毎回、思うことがある。
 それは何も、今日という日に限ったことじゃなくて。
「……生徒に散々ダメって言ってる、その教師が規則を破るのはどーなんですかね」
 机に置いてある赤い包装紙に包まれた箱を見て、ぽつりと言葉が漏れた。
「どーなんすかね」
 それを聞きつけたらしい純也さんが、同じ調子で呟く。
 ……毎回そうだ。
 そもそも、大抵渡すときは『義理ですけれど』と断ってから、よこすだろ?
 だったら、別に配らなくてもいいんじゃ…と思うんだが。
 俺は別にチョコというものに過剰な反応を示してもなければ、それを心底欲しくてそわそわしてもいない。
 『義理』という言葉があたかも『義務』にすり替わってるような世の中の風潮は、正直どうにかしてもらいたい。
 ……困るよな。
 これを持って帰って食うつもりもないし、誰かにあげるのも……。
 そもそも、孝之みたいに甘い物大歓迎っつーならまだ話は別だが、俺はそうじゃない。
 かといって、お返しなるモノが来月にはどーんと控えているわけで。
「……はー……」
 放課後ののんびりした雰囲気に溶け切らない、重たいため息。
 ……だが、とりあえずはまぁ……。
「……部員に配るか」
「お。さすが我が友」
「え?」
「俺も今、同じこと考えた」
 トントン、と机を指で叩いていた純也さんが、俺を見てにっこりと笑った。
 ……さすが。
 にこやかな笑みを交わしながら、お互い同じ点で合意に及んだ。
 距離が近ければ、間違いなく握手していただろう。
「失礼しまーす」
「……ん?」
 短いノックのあと、数人の生徒が中に入って来た。
 それは、顔も名前もよく知ってるウチの部の面々。
「どうした? 何かあった?」
 実験室側のドアから入って来たのもあってか、純也さんが彼女たちを見ながら立ち上がった。
 ――……が、しかし。
「いーえー」
 彼女たちは何やら……にやっとした笑みを浮かべて……。
「……え……?」
「何……?」
 俺たちふたりの机を、ぐるりと取り囲むように集まった。

「はいっ!」
「どーぞ!」
「あげますー!」
「感謝、感謝ー」

 途端、ものすごい勢いで彼女らが手を繰り出してきたから堪らない。
 次々と手が目の前に炸裂し、同時に何か物体がどんどんと積み上がっていく。
「あ、義理ですよ?」
「お返しはいいからー」
「それじゃ、失礼しましたぁ」

 バタン

 ものの……数分も経ってない。
 だが、今のはまさに“嵐”と呼ぶに相応しい出来事だった。
 ぎゃいぎゃいと何を言ってるのかさえ判別できない言葉と、絶叫と、ばたばたいう物音と。
 ……ちょ……。
「な……なんだったんだ、今のは……」
「……すげーパワー……」
 ちょっとだけ、あたりが未だもうもうと埃が立っているようにも見える。
 いや……気のせいか……?
 ついさっき、掃除終わったばかりだしな。
 ……だが、しかし。
「…………」
「…………」
「……なんか……増えたな」
「…………増えましたね……」
 どっさりといろとりどりの小さな箱が山盛りになっている机を見たまま、ぼそっとお互い声が漏れた。
 どーすんだ、これ。
 ていのイイ受け入れ先を見つけたかと思ったのに、まさかこんな事態になるとは。
「……どうする……?」
「どう……しましょうね……」
 それにしても、生徒達はやっぱり器用なんだな。
 朝イチからチョコ狩りに遭っていたにもかかわらず、まさかこれほどの人数が隠し持っていたとは。
 ……うん。
 やっぱり、生徒ってのは教師が考えてる以上に、しっかりというか……ちゃっかりしてるようだ。
 ……ってまぁ、我が身を振り返ってみればわかることだが。
「……愛の募金してくかな」
「え?」
 ぽつりと。
 少し遠くを見つめた純也さんが、確かにそう呟いた。
 ……愛の募金。
 それが意味するところは――……ひとつ。
「……ですね」
「うん」
 うなずきながらにっこり微笑んだ我々は、心底気が合うと思う。
「……でもコレ、ばっちり“義理”って書かれてますよ?」
「いいんだよ。要は、気持ち。それさえ受け取ったんだから、あとはまぁ……ただのチョコじゃないか」
「なるほど」
 ……それにまぁ……“彼”があえて義理だとか本命だとかとチョコを区別することもないだろう。
 なんて、ちょっと思ったり。
「んじゃ、とりあえず行くか」
「そうっすね」
 両手に持ちきれない、チョコの数々。
 それを手近にあった紙袋に詰め、部屋をあとにする。
 ……そのとき。
 思い出したように、純也さんがマジックで袋に何かを書き込んだ。
「……どう?」
「いや……普通になんか、かわいいかも」
「あはは。そりゃよかった」
 じゃじゃんっと見せられたその文字は、たった5文字の短いもの。
 だが、威力は絶大だと俺は見た。

『内山先生へ』

 語尾にハートマークが付きそうなほど、丸くてかわいい文字だった。

「告白かぁ……」
「え?」
「いや、なんだかんだ言いながらさ、やっぱ期待してる先生方は多いんだろうなーと思って」
 ひと仕事と呼ぶに相応しいことを終えて、俺たちは揃って職員玄関へと足を向けていた。
 体育教官室のドアにかけた、重たい紙袋。
 それを受け取った彼の誇らしげでかつ、表現しようのない崩れっぷりが容易に目に浮かぶ。
 ……あ、いや。
 決して、こればかりは想像したくないんだが。
「……っうわ! 純也さん、すごいっすね」
 職員室前の階段を下りながら、そこでやっと気付いた。
 いつの間にやら彼が、先ほどとは違う種類の紙袋を手にしていたことに。
「いや、俺じゃない」
「……え……?」
 だが、彼は苦笑――……というよりは半ば真面目な顔で、首を横に振った。
 そして、片手を袋に突っ込み、何枚かの手紙のような物を手にする。
「皆瀬先輩へ。もうすぐ卒業なんて、本当に寂しすぎます。卒業してからも、また学校に来てくださいね」
「……え」
「皆瀬部長へ。部長を思って一生懸命作りました。気持ちも詰めました。もらってください」
「……あー……」
「みな……ん? 皆瀬ぶちょ……“ぅ”? なんじゃこりゃ。……読めん」
 純也さんって、やっぱ器用なんだよな……と改めて思う。
 明かりがあるとはいえ、この校舎は若干薄暗くて。
 ただでさえ細かくて小さい文字なのに、最近の女子高生特有の字体というか…なんと言うか。
 流行と言えばいいんだろうか。
 眉をしかめて読むのを断念した彼の気持ちが、痛いほどよくわかる。
 ……しかし、最近じゃ成人した大人でさえもああいう文字を使うらしいからな。
 正直、同い年の人間がそんな文字を使ってると知ったときは、本気で引いたモンだ。
 …………。
 ……まぁ、係わり合いのない子だから、別にどうでもいいんだが。
「というわけで、これはすべて絵里先輩・絵里部長宛てだとさ」
「すげ。……おモテになりますね」
「ですな」
 あまりの量でまじまじと袋を見ていると、肩をすくめた彼が大いに同意した。
 ……だが、しかし。
 俺はそのとき聞き逃さなかった。
 彼が小さく『でも去年に比べればマシかな』と囁いたことを。
「でもさー、こういうのって女の子の間じゃ普通なんだろうな」
「え? ……そう……なんすか?」
「いや、だってさ。憧れとかの気持ちを、ストレートに表現できるってすげーじゃん?」
「……あー……。それはまぁ……」

「冬瀬じゃ考えられないよな」

 ぴたり。
「……ん? どうした?」
「え? あ。いや……はは」
 彼にとっては、何気ないひとこと。
 ……だが――……俺にとっては無視できない……古傷をえぐるような言葉。
「…………」
 『冬瀬』というのは、当然近所にある冬瀬高校のこと。
 彼もあそこの卒業生だから、当然さらりと出たんだろう。
 ――……そして。
 言わずもがな……あそこは、男子高で。
 ……はー……。
 いや、いいんだ。
 アレからもう、6年も経ってるんだからな。
「…………」
 …………はぁ……。
 そうは思うんだが、やはりなかなか記憶から消すことはできない。
 それほどに、衝撃的なモノだったから。
 封印と呼ぶに相応しい、忌まわしき記憶。
 ……ああもう。
 本気で今でも切なくてたまらない。
 女の子同士だから許されることが、男同士で許されるかというと“イコール”にはならない。
 ……やっちゃいけないことが、あるだろう。
 特に、信頼してた弓道部の後輩ともなれば。
 まぁいい。
 とりあえず、過ぎたことだ。
「……っ……え……?」
 相変わらず不思議そうな顔をしていた純也さんに首を振り、乾いた笑いで否定する。
 なんてことを続けたまま自分の靴を出そうとしたら、蓋を開けた瞬間に何か紙のような物がひらりと舞い落ちた。
「……?」
 鞄を持ちながらそれを広い、電灯の下で引っ繰り返す。
 ――……と。
「…………な……」
 そこには紛れもなく、純也さんとはまた違う女の子らしい文字で俺の名前が書いてあった。
「……ほぉお」
「っわ!?」
「……おモテになりますなぁ? 祐恭センセ」
「いや、これはっ……違いますって。そんな」
 いつの間に背後に回っていたのか、耳元でぼそりと呟かれ、堪らずその場から飛びのく。
 すると、心底おかしそうに――……そして何か秘密めいたモノを握ったかのように、いたずらっぽい顔をした彼が靴を取り出した。

 ぱさ

「…………」
「…………」
 落ちたソレを見たままで、動きも時間も何もかもが止まる。
 そこにあったモノ。
 それもまた、かわいらしい封筒に可愛らしい丸文字で彼の名前が書かれた封筒だった。
「……ほぉ」
「っ……」
「おモテになりますなー?」
「……いや、違うって。ホントに」
 何かの間違いだろ。
 少しだけ引きつった顔で俺に首を振った彼を見ながら、にやりと口角が上がった。
 ……そりゃまぁ、俺だって同じ穴のなんとやらと言われればソレまでなんだが。
 だが、しかし。
 気持ち的なものが違う。
 若干誇らしいというか、余裕があるというか……っていや、ハタから見れば“同じ”だよな。やっぱり。
「…………」
「…………」
 お互い、それぞれの反応を確かめるよりもまず、手元のコレを確かめるのが先だった。
 紙特有の軽い乾いた音とともに封を開け、中から1枚の紙を取り出す。
 ――……と。
 そこにはただひとこと、こう記されていた。

『放課後ここで待ってます』

「…………」
 正直言って……なんとも曖昧な内容だと突っ込みたくなるセリフ。
 ……そして、もうひとつ。
 敢えて言うならば、このテの言伝(ことづて)というのはできれば……指定した時刻よりもずっと以前に手元へ届くようにすべきじゃないのか?
 相手がいつ読むとも知れない、メッセージ。
 ときはすでに放課後をとうに過ぎているのだから、もし、この送り主が指定した場所で待っているとするならば――……よほど気が長い人物なのか、はたまたものすごく暇な人なのか。
 …………。
 どちらにしろ、俺には到底理解できない。
「……なんだって?」
「それが、なんでも……放課後待ってる、って……あれ?」
 まじまじと手紙を見つめたまま答えると、目の前に彼が紙を差し出した。
 その、文面。
 そこにも確かに――……そしてハッキリと、同じ字体でまったく同じ言葉があった。
「…………」
「…………」
 いたずらか、嫌がらせか。
 どちらにしても、タチが悪い。
 ……が、しかし。
「QRコード……ですよね」
「俺も気になった」
 手紙の、1番下の隅。
 そこに並んでいる、かわいらしい封筒と便箋からはほど遠い、無機質な黒のドット。
 …………これは、いかに。
「……場所、なのかな」
「だと思いますけど……」
 言い終わる前に、お互いスマフォを取り出していた。
 ……だが。
 コレがいたずらでない可能性は、割と低い。
 もしも見て後悔するような内容が飛び込んで来たら、ふたりして寝込みそうだけどな……。
 というか、本気で人を信じられなくなるような。
 そんな、ある種の嫌な感じが拭えない。
 ――……しかし。
「…………」
「…………」
 俺も純也さんも、『どうせ何かの冗談だ』とは言わなかった。
 素直にスマフォを取り出し、素直に……コードを読み込む。
「…………」
 音もなく画面に表示された、見覚えのないアドレス。
 ボタンひとつでページを開けるが、果たして本当にクリックしてもいいのだろうか。
 ……だが、しかし。
 やはり当然、気にはなる。
「…………」
「…………」
 そんなことを考えながら、ふと……なぜか純也さんと目が合った。
 ……あー。
 やっぱり……やっぱ、そうですか……?
 それっきゃないっすかね……?
 そんなやり取りがあったかどうかは、さておき。
 俺達は小さくうなずいて、それぞれアドレスをタップした。
 ――……刹那。

『ぱんぱかぱーん!』

「ッ……!」
「うわ!?」
 割とデカい音量とともに、高い声が響き渡った。
「……な……っな……!?」
「ッ……んだ、コレ……!!」
 愕然、とはまさにこのこと。
 同じタイミングで同じ画面を開いたらしく、妙なハモりもあいまって、ある種のサラウンド効果を生み出していた。
 ……そして。
「……っ……」
「な……」
 俺たちはすぐに、後悔……もとい。
 いろんな意味で脱力する羽目になる。

『我らふたりはぁ、御主人様のご帰宅を心底お待ち申し上げることを誓います☆』
『……に……にゃん!』

 ひらりと舞うメイド服。
 真っ白いカチューシャ。
 ……そして。
「……なんだこりゃ……」
 猫撫で声、まさにそれ。
 画面に映し出されたあられもない姿を見たままで、呆然と時間だけが流れた。
 唯一。
「……あー……もー」
 頭を抱え込んだ純也さんだけは、冷静に反応をしていたが。
「…………」
「…………」
 あとに残るのは、なんともいえない脱力感。
 乾いたというよりは、的確な表現のできない笑いを浮かべたまま顔を見合わせると、激しく気分が落ち込んだ。
 ……あー……。
 俺たちの余計な心配と気苦労に費やした時間を、8倍にして返してくれ。
 ――……ちなみに。
 彼女たちの背後に見えた『カフェ・ド・メイツ』という手書きの文字が、一層俺たちを追いやる結果になったのは言うまでもない。


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