「…………」
 朝から、目覚めはよくなかった。
 せっかくの休日だというのに勤務しなければならないのもあったが、何よりも昨日の羽織ちゃんの態度が思った以上に尾を引いてるらしい。
 本当のことはなんだ。なぜ話してくれない?
 そもそも、山中先生が彼女を呼び出した目的は?
 誰にも回答をもらえない疑問がいつまでも頭にこびりついていたが、時間が迫っていたので支度を済ませる。
 テスト勉強をした先週以来、プライベートで彼女と会っていないからイライラしてるのもある。たしかに。
「……はー……」
 今日は一緒にいたかったんだけどな。
 まさか、そんなことを考えるようになるとは、自分でも驚くよ。
 とはいえ、グチグチしていても仕方がない。
 鳴ることのなかったスマフォを握り締め、車の鍵を持って部屋を出ることにした。

 ――そんな祐恭と、ほぼ同じころ。
 羽織は、駅前へ急いでいた。
「お待たせしましたっ!」
「あ、おはよう」
 少し約束の時間より遅くなってしまい、羽織は慌てて頭を下げる。
 だが、気にしないで、と彼は微笑んだ。
「それじゃ、行こうか」
「はい!」
 羽織が、にっこり微笑んだ相手。
 それは――私服姿ではあるが間違いなく、山中昭その人だった。

 時間はすでに16時を回っている。
 研修を兼ねた会議だけの予定だったが、結局は雑務があり残らざるをえなかった。
「…………」
 まさか、1日休日出勤とはね。
 だが、羽織ちゃんと会えないなら、時間を潰すのにちょうどいい。
 不満などおくびにも出さず、黙々とこの時間まで作業を続けてきた。
 結局、彼女からメッセージすら届くことなく、いたって静かな1日。
 ……はたして、幸か不幸か。
「…………」
 先週はあれだけ喜ばれたし、家に来ることが嫌だったわけじゃもちろんないだろう。
 誰と過ごすのかと聞いても教えてもらえなかったあたり、訳ありであろうことはわかる。
 ……相手は山中先生か?
 だとしたら、本当にデートなんじゃ……。
「ごめんなさいね、瀬尋先生。せっかくのお休みなのに」
「あ、いえ。構いません」
 自分と同じく休日出勤にもかかわらず、日永先生は申し訳なさそうな顔をした。
 うっかり、持ったままだった書類を揃えてからクリップ留め。
 ひょっとしなくても、ぼんやりしていたのは見られているだろうな。
「もう時間も時間ですし、お帰りください」
「……ですが」
「大丈夫よ。急ぎの用事はもうないんだし。せっかくのお休みですもの、少し早めにあがってください」
 ね、とまるで何かを見透かされたように微笑まれ、思わず苦笑が漏れた。
 ……まいったな。
 相変わらず、日永先生はなんでも“わかっている”みたいに思える。
「すみません。それじゃ、お先に失礼します」
「ええ。お疲れさま」
 印刷し終えた分のみの会議の議事録を渡し、立ち上がって荷物を揃える。
 そのまま書類ケースを手に、ひと足先に職員室を出ることにした。
 明るいうちに家へ帰れるのは、結構嬉しいもんだな。
 とは思うものの、今ごろ羽織ちゃんがどこで何をしているかわからない状態では、その嬉しさも半減だけど。
「……はー」
 駐車場に停めてあった車へ乗り込み、助手席へ放るように書類ケースを置く。
 ため息をついてからキーを回すと、聞きなれたエンジン音と振動が伝わってきた。

 あと少しで自宅、という交差点にさしかかったとき。
 コンビニの看板が目に入り、夕食まで時間はあるものの、手っ取り早いので買って帰ることにしてウィンカーを出す。
 車を停め、クーラーのきいた店内へ。
 適当に夕食になりうる物を選び終えたところで、店の奥にあるアルコールのケースが目に入った。
「……最近、飲んでなかったな」
 知らない商品が数多く販売されていて、結構な間自分では酒を買ってなかったことを実感する。
 ヤケ酒じゃない。あくまで、飲んでみたいだけ。
 数本手に取ってレジへ向かい、会計を済ませようとしたところで初めて、食べ物よりも酒のほうが多かったことに気付いた。
 ……無意識って怖いな。
 支払いを済ませ、袋を受け取る。
 羽織ちゃんがこれを見たら、なんていうかな。
 眉を寄せて『身体に悪いですよ?』と言ってくれるだろうか。
「…………」
 考えずとも頭に浮かぶのは、やはり彼女のこと。
 今ごろ、何をしているのか。
 今日は、どこに行ったのか。
 ……いったい誰と一緒にいたのか。
 そんなことを考え始めるとモヤモヤするものの、どうすることもできない以上仕方ない。
 電話することも考えたが、もし妙な雰囲気が伝わってきたらそれもストレス……あー、弱くなったな。
 誰にどう思われようと気にもしないタチだったのに、まさかこんなことを思うようになるとは。
 孝之にも言われたが、最近の自分が守りに入っているのはよくわかる。
 ……守りたい相手がいると、こんなふうに変わるんだな。
「…………」
 ため息をついて車に乗り込み、エンジンをかけてからアクセルを踏み込む。
 自宅マンションまではすぐ。
 駐車場に車を停めてから、荷物を持ってエントランスへ……とそのとき、ふいに足が止まった。
 ……匂い。
 羽織ちゃんがつけている、甘い香水と同じ香りがしたのに気づいた。
 大人びてるなと感じた、あの、孝之がセッティングしたコンパの夜。
 化粧だけでなく香水の匂いで尋ねると、少しだけ付けていると教えてくれた。
 誰かのためではなく、自分が好きな香りだとも。
 このマンションはオートロックなので、住人が家の中から操作するか、鍵を持っている人間でなければ入れない。
 まだ、羽織ちゃんに鍵を渡してはないため、入ることはできないはずだが……まさか。
 ……いや、しかし。
 香りがいつまでも残るはずはなく、もし彼女であるならその可能性に賭けてみたかった。
 違ったら、そのときは……どうすればいいんだろうな。
 一瞬、戸惑った彼女の声が脳裏に浮かぶも、スマフォを取り出して耳に当てる。
「…………」
 ここは大きな幹線道路沿いなので、見通しも悪くない。
 まだ近くにいるなら、ひょっとして後姿でも見えるんじゃないか。
 そんな思いからエントランスを出て道路沿いへ向かうと、ふいに目が丸くなった。
「……っ……せんせ……」
「どうして……」
 呼び出し音が響くスマフォを耳から離し、架電を終える。
 レンガで作られた生垣に腰をかけて俺を見上げたのは、普段と違う私服姿の羽織ちゃんだった。
「ええと……入れなかったので……」
「……いや、そうじゃなくて」
 すみません、と口にした彼女に苦笑が浮かんだ。
 ああ、そうだよな。
 こういうやりとりができることが、俺にとっては嬉しいことらしい。
 『あ、そっか』と口に手を当ててから笑ったのを見て、肩から力が抜ける。
 柔らかく笑う姿が久しぶりのように感じるのは、よほど参っていた証拠か。
「……今からじゃダメですか?」
「え?」
 立ちあがった彼女が、持っていたバッグを抱えた。
 少し大きめの、ちょっとした旅行くらいになら行けそうなトートバッグ。
「……あ」
 ようやく、彼女が言おうとしたことに気付いた。
 ……そんな顔しなくても、怒ったりしないけどね。
 ひょっとして、昨日彼女を問い詰めたときの自分は、よほど余裕でもなかったのか。
 改めて彼女に手を伸ばしてからうなずくと、笑みが浮かんだ。
「今からでも十分だよ。……おいで」
「っ……よかった」
 嬉しそうに笑った彼女の手を引き、肩を引き寄せる。
 身体に伝わってくる温もりこそが、今起こっていることすべて現実なんだと物語っていて、素直に喜んでいる自分がいた。

 ちょうど待機していたらしく、エレベーターのボタンを押すとすぐにドアが開いた。
 彼女を先に通し、あとから自分も乗り込む。
「先生……普段、そんなに飲むんですか?」
「え?」
 彼女の視線の先には……コンビニの袋。
「あー……まあね」
 苦笑を浮かべてうなずいた俺を見て、彼女はため息を漏らすと同時に、唇を尖らせた。
「もぅ。身体に悪いですよ?」
「…………」
「? どうしたんですか?」
「……いや。別に」
 眉を寄せた彼女を見て、思わず目が丸くなった。
 ……まさか、思った通りのことを言われるとは。
 不思議そうな彼女に首を振り、エレベーターを降りて自宅まで歩く。
 嬉しいものだな、意外と。
 気遣われる背景に、自分に対する想いがあるとわかるからこそ、素直にありがたいなと思った。
 玄関の鍵を開け、先に中へうながす。
 まっすぐリビングへ向かい、鞄を置いてからコンビニの袋をテーブルに乗せると、ガラスと缶がぶつかって硬い音がした。
「……で?」
「え?」
 ネクタイを外しながら、ソファに座った彼女の目の前へしゃがむ。
 すると、不思議そうな顔をして首をかしげた。
「今日は誰とどこに行ってたの?」
「……あ……」
 今の今とは違い、どこか罰の悪そうな顔をした彼女が唇を噛んだ。
 それでも、話してくれる気がなければ来ないはず。
 そんな読みをしながら隣へ座ると、膝に手を置いておずおずと俺を見上げた。
「……昨日はごめんなさい。怒ってます?」
「どうかな。羽織ちゃんにはどう見える?」
「ぅ……えっと……あまり機嫌はよくなさそうな気がします」
 ぽつりぽつりとつぶやいた彼女を見たまま、小さく笑いが漏れた。
 なるほど。どうやら彼女にはそう見えるらしい。
 ……よくわかってるじゃないか、俺のこと。
 自分でもこんな感情を抱くことに気づいたのはここにきてのことなのに、どうやら俺の彼女は俺以上にわかってくれているらしい。
「怒ってないけど、寂しかったかな」
「だから、来てくれてすごく嬉しい」
 抱き寄せてささやくと、甘い匂いが鼻先に香る。
 自分と同じシャンプーの匂いをかいだときとは違う、“彼女の”香り。
 ……もう1週間経つのか。
「山中先生といたの?」
「……はい」
 もっとも、欲しくなかった答えが聞こえ、眉が寄る。
「なんーー」

「でも、今日はちゃんと先生に話せるんですよ」
「え?」
 そう言って顔をあげた彼女は、嬉しそうに笑った。
「山中先生としーちゃん……えと、5組の田中詩織ちゃん、知ってますよね?」
「田中……って、うん、この前一緒にいた子だよね」
「はい。実は、そのふたりが付き合うことになったんですよ」
「…………え?」
 まったく予想外の言葉に、ぽかんと口が開いた。
 てっきり、彼女と山中先生の話をされるものだとばかり思っていたので、全然違う子の登場に少しだけ頭がついていかない。
「ちょっと待って。え? 今日、山中先生と一緒だったんだよね?」
「はい。でも、しーちゃんとも一緒だったんですよ」
「……3人てこと?」
「はい」
 少しだけ情報を整理したい。
 山中先生と田中詩織が付き合うことになったのは、わかった。
 教師と生徒が事実こうも付き合うんだな、というのは今さらなので棚に置く。
 だが、それと3人で過ごすことがどうリンクするのか、よくわからなかった。
「山中先生に昨日言われたのは、しーちゃんとデートしたいから付き合ってほしいってことだったんです」
「それはつまり……」
「えっと、山中先生って引っ込み思案っていうか、大人しいっていうか……だから、しーちゃんのことが好きだったんだけど、誘えなかったらしいんですよ」
「……なるほど。彼の性格ならありえるね」
「そうなんです。ふたりきりだと緊張して何を喋ったらいいのかわからないから、いてくれないか、ってことでした」
 あー、なるほど。
 くすくすと苦笑を浮かべたのを見て、今日1日の彼の様子が容易に目に浮かんだ。
「山中先生は、田中さんのことが好きだったのか」
「はい」
 ようやくことの顛末がわかり、素直にほっとした。
 彼女を連れ出したのは、付き添いを頼んでいたからだったのか。
 ……なるほど。
「そっか」
 昨日の彼がなぜあそこまで必死そうだったのかが納得でき、ぽつりと漏れる。
 だが何より、素直に教えてくれたことが、嬉しかった。
「今日行った水族館、すごくよかったんです。……だから……えっと」
「ん?」
「今度、一緒に行きたいな……って思いました」
 少し照れたように微笑んだ彼女を、再び……そして、より強く抱きしめる。
「一緒に行こう。……俺たちは、ふたりきりでね」
「はいっ……!」
 “ふたりきり”を強調すると、一瞬瞳を丸くした彼女が嬉しそうに笑った。
 その顔を見て自分にも笑みが浮かんだのは、言うまでもない。


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