「…………」
 改めて思う。
 やっぱり、私は化学に向いていないんだ、と。
 絵里とは違うもん。やっぱり。
 ……なんて小さくため息をついてから、本を閉じ――る寸前に、うしろから手が伸びてきた。
「っ……!」
「これの答えは?」
 驚いて振り返ると、それはそれは楽しそうな顔で彼が笑った。
 きれいな、長い指。
 それがさしているのは、実験の問題だった。
 まさか、起きているとは思わなかっただけに、気まずさから喉が鳴る。
「……えと……」
「この前の授業でやったよね?」
 ……う。
 ほとんどというか、まったくといっていいほど記憶がない。
 これでも、彼の授業は真面目に聞いている。
 もちろん、居眠りなどしたことはない。
 ……なのに、記憶にないんだよね。問題が。
 だからこそ、余計に焦る。
「……あの……」
 あれこれいろんなパターンを組み合わせてみるものの、どれもしっくりしない。
 何度か読めばわかるかもしれないと思い、あらためて問題文を読んでみる。
 ひょっとしたら、何か答えが浮かんでくるかもしれない。
 そう思って読み込んではみたものの、ふいに背中で小さなため息が聞こえた。
「……俺の授業、やっぱりわかりにくいかな」
「え!? そ、そんなこと……!!」
 慌てて振り返ると、寂しそうな、少し呆れたようなそんな表情を浮かべた彼が天井を見つめていた。
 ……ぅ。まずい……。
 その姿を見てから再度問題に向き直り、改めて見つめる。
 見つめる。
 ……見つめる。
「あっ! ね、えと、ほら、これっ、あれですよ!」
「ん?」
 問題を人差し指で叩いてから彼を見ると、ようやく顔だけをこちらに向けてくれた。
 若干いつもとはテンションが違うようにも見えるけれど、これでなんとかその機嫌を直してほしい。
「ええと、ほら、これがこっちにくるとこれが消えるから……で、こうですよねっ?」
 指で、“消える”と言った記号を隠し、答えを成り立たせる。
 ものの、彼はさらに大きなため息をついてこちらに背を向けてしまった。
「せんせ……!?」
「……やっぱり俺、教師に向いてないのかも」
「えぇ!? あ、ちが、そんな……先生っ!」
 やっぱり間違ってた。
 ……あああ、やっぱりとか言っちゃまずいよね。
 彼の態度を見て、いっそう焦る。
 ……うぅう、どうしよう。
 まさかこんなことになるなんて思わなかったから、冷や汗が出始めた気がする。
「……ええと……」
 問題を食い入るように見つめ、記憶をたぐりよせる。
 授業でやったところ。
 しかも最近。
 ……………。
 ……最近……やったっけ……?
 って、だから! そうじゃなくて!
 記憶をなんとか探るものの、やっぱりそううまくはいかないらしい。
「……先生、ごめんなさい……。あの、私が悪いの。先生は悪くないからっ! だから……」
 むこうを向いてしまった彼の肩に手を当てるものの、微動だにしなかった。
 その機嫌は、そう簡単に直りそうにない。
 ……まずい。
 非常にまずい。
 目の前には、自分のせいで機嫌を損ねてしまった彼がいる。
 だけど、いくら考えてみたところで、答えはいっこうに――。
「あっ!! ……っ……祐恭先生!」
 突然思い浮かんだことで、つい大きな声があがった。
 彼の肩を揺さぶり、大きな声で呼ぶ。
「……何?」
「これ! これじゃなくって、こっち! ……ね? これですよね? 答え!!」
 いつものような優しい笑みの気配すらなくなってしまった彼に対し、こちらは満面といってもいいほどの笑み。
 今度は、ちゃんと思い出した。
 だから、今度の答えには自信がある。
 ……そう。
 なぜならば、これは先日自分がケガをしたときの実験の化学式だったからだ。
「…………」
「…………」
 彼の顔を見上げたまま、返事を待つ。
 だけど、彼もまたじっとこちらを見つめたまま。
 ……まるで、クイズ番組の司会者のように。
「よくできたね。正解」
「やった……っ!!」
 笑ってもらえた瞬間、嬉しくて泣きそうになった。
 よかった……!
 本当によかった。
 これでようやく、彼の機嫌を損なわずにすんだ。
「……あ……」
「ちゃんとできるじゃないか。安心したよ」
 頭を撫でてもらった感触に、どきっとする。
「……でも、よかった。先生の機嫌が直って……」
 笑みを浮かべたまま、ぽつりと本音を漏らす。
 だけど、途端に彼は不思議そうな顔をした。
「怒ってないよ? 別に」
「……え? だって、うしろ向いて……」
「あぁ、あれ……ね」
 不思議そうな彼に、眉が寄る。
 すると、苦笑を浮かべた彼が首を振った。
「……羽織ちゃんの反応がおかしくて」
「え……?」
「ごめん。最初は冗談のつもりだったんだけどね。あまりにも一生懸命で、かわいいから……つい」
「っえ……!?」
 くすくす笑う彼を見ていたら、眉が寄った。
 騙されたといったら大げさだけど、てっきり怒っているんだと思ったから、すごくすごく焦ったのに。
 ……もぅ。
 ほっとしたけれど、まさかそんなことを思っていたなんて、なんだか……ちょっぴり悔しい。
「ごめん。……怒った?」
「……怒ってません」
 顔を覗きこまれ、先ほど彼がしたように今度は私が背中を向ける。
「羽織ちゃん?」
「……怒ってないもん」
 どうして、彼の声が楽しそうに聞こえるんだろう。
 ぽつりとそれだけ返事をし、顔を横に向ける。
 ……こんな顔、見られたくない。
 こんな、拗ねてる顔なんて。
「……っ……」
 いきなり、うしろから抱きしめられ、どくんと大きく鼓動が鳴った。
「ごめん。もうしない」
 耳元で囁かれ、身体がぞくりと粟立つ。
 ……どうしよう。
 すごく……どきどき、する。
 脈も速くなって、同じように身体が熱くなって。
 彼の息が耳にかかり、反射的に身をよじる。
 でも、そんな私に気付いたのか、彼はさらに唇を寄せた。
「……や……」
「どうしたら許してもらえる?」
「……そ、んな……っ……くすぐったい、です……!」
 なんとか逃れようとするものの、そう簡単に離してくれるはずもなく。
 それどころか、身をよじったことで彼が腕に力をこめる。
「じゃあ、許しをこわなきゃね」
「……え……?」
 彼の腕から、少し力が抜けた瞬間。
 どうしたのかと思って彼を見ると、途端に頬を両手で取られ――唇を合わされた。
「……っ」
 優しい、いつものキス。
 だけど、いつもよりずっとドキドキしている今の自分にとっては、さらに追いつめられる物でしかない。
 耳に届くのは、濡れた口づけの音。
「ふ……ぁ」
 そのままソファにゆっくりと倒され、さらに口づけが深くなる。
 ……頭が朦朧とする。
 と同時に、自分の中で何かを求めるような感情が浮き上がり、気持ちいいと感じ始める。
 ……やめてほしくない。
 大好きだからこそ、離してほしくない。
 ずっとこのまま……このままでいてほしい。
「……ふ……」
 与えられる快感に押し流されないように彼へ当てた手へ力を込めると、ようやく唇が離れた。
 大きく息を吸い込んでから、ゆっくりと瞳を開く。
 すると、そこには満足げな笑みを浮かべた彼がいた。
「っ……」
 メガネをかけていないときの彼は、私が知らない彼のようで、一層どきりとさせられる。
「……え……」
 髪をすくうように指を通され、そのまま口元に運ばれる。
 その仕草すら、なんともいえず鼓動が早くなった。

「……同じ匂い」

「っ……!」
 彼のひとことで、身体が反応する。
 ……どう、しよう。
 私……変に、なっちゃう。
「……え……?」
 赤い顔のまま彼を上目遣いに見つめた、そのとき。
 途端に、彼が眉を寄せた。
「……そんな顔されたら、キスだけじゃすまなくなる」
 苦しげに呟いた彼に、思わず手が伸びていた。
 精一杯のアピール――のつもり。
 きゅ、と彼の首に両腕を回して抱きついてから、小さく、ゆっくりと、唇を動かす。
「……先生なら……へいき……」
 心臓が破裂しそうだ。
 ……すごいこと、言っちゃった。
 自分でも驚いているんだから、彼はきっともっと驚いているはず。
 ……変な子、って思われたかもしれない。
 えっちな子、って。
 でも、決して軽い気持ちで言ったわけなんかじゃ、もちろんなくて。
 ただ、どうしようもなく……彼が、好きで。
「…………」
 顔を見ることなんてできない。
 まさか、自分からそんな言葉が出てくるとは思わなかったけれど、でも、後悔なんてしていない。
 もしかしたら、彼にも聞こえているかもしれない……鼓動。
 だけど、もう静まらせることはできない。
 パジャマ越しに感じる彼の体温が、ダイレクトに伝わってくる。
 ……彼ならば。
 そう思ったとき、耳に痛いほどの静寂を破って祐恭先生が口を開いた。



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