「っくし……!」
 突然、なんの前触れもなくくしゃみが出た。
「……だいじょぶ?」
「あー……。ええ。なんか……なんだろ。急に」
 ぶるっと一瞬寒気が走り、瞳が細まる。
 ……あ、なんか嫌な予感。
 これを感じるのは、本日2度目。
 ………。
 ……何も起きてないだろうな……。
 思わずそんなことを考えながらコートのポケットに手を入れるも、やはり手は冷たいままだった。
「……さて、と」
 1枚の大きなドアを前に、揃って足が止まる。
「…………」
「…………」
 自然と顔を見合わせてしまうのも、まぁ……仕方ないだろう。
 ……なんせ、アレだぞ?
 手の込んだ招待状で導かれた――……現在。
 あのハイテンションっぷりと、あの格好とを総合的に判断すれば、やっぱりどう考えたって意気揚々と帰れるはずがない。
 だが、それはもちろん彼も同じ。
 自分の家なのにこうも入りづらいとは……なんていう心の声が聞こえてきそうな顔をしていた。
「……よし」
 小さくうなずいた彼が、鍵を差し込んだ。
 ゆっくりと回されるそれを見つめていると……ほどなくして聞こえた、大きな音。
「…………」
「…………」
 ……開いた、のか。
 思わずごくりと喉を鳴らす間もなく純也さんがドアを開き、ゆっくりと中の様子が明らかになる。
 ――……だが。
「……あ?」
 そこは、以前訪れたときと何も変わっていない、至って普通の玄関だった。
 どうやらそう思ったのは彼も同じだったらしく、いかにも拍子抜けという顔のまま。
「……ここは平気、なのかな」
「…………かもしれませんね……」
 ぼそぼそとやり取りをしながら中に入り、耳を澄ます。
 …………だが、やはり特に変わった物音のようなモノも、まったく聞こえては来なかった。
「あー……よかった……」
「……ですね」
「俺はまたてっきり、あの格好で出迎えられるのかと思ったよ……」
 ぼそっと呟かれた言葉に、彼の憂鬱な気持ちが重たく乗っているのがわかった。
 しんどそうに靴を脱いでから上がったとき、大きなため息をついたから。
 ……まぁ、確かにそれはあるよな。
 やっぱり、心臓には悪いし。
 ……………。
 ……そりゃ……まあ?
 彼女が俺とふたりきりのときにしてくれるっていうなら、まだ……話は違うが。
 って、今はそうじゃなくて。
「……んじゃ……」
「行きますか」
 お互いに小さくうなずいてから目指すは――……1番奥のドア。
 そこはリビングになっているので、当然彼女らがいるはず。
 ……どうか、何事も起きていませんように。
 どうか、ちゃんと正視できる内容でありますように。
 そう願い想像するのだが……しかし。
 どうにもこうにも、不敵な笑みを浮かべている絵里ちゃんの顔が浮かんできてしまい、やはり安心することはできなかった。

「っきゃ……ぁん……!」

「ッ……!」
「……な……!」
 突然響き渡った、高い声。
 それで思わず足が止まった。
「…………」
「…………」
 お互い顔を見合わせながらも、当然、落ち着いていられるはずがない。
 ……今の声はなんだ……?
 いや、むしろ。
 アレは間違いなく――……羽織ちゃんの、声。
 ドアまではまだ1m近くあるのだが、それでも、相変わらず中から声が聞こえてきていた。
 相変わらず……と言っていいのだろうか。
 なんとも形容しがたい、だが、だからこそ余計にあらぬ想像を掻き立てられてしまうような声が。
「は……っ……ぅ、や……」
「何言ってんのよ。……んん……? もうこんなんなっちゃって」
「ひゃっ……」
「やーだもー。ちょーかわいいー」
「……や……やだぁ……。絵里、も……やめ、て……」
「うふふふふ。何言ってるのよ。ダメに決まってるでしょ? こーんなカッコ見せ付けられたら……ねぇ? 据え膳食わぬは、って言うじゃない」
「うー……それ、違うぅ……」

 ごくり。

 どちらのモノとも判別付かない、何かを飲み込む音。
 ……いや、その……だな。
 やっぱ、こういう場合は見えないからこそ、余計なことを想像しがちで。
 きっとドアを開けてみれば、なんてことない光景が広がっているに違いない。
 いや、そうだ。
 そうだぞ、絶対に。
「………………」
「………………」
 お互いに軽くうなずいてから、ドアに手をかける。
 きっと、純也さんも俺と同じことを考えていたに違いない。
 なぜならば、やはりそうでもしないと――……ドアを開く勇気が出ないから。
 だが、だからこそ開け放たねばならないんだ。
 それこそ“開かずの間”と化してしまう前に。
「…………」
 だが。
 彼の行動は、いたって慎重そのものだった。
 身を屈めてからドアノブを回し、そっと……薄く開く。
 電灯の種類が違うのもあってか、やけにはっきりとした白い光が漏れてくる。
 床を照らす、明かり。
 その白い面積が増えるに従って、徐々に中の様子が見て取れ――……。
「ッうわ……!?」
「……ッ……!!!」
 途端。
 俺と純也さんは、思わず持っていた鞄を床に落とした。
 大きな音とともにそれが引っくり返り、床に震動が伝わる。
「…………な……んだこれ……」
 愕然とは、まさにこのこと。
 ……これならば。
 これならばまだ俺は、あの、スマフォで見た彼女たちふたりのメイド姿のほうが、よっぽどマシだと思った。
 ……いや。
 もしかしたら隣で大きな口を開けたまま硬直している純也さんも、まったく同じ考えかもしれないが。
 第一に。
 まず、すぐそこから点々と続いているモノが“尋常でない”ことを示している。

 衣服。

 ぐしゃぐしゃに乱れてはいるが、間違いない。
 アレは、女性モノの服。
 ……イコール。
 彼女たちのものだと、すぐにわかる。
 ………………そして、第二に。
 これはもう……いったいどう形容したらいいだろうか。
 ひとことで言えば、『ありえない』
 ふたこと目には、『やっちゃいけない』
 ……まさに、そんな所だ。
「な……にしてんだよ、お前は……!」
 先に沈黙を破ったのは、純也さんだった。
 ……いや。
 正確には、行動を示したのは何を隠そう……絵里ちゃんだけど。

「いやん、じゅんじゅぅーん!」

 きゃぴるんっ。
「……な……」
「は……!?」
 きらりんっと瞳を輝かせた彼女が、薄着――……というか、すでに下着だけのような格好のまま、こちらにダッシュをかましてきた。
「おっかえりなさぁいーい!」
「うわ!? げ、酒くさっ……! おま、何し……!」
「えぇい!! 固いこと言わずに、これ食べなさい!」
「むがっ!? おま、何すッ…………あ、うまい」
 どーん。がっ。もぐもぐ。
 ……今、目の前で起きた光景を擬音化するとしたら、こんな感じだろうか。
 …………って、いやいや。
 何気に、無理矢理口へ突っ込まれたチョコを口にしている純也さんには申し訳ないのだが……その前に。
 まずはやっぱり、この状況を検証するのが先じゃないだろうか。
 そして。
 彼女たちの、あられもないその……。
「……え……」
 べたぁっと彼に抱きついている絵里ちゃんを見たままでいたら、不意に左腕があたたかくなった。
 ……というか、密着感があるというか、柔らかいというか……って。
「うわ!?」
「……えへへ……。せんせぇだぁ」
 にぱ。
 きゅうっと細い腕を巻きつけたまま俺を見上げた彼女は、とろけそうな微笑で囁いた。
「ッ……!!」
 いろんなモノが、吹き飛びそうになる。
 衝動とかって言葉が1番しっくり来るような、沸き立つ感情。
 わずかに全身が震えたような気がしないでもない。
 古い言い方をすれば、電気が走った、みたいな。
「ふえ……?」
「…………はっ。いや、ちょ、まっ……! ええと、えー……と……。あ。……このカッコは、何?」
 どうしたって目線は俺のほうが上にあるので、見えそうで見えないラインを辿る胸元が、やけに目に付く。
 しかも、この格好。
 薄い生地のせいで、し……下着が少し透けて見えなくもない。
 だが、しかし。
 強調すべきはそれだけじゃなくて。
 やはりなんと言っても、この、胸元やら裾やらといった場所に『これでもか』というくらいに施されているリボンやレースがすごい。
 くっ……かわいいじゃないか……!
 上目遣いで見上げながらわずかに首をかしげられ、たまらず心の1番深い部分が刺激される。
 ……下着は白か。
 いや、それはどうでもいい。
 …………あーもー……!
 考えることすべてが、どうしたってそっち寄りだ。
「…………って、そうじゃなくて!」
 がしがしと頭をかいてから首を振り、改めて彼女に向き直る。
 ――……が。
「……え……。……あ、あれ?」
 気合を入れて必死に理性を呼び覚ました俺の前には、あの、タガを外してくださいと言わんばかりの彼女の姿が見当たらなかった。
「…………あれ!?」
 代わりに。
 何故こうなったのかまるでわからないのだが、少し離れた場所……そう。
 リビングに置かれているこたつのちょうど真ん前あたりにきっちりと正座し、彼女が俺たちを見つめた。

「純也せんしぇ!」

「ぶ!!」
「……んな……!」
 まるで、俺たちを睨んでいるんじゃないかと思うような、強気の眼差し。
 それを確かにたたえている彼女は、びしっとこちらを指差しながら――……なんとも気の抜けるような言葉遣いで彼を呼んだ。
「……な……。え? ……は……羽織ちゃん?」
「いいれすからぁ! ここに来て、座ってくらしゃい!!」
「…………あ……は、はい」
 むん、と腰に手を当てて胸を張った彼女。
 ……だが、しかし。
 こんな姿は当然見たこともなければ、こんなに抜けるほど舌っ足らずな喋り方も、聞くのは初。
 ……なんだ。
 いったい何が起きてるんだ。
 そして……これから何が始まるんだ……!?
 彼女のなんともいえない迫力に押されたのか、ゆっくりと……だが、確かに距離を開けて正座した純也さん。
 その背中を見つめたままで俺は、ただただ不安ばかりが募っていた。
 ……いや。
 もしかしたら半分くらいは、興味本位だったかもしれない。
「いいれすか?」
「……はい」
「絵里はれすねぇ、すごぉーーくかわいいんれすよ?」
「…………は……?」
「『は』、じゃありましぇん!!」
「……う。す、すみません」
 …………純也さんが、まるで別人。
 いや、もちろん彼女だって別人そのものなんだけど。
 …………しかし、なんともすごい光景だな。
 いわゆる“ベビードール”のような格好で、赤ら顔のまま説教くれてる女子高生。
 方や、“真”が付くくらい素面そのもので、きっちりコートまで着込んだままの高校教師。
 ……うーん。
 これを異様と言わずしてなんと呼ぼうか。
「…………だからぁ」
「……はぁ」
「だから、絵里のこと……ちゃんとわかって………」
「……え? っ……! え、羽織ちゃん……!?」
「ふぇ……わかってあげれくらしゃいよぉ……」
「ッ!」
 それまで、高みの見物よろしく遠巻きから眺めていた俺も、さすがに身体が動いた。
 突然。
 まさに、それ。
 今の今までくどくどと舌を巻きながら純也さんに説教を垂れていた彼女が、突然、ぽろぽろと幾粒もの涙を零し始めたではないか。
 だが、驚いたのは恐らく俺以上に純也さんだろう。
 『うわっ』と叫んだかと思いきや、慌てた様子で俺と彼女とを見比べたから。
「ちょ……どうした?」
「ふぇーん」
「……え……。は……羽織ちゃん……?」
「ふにぇーん!」
 まるで、小さな小さな女の子。
 自分の言いたいことがうまく伝えられずに泣いてしまうような……そんな、本当に幼い子どものように。
 彼女はただひたすらに、頬へ幾筋も跡を残しながら拭いもせずに泣きじゃくった。
 ――……だが。
 事態はやはり、これだけで済むはずがなかった。
「ちょっ……! はおりんご!?」
「……は……?」
「な……」
 少し離れた場所で、好き勝手に何かをぱくついていた絵里ちゃん。
 その彼女が、ものすごく慌てた様子で……しかも、やたらと真面目な顔で。
 いきなり、羽織ちゃんの元に駆け寄ったのだ。
 この時点で『あ、ヤバい』と判断できればよかったのかもしれない。
 だが、この状況になったのはものの数秒という素早さ。
 ……はっきり言って防ぎようがなかった。
「ちょっ……ちょっとぉ……やだ、何……? なに泣いてるのよぉ……! …………ぅ……」
「……う?」

「うわぁああーーん! はおりんくるー! 泣かないでよ! 泣かないのぉー!!」

 一瞬、絵里ちゃんが言葉に詰まった。
 ……が。
 俯いた顔を覗き込みながら純也さんが呟いた瞬間、ぶわーっと涙を流しながら、思い切り彼女を抱きしめた。
「びえぇーん! はおりんごー!!」
「うぇっ……うえーん! えりぃー!!」
 すっかり、ふたりだけの世界に入ってしまった彼女たち。
 残された俺たちの心情をひとことで表すならば、間違いなく『ぎゃー』という絶叫だっただろう。
 なぜ。
 なぜいったいどうしてこんなことにならなきゃならんのだ。
 どうにもこうにも、収拾が付かない状況。
 ……ど……どうしよ。
 わんわんと抱き合いながら泣きじゃくる彼女たちを見つめたままで、俺と純也さんはただただ呆然と見守るしかできなかった。
「ちょっと……どうしよ、これ……」
「……どうしましょうね……」
 ははは、とすっかり乾き切った笑いが出ながらも、当然顔は笑っちゃいない。
 引きつりながら互いを見つめ、『なんとかしてくれ』とそれぞれが訴えかける。
「……ん?」
「え?」
 ふたりを残して少し離れた場所から観察と相成った状況下で、純也さんが何かを見つけたらしい。
 声と同時に振り向いた俺の元へ、茶色い何かを手にしながらすぐに戻って来た。
「元凶はこれかも」
「……? なんですか? それ」
「さぁ……。……でも、とりあえず匂いがコレっぽいんだよね」
 それは茶色の瓶だった。
 一升瓶とかでよく見かけるタイプの作り。
 サイズこそ本当に小さなモノであるのだが――……確かに。
 差し出されたそれの匂いをかぐと、甘ったるい匂いに混じって、日本酒特有の香りがあった。
「ったく、絵里のヤツ……。酒癖わりーな……」
「……お互いさまですね……」
 大きなため息とともに呟いた彼へ、引きつった笑みで同意する。
 ……ああ。
 あんな彼女を見たのはそれこそ初めてだったんだが……これほど疲れる初体験ってのは、正直御免こうむりたい。
 なんだかもう、今にも胃がきりきりと悲鳴を上げそうだ。
「……とりあえず……」
「え?」
「メシにするか」
「……えぇ……!?」
 ぽりぽりと頬をかいた彼が呟いた、言葉。
 それは、まったく予想だにしていなかったこと。
 ……もしかして、胃のあたりを押さえたのを勘違いされたんだろうか。
 だとしたら俺はまだ別に――……。
「……え……?」
 なんて思いながら、眉を寄せた瞬間。
 今までとはおよそ180度違う表情で口元を緩めた彼が、顎でそちらを指した。
 当然のように身体がそちらへと向かい、そして視線が――……。
「……あ……」
 そこにあった、姿。
 それもまたまるで……子どもそのもの。
「……いつの間に……」
「ま、疲れて当然だよな」
 小さく笑った彼の声が、少しだけ安堵のため息が交じっていたように聞こえた。
 ……ふたり揃って、寝ていたのだ。
 あのままの格好で……そして、あのままの姿勢で。
 ぎゅうっと抱き締めあったまま、しっかりと瞳を閉じて安らかな寝息を立てていた。
「……ったく」
 コートを脱いだ彼が1度奥の部屋へと消えてから、毛布を手に戻って来た。
 ちょうどよくラグの上で横になっているので、恐らく……そこまで冷えはしないだろう。
 床暖が入ってるのもわかったので、思わず苦笑が浮かんだ。
「……とんだバレンタインだな」
「同感っす」
 いきなり、静寂が支配し始めたリビング。
 つい、3分前とは大違いだ。
「………………」
「………………」
「……はは……」
「あはは……」
 彼女たちを見つめてから、自然と視線がかち合う。
 出てきたのは、やはり笑い。
 ……だが、やっぱり少しだけ疲れが混ざっていたように思う。
「……んじゃま、男ふたりで寂しくメシでも食うとするか」
「ご馳走さまです」
「いーえ」
 たいした物は出てこないよ、なんて笑いながら上着を脱いだ彼がネクタイを緩めた。
 それに習って俺もコートを脱ぎ、タイを緩める。
 ――……すると。
「……え?」
「ちょっと。……こっち来てみ?」
 キッチンへ回りこんだ彼が、視線を1箇所に据えたまま俺を呼んだ。
「……?」
 彼が何を見ているかがちょうど死角になってわからないので、同じくそちらへと歩み寄る。
 ――……途端。
「……へぇ……」
「な? すごいだろ」
「はは。確かに」
 シンクの横に置かれていた皿を見て、思わず顔が緩んだ。
 先ほどまでとはまた違う、柔らかい笑み。
 自分でもそれがわかるんだから、相当なモンだ。
「……まいったな」
「いろんな意味で、ですね」
「あはは! だなー」
 そこにあった、モノ。
 それは間違いなく、彼女たちふたりが俺たちのために用意してくれていたんであろう、夕食の皿だった。
「……『LOVE』ねぇ」
「なんか、無性に恥ずかしいっすね」
「……男ふたりだからなぁ」
「なるほど」
 お互い、覗き込むように皿を見つめ、くすくすと笑いながらそれを手にする。
 ハート型のハンバーグと、ハート型のガーリックライス。
 そして、デミグラスソースと思しきもので描かれている『ハート』の形と……そして、コメント。
「……んじゃ、ま」
「いただくとしますか」
「ああ」
 皿を手にリビングへ向かい、改めて彼女らを見つめる。
 ……世話が焼ける。
 だが、だからこそかわいくて愛しい。
 ……きっと、純也さんもそう思ってるに違いない。
 俺と同じくふたりを見つめているその視線が、やっぱり柔らかかった。

「「いただきます」」

 彼女たちへ、囁くようにあいさつする。
 そのとき、ふたりがふと……ほんの少しだけ笑ったように見えた。


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