滑らかな肌に触れながら背中を撫で、目的のものに指を伸ばす。
 音もなく外れたホック。
 たちまち、ひくりと身体を震わせたが、抵抗されることはなかった。
 それは……いいってことだよね。
 問うことはせず、服をたくし上げるようにしたところで、慌てたように羽織ちゃんが小さく声を漏らした。
「恥ずかしい、です……っ」
「知ってる。けど……ちょっと止まれないかな」
「ん、っ……!」
 苦笑を漏らしてから口づけると、濡れた音がやけに響いた。
 舐めるように舌を絡め、ついばむ。
 そうしているうちに身体から力が抜けたようで、彼女の手がソファへと落ちた。
 ……ああ、そうだな。
 さすがにここで最後までするわけにはいかない。
 場所を移して、ベッドのほうがいいか。
 ……そうは思うが、果たしてどこで我慢にもなる切り替えができるかな。
 目に入った腹部から胸元の白い肌が見え、思わず喉が鳴る。
「……っ……ん!」
 胸元へ手を滑らせ、先を求める。
 自分以外の人間が、触っていい場所じゃない。
 それは彼女も知っているだろうし、わかっているだろう。
 だからこそ、こうして許してもらえたことは大きい。
 欲がさらに目を出す。
 誰にも許したことのない場所を許されることが、こんなに大きく感情を揺さぶるとは思わなかった。
「あ、ぁっ……そ、こ……!」
 いつもより高い声で反応した彼女が、ぴくんと背中を反らせ、ひときわ大きく反応した。

 ぐうぅ。

「…………」
「…………」
 途端、あまりにも雰囲気とは異なる音が聞こえ、目を合わせたままフリーズ。
 だが、先に動いたのは顔を赤くした羽織ちゃんだった。
「っ……ふ……あはは」
「…………」
「や、ごめんなさっ……でも、だって……先生、かわいい」
「ちっともかわいくない」
「あはは」
 くすくす笑った彼女に、ため息をついてから……仕方なく手を離す。
 まさか、自分の腹の音で中断するとか、誰が予想するか。
 ……こんなことになるなら、先に何か食べておくべきだったか。
「きゃ!?」
「はー……。ちゃんと昼飯食べるんだった」
「え!? 食べてないんですか!?」
「うん」
 ソファへ肘をついて頭を支え、羽織ちゃんの頬から顎、そして首筋のラインを指で撫でると、くすぐったそうではあったものの、さっきまでとは違う反応で正直がっかりする。
 ……くそ。
 今日はこのまま……って考えたのにな。
 最悪だ。
「もぅ、どうして食べなかったんですか? あ……そういえば、今日もしかしてお仕事だったんですか?」
「うん。急に出ることになってね。まあ……彼女にフラれた休みだったし、それはいいんだけど」
「ぅ。ごめんなさい」
「冗談だよ」
 何度目かの話をすると、たちまち眉尻を下げてすまそうな顔をされ、小さく笑う。
 本当に素直なというか、優しい子なんだな。
 これまでの付き合いでもわかっていたけれど、孝之とはまるで違う素直な反応に、いろいろ言ってみたくなる。
「ん……っ!」
 頬へ手を当てて口づけ、舌を絡め取る。
 濡れた音があえて響くようにし、もう一度服の下へ手のひらを這わせてはみたものの、まあ……元の雰囲気に戻すのは難しいか。
 離れてから顔をのぞくと、そこには嬉しそうな笑みがあった。

「……大好きです」

「っ……」
 はにかんだように微笑んだ彼女に、目を見て想いを伝えられ、こくりと喉が鳴る。
 だから……ああ、こういうところもだよ。
 かわいいな、と素直に思うのは。
「俺も好きだよ」
 髪を梳くと、自然に笑みが漏れた。
 ひどく嬉しそうな顔をされ、胸の奥がうずく。
 まるで大切なものにでも触れるかのように手を伸ばした彼女は、俺の胸元へ触れると身体を寄せた。
 あたたかな、体温。
 ああ、こういう時間を過ごすことになるとは。
 ゆっくりと背中を撫でながらそんなことを思うと、また笑みが浮かんだ。

「……で?」
「え? で、って……何が?」
「何がじゃないわよ! それで!? 先生とは何もなかったの!?」
 月曜日の、朝。
 祐恭先生の家に泊まりに行ったことと、しーちゃんのことを絵里に報告すると、まるで食いかかるかのような勢いで肩を掴んできた。
「えっと……な、にもなかったけど……」
「はぁああああ……!? なんで? 意味わかんない。なんでそーなるかなー」
 はぁあああ? と大きな声で言われ、何人かの子がこっちを見た。
 でも、いつものように私が絵里に叱られているんだとでも思ってくれたのか、また自分たちの会話へ戻っていく。
「何が、じゃないわよ! いい? 泊まりだったんでしょ? と・ま・り! なのに、なんで何もないわけ? ねぇ、おかしいわよ! そんなの!」
「お……おかしいって言われても……でも、だって、まだ付き合ってちょっとしか経ってないんだよ?」
「ちょっとって、アンタね。もう2週間よ?」
「えぇ!? まだ2週間でしょ?」
「あぁもうっ! これだからアンタって子は……!」
 大げさにため息をついてぶんぶんと頭を振られ、どうしたらいいのかよくわからなくなる。
 ……だって、本当に何もなかったんだもん。
 あのあとは結局、何事もなかったかのようにふたりで過ごした。
 多少あれこれとあったものの、結局、キス以外に進展はない。
 でも、キス……だって十分特別だもん、それ以上になったら想像もできなくてどうしていいのかわからなくなる。
 もちろん、いつかは……と思ってるけど、そうなるのが少し怖いような気もするし。
「……まぁ、羽織らしいっちゃらしいけど。……うん。わかった。ごめん、私が求め過ぎてるのかもね」
 ひらひら手を振って『もういいわ』という仕草を見せた絵里は、ため息をつくと席に戻っていった。
「うー……だってぇ」
 絵里に対してなんと言えばいいのかわからず、唇を尖らせる。
 でも、絵里はもう気にする様子もないらしく、こっちをまったく見なかった。
 ――そんな本日は、終業式。
 いよいよ、明日からは夏休みに入る。
 これからは本格的に受験に入ることもあって、クラスの雰囲気がなんとなくぴりぴりしているような気がするけれど、私だって他人事じゃない。
 夏休み明けには、もう受験一色なんだから。
「さー、席に着きなさーい」
「っ……」
 日永先生が、祐恭先生と一緒に入って来た。
 朝も見た光景なのに、やっぱりどきりとするのはなんでだろう。
 彼女の手には、たくさんのプリントとファイル。
 そして、彼もまた同じようにプリントの束を持っていた。
「それじゃ早速、みんなも待ってるだろうから通知表渡しましょうか」
「えぇえええー!!」
「そんなぁ!!」
「えぇい、うるさぁーい! 静粛に!!」
 明らかに意図的な咳払いのあとで告げられた日永先生の言葉に、当然のごとく猛反発の声があがる。
 でも、それを一喝して静かにさせた彼女は、もう一度咳払いをしてから否応なしに出席番号1番の子から呼び始めた。
 ……うぅ、そんなぁ……。
 相変わらず、日永先生は容赦ない。
 でも、そんな様子を見ていた祐恭先生も、苦笑したものの特に何も言わなかった。
「…………」
 あ、なんか……不思議な感じ。
 窓枠へもたれるようにした祐恭先生の髪が、柔らかく風になびく。
 ……見た目よりずっと、サラサラしてるんだよね。
 癖のない髪は、ここにいる誰も触れたことがないんだろうなぁ。
 私だけの、特別。
 えへへ。こんなに嬉しいなんて思わなかった。
「……え……」
 そんな姿をまじまじと見つめていたら、不意に目が合った。
 何か想いでも通じたのかと思いきや、眉を寄せて日永先生を顎で指される。
 ん? なんだろう。
「えっと……」
「瀬那っ! 瀬那羽織はいないの!?」
「わっ!? はいっ! はい!! すみません!!」
 大きな声で慌てて立ち上がり、半ば駆けて彼女の元へ向かうと、『まったくもー』と言いながら通知表を開いた。
「音読してほしいなら、言ってくれればいいのよ?」
「わあ!? や、ちがっ……ごめんなさい!」
 慌てて謝罪し、両手を差し出す。
 すると、いたずらっぽく笑った日永先生は、『しっかりね』と言ってから手渡してくれた。
「はあ……危なかった。……ん?」
 通知表を閉じたまま自席へ戻し、ふと祐恭先生を見てみると、こちらへ背を向けて……肩を震わせている。
 ん。ん?
 あれって……ひょっとしなくても、笑ってるんじゃ。
 もぅ。ひどいなぁ。
 って、そもそもうっかりしてた自分がいけないんだけど。
「っ……うわ!」
「なに? そんなに悪かったの?」
「わっ!? え、絵里は見ちゃだめっ!」
「なんでよー。いいじゃない、減るもんじゃないし」
「減るからだめ!」
 横から覗き込まれ、慌てて閉じようとするものの、絵里の手に邪魔されてそれはあっけなく阻まれた。
「何よ、別に悪くないじゃない」
「うぅ……もぅ、だから……」
 絵里の成績は、小学生のころからずっと知ってるから、見られるのに抵抗あるんだってば。
 小さいころから成績優秀だった彼女にしてみれば、大したことのない数字。
 でも、ほんのちょっとだけど、私にとっては大きな加点があった。
「……数学、上がったの」
「え!? ホントに?」
「うんっ」
「うわー、よかったじゃない! おめでとー!」
「あはは、ありがとう」
 自分でも信じられなかった。
 今まで、数学でこの数字がもらったことはない。
 ……とはいえ、格段に上がったわけではなくて、たったひとつ上がったというだけだけど。
 でも、数学自体が天敵だった自分にとっては、大進歩、大躍進だ。
「はい」
「いいの?」
「いいわよ。減らないから」
「うぅ……言ってみたい」
 通知表を受け取ってきた絵里が、そのまま私へ手渡した。
 ……う。
 さすがは、絵里だ。
「……まぶしい」
「何言ってんの、アンタは。……お。化学が上がった」
「ホント?」
「うん。ひとつだけど。……ふーん? 色つけてくれたのかしらん?」
「え?」
 ぼそりと呟いた絵里が、ニヤリとイタズラっぽい笑みを彼に向けた。
 つられるように祐恭先生を見ると、軽く咳払いをしてまたもやこちらに背を向ける。
 ……なんだか意味ありげに見える行動。
 って、ううん。彼はそんなことしないだろうけれど。
「これはこれは祐恭先生サマサマね。部活のとき、詳細聞こーっと」
「もぅ。そんなんじゃないったら」
 絵里の実力だよ、と付け加えると、苦笑を浮かべながら『どーかしらね』とつぶやいた。
 でも、ホントにそう思ってるんだからね?
 きっと、絵里のことは私がいちばんよくわかってるはずだから。
「それじゃ、これからプリント配るから。ちゃんと目を通しておきなさいね」
 順に回されたプリントには、何やら細々とした日程表のような物が印刷されていた。
 クラス全員に回ったことを確認すると、日永先生がが通る声を張りあげる。
「それは、夏季講習の日程表ね。今回は、月をまたがって2週間設けられているから、忘れないように登校することー」
 よくよく見てみると、英語、数学などの強化授業がメインではあるものの、選択授業として化学や生物の文字もあった。
 ……そっか。
 もう、そういう時期なんだ。
 この日程を見て、改めて自分が受験生なんだと実感する。
「それぞれが受験する大学によって履修する教科が変わってくるから、きちんと自分で把握して出席するようにしてね」
 言い終えてから、夏休みの心得などのプリントも配られた。
 ……夏休み、かぁ。
 明日から1ヶ月以上もの間、毎日すべての時間を自分で決めて使わなければならない。
 昔は、全部遊びに使えることがとても嬉しかったけれど、さすがにこの年になっては……というよりも、受験生である以上は、喜んでばかりもいられなくて。
 いかにしてこの長期休業中に、自分の苦手科目を克服できるかがミソなんだろうなぁ、と思うと途端に気が重くなる。
「じゃ、私からの連絡は以上。みんな、寄り道なんかしないでまっすぐ帰って、保護者の方にちゃーんと通知表見せるのよ? さて。瀬尋先生は何かありますか?」
「え?」
 急に話を振られたらしく、祐恭先生が慌てて背を正した。
 そして、こちらに向かって小さく笑う。
「日永先生の完璧なトークで、自分が話すことは特に何も。無茶な過ごし方をせずに、登校日にはきちんと登校してもらえれば十分ですね」
「あらぁ、瀬尋先生ってばー。でも、あんたたち、ちゃんと来るのよ? いいわね! サボったら……おしおきだからねぇ。それじゃ、1学期終了ー」
 にやり、と彼女らしい笑みを浮かべながら、日永先生が声高に宣言した。
 1学期、終了……かぁ。
 教室を出て行った日永先生と、そのすぐあとを追うようにして出て行った祐恭先生。
 そのふたりを見送ってから、絵里とともに部活のため化学実験室に向かう。
「じゃあねー」
「またね」
 何人かの子たちに手を振って、そろって渡り廊下へ。
 明日から始まる、夏休み。
 すっかり気持ちがそちらへ向いてしまっていた私たちは、このあとすぐに起こることなんてまったく知らなかった。
 ……そう。
 まさか、夏休み初日から――あんなことになるなんて。
 平和な終業式を満喫できたのは、渡り廊下を通っているこの数分だけだった。


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