? 先生なら、やりそうだし」
「……むぅ」
 『そんなことしないよ』と否定できなかったことを彼が知ったら、たちまち怒られそうだけど。
 でも、そういわれるとそんな気になるから、人間って不思議。
 まじまじとナナメに線が入っている箇所を見ながら立ち上がり、とりあえず抗議のために準備室へ向かう。
 だって、悔しいじゃない?
 もし、絵里の言う通り『わざと』だったりしたら……。
 眉を寄せて答案用紙と睨めっこしたまま準備室に向かうと、丁度彼がドアから出てきたところだった。
「あ、先生」
「ん?」
 私に気付いて視線をくれた彼に、早速答案用紙を見せる。
「ここ。合ってるんじゃなかったんですか?」
 眉を寄せて彼を見ると、小さく笑ってから実験室のドアを開けた。
「んー。ほら、眠くて付け間違えたんじゃない?」
「ウソ! だって、あのときだって……合ってるって言ったじゃないですか」
 しどろもどろに続けながら彼のあとを追うと、少し高くなっている壇上に上がって苦笑を浮かべる。
 どうやら次の時間も授業が入っているらしい。
 実験の準備をしながら、視線を外したまま小さく笑う。
「どうだったかな。ほら、教師も人間だから。間違いのひとつやふたつはあるだろ?」
「……わざとじゃないですよね?」
「わざと?」
「うん。……絵里にも……言われたんですけど……」
 答案を丸めながら胸の前で持つと、黒板にもたれた彼がいたずらっぽく笑った。
 ……なんですか、その顔は。
「俺がそんなことすると思う?」
「……しないって言い切れないんだもん……」
「それはまた随分だな」
 だって、しょうがないじゃないですか!
 絵里に言われて、すぐに否定できたらどれだけいいか。
 そうすれば、私だってこうして彼に――……。
「っ……!」
 とん、と壇から降りた彼が目の前に立った途端。
 こちらに両手を出し、頬を包むとそのまま顔を上げさせた。
 近づく、彼の顔。
 え……ちょ、ちょっと待って!
 だって、ここ、まだ……学校!!
「せ、先生……っ!」
 慌てて眉を寄せ、緩く首を振る。
 だけど、彼はまったく気にしていない様子で小さく笑った。

「こうして、ふたりきりになるための口実だって言ったら……どうする?」

「……こ……口実……?」
「そう。わざとバツ付けとけば、こうして俺んトコ来るだろ?」
「っ……な……」
「事実、来たし」
 目の前で薄く笑った彼を見て、思わず瞳が丸くなる。
 でも、やっぱり彼はそんなこと構わずに頬を撫でた。
「……もぉ……」
 眉を寄せて彼を見るも、返ってきたのはにっこりとした笑み。
 それを見たままでいたら、軽く口づけをされた。
「っ……学校なのに……」
「顔が嬉しそうだけど?」
「……ぅ。……いいのっ」
 彼に指摘されて慌てて首を振ってから、慌てて答案を手渡す。
 ……危うく、訂正してもらうのを忘れて教室に戻るところだった。
 そんなことしたら、絵里が絶対何か気づくに決まってる。
「でも、これで約束通り70点取ったことになるんですよね。だもん……ペナルティはなしですよ?」
「まぁ、そういうことにしておいてあげるよ」
「……もぅ」
 胸ポケットから赤ペンを取り出して、箇所に丸をしてから正しい点数を書いたのを見て苦笑すると、無事71点に訂正したそれを返してくれた。
「……普通の点数になったな」
「あっ。やっぱりワザとだったんですか?」
「んー? さぁ、どうかな」
 くすくす笑いながら首を振る彼を見ていると……やっぱり、疑念の色が濃くなるんだけど。
 思わずため息をついてからドアに手をかけると、すぐあとに彼が来た。
「……え? 準備はいいんですか?」
「ん? あぁ、別に」
 ……んー?
「え……じゃあ、どうして実験室に来たんですか?」
「準備室じゃキスできないだろ?」
「なっ……!?」
「ほら、次の授業に遅れる」
「え、えっ……ホントに? そんな理由ですか!?」
「まぁ、そんなところ」
 あっけらかんと笑みを浮かべる彼とは逆に、こちらはしっかりと眉が寄る。
 そして、ついでに頬も赤くなるわけで。
 ……もぉ……。
 まっすぐに彼を見ることができなくて少し俯くと、小さく笑ってから頭に手を載せた。
「ま、たまにはサービスしてよ」
「……なんのですかぁ……」
 眉を寄せて彼を見るも、返って来たのはやっぱりいたずらっぽい笑み。
 ……うぅ。
 赤くなる顔を見られないように一生懸命顔を逸らしながら、ぱたぱたと足早に教室へ戻る。
 ……はぁ。
 絵里になんて言おう。
 やっぱりワザとの点数だった、なんて言ったら……絶対からかわれるに決まってる。
 容易にことのなりゆきが目に浮かんでしまいため息を漏らすと、さっきまでとは随分違った気持ちで席につくしかなかった。


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