「……あーもー。どこまであんたたちは、びっくり兄妹なのよ……」
 目に手を当てたまま、絵里が大きなため息をつく。
「え……っと……。そんなに、ヘン……かな?」
「変に決まってるでしょうが!!」
 そのままの格好で動こうとしなかった彼女に恐る恐る声をかけると、がばぁっと体勢を戻してから本気で怒られた。
 ……そんなに怒らなくても……。
 反射的に『ごめん』と言ってから俯くも、彼女は相変わらず明るい声を出さなかった。
「まさか、この年になってもやめてなかったとは思わなかったわ」
「……だって……。それが普通なんだと思ってたんだもん」
「普通なワケないでしょ!!」
「ご、ごめんってばぁ……」
 小さいころから、彼にキスされることはあった。
 あ、でもね?
 外国で普通に行われてる、頬にするキスだよ? もちろん。
 だって、お父さんもお母さんも普通にしてるし、お兄ちゃんも――……あ。
 そりゃあ、確かにもうひとりの兄である孝之は、ものすごく嫌そうな顔で見てたけど。
 ……でも。
 小さいころから続いてたし、周りの人たちの反応が普通だったから、私はそれが当然なんだと思ってた。
「……だって、それが私たちの『当たり前』だったから……」
 ふ、と落ちた視線の先に映るのは――……彼から高校の入学祝いにもらったシャーペン。
 ……当たり前、だった。
 私たちには……これまでずっと。
 キスをされて、抱きしめられて。
 そんな毎日が、なんだかんだ言って好きだったし……これからも、ずっと続くんだと思ってた。
 ……そう思ったから、壊れちゃったのかな。
 これからも、ずっとずっと……そうであってほしい……なんて思ったから。
 私は18歳で、彼は24歳で。
 ……もう、小学生だったあのころとは違う。
 一緒に寝ることもなくなったし、ぴったりくっついている時間も減った。
「……寂しいな……」
 『兄妹だから』と言いながらも、私はやっぱり嬉しかった。
 彼に構ってもらえて、大切にしてもらえて。
 ……彼にとっての特別が、私にはすごく居心地がよくて。
 だから、これからもそうであってほしいと思った。
 これからもずっと、お兄ちゃんは……私のそばにいてくれるんだ、って。
「……失くして初めて気付くなんて……遅いね。私」
 少し不安そうな顔でこちらを見ていた絵里に笑うと、より一層眉を寄せた。
 そんな彼女に慌てて『そんな顔しないで』と言うものの、やっぱりつらそうなままで……。
 だからこそ、こちらも……瞳が閉じる。
 ……帰りたい。
 ここから、いなくなりたい。
 ……これから始まるであろう、いづらい……時間をすごすくらいなら。
「っ……」
 時計を見て漏れたため息と同時に、教室のドアが開いた。
 入ってきたのは、もちろん彼だ。
 ……お兄ちゃんが副担任になったって聞いたとき、本当は嬉しかったのに。
 なのに、今はものすごくそれが苦しくてたまらない。
 ……ああ。
 私は、本当に我侭なんだなぁ。
 自分を中心にしか物事を考えられなくて、心底情けなくなってくる。
 私が、悪いのに。
 お兄ちゃんを傷つけて、こんな状況を作り出したのは、自分なのに。
 いつもとまったく違う雰囲気のまま教卓に付いた彼を正視できず、やっぱり視線は自分の机に落ちていた。

 やけに長く感じられたSHRを終え、ようやく解放されたという気分になるのは、なんだかすごく彼に対して申し訳ない。
 ……声を聞くことができて、嬉しいはずなのに……なのに、なんだか複雑だ。
 ――……そして。
「羽織。あんた、行けるの?」
「……え……?」
 椅子に座ったままで、ついいつものように渡り廊下を進む彼の姿を追ってしまっていた。
 だから、絵里に言われた言葉が何を指しているのか、すぐにわからなかった。
「……あ……」
 きょとんとした顔でいたら、絵里が顎でそちらを指す。
 ……次の時間は、化学。
 そう。
 私が教科連絡係をしている、兄の、化学だ。
「なんなら、私行って来るけど?」
 思わず視線が落ちると、絵里が心配そうに顔を覗きこんできた。
 ……確かに今、彼に面と向かうことはできない気がする。
 あの、冷たい雰囲気で言葉をかけられたら……泣かないと言い切れない。
 それを察しての絵里の言葉が嬉しくて、優しくて。
 それで、少しだけ涙が浮かんだ。
「ちょっ……! 羽織?」
「ごめん。なんか……ありがとね。絵里」
「……ねぇ。ホントに、私が行ってくるよ? だから――」
「ううん、大丈夫。……ちゃんと、行ってくるから」
 瞳を丸くして肩に手を乗せた彼女に首を振り、答えを聞く前に席を立つ。
 こうしなければ絵里が行ってしまう気がしたからだ。
「……でも、羽織……」
「大丈夫……だと思う」
 曖昧な答えを返したら、やっぱり不安そうな顔をされてしまった。
 ……ダメだなぁ。
 絵里に苦笑を浮かべてから、改めて教材を持ち、廊下へ足を向ける。
 ……うん。
 大丈夫だよ。
 絵里にそう言った以上、泣いて帰るわけには行かない。
「……いってくるね」
 弱い笑みで絵里に手を振ってから、廊下へ。
 向かうのは、もちろん化学準備室。
「…………」
 小さくため息をついてから、彼が通ったのと同じように渡り廊下を目指すと、徐々に鼓動が大きくなっている気がした。


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