「んっ……ん……はぁ」
「……羽織……」
「せんせっ……ん……やっ……ぁ」
 ベッドに沈む、濡れた声。
 抱きしめるように身体を重ね、奥まで彼女を責めあげる。
 相変わらずの締め付けに荒くなる息をつきながらも、しっかりと首筋に唇を寄せていた。
「……羽織……」
 何度となく彼女の名前を呼び、跡を落としていく。
 ――……と。
 ぎゅうっと彼女が首に腕を絡めた。
「……先生……」
「ん?」
 少し落ち着いたような声で瞳を合わせると、申し訳なさそうな顔を見せた。
「……どうした?」
 額に張り付いた髪を撫で、頬に唇を寄せる。
 すると、おずおずと唇を開いた。
「……あの……ね……」
「うん」
 いつにない、彼女の雰囲気。
 ……なんだ……?
 思わず眉を寄せると、一瞬視線を外し、そして――……
「……あんまり……その、気持ちよくないの……」
「え」
 いきなりのことに、瞳が開いた。
 ま……じで?
 つーか、まさかそんなことを言われるとは思いもしなかっただけに、一気に現実へと引き戻される。
「なんか……なんて言うんだろ……。いつもみたいじゃなくて……あんまり、感じないって言うか……」
「……ずっと……?」
「…………ごめんなさい」
 ウソだろ……おい。
 たまらずそのまま崩れると、よしよしとばかりに彼女が髪を撫でてきた。
「あ、でもっ! 私、別に……。先生のこと、えっちだけが好きなわけじゃないから……」
「……そうは言ったって………ホントに?」
「う、うん。……あ、でも! あの、今度からは……私ががんばるからっ」
「……は!?」
「ねっ?」
「ねっ、て……」
 あまりにもかわいく微笑んだ彼女とは逆に、こっちは眉が寄り……。
「ね、じゃねぇーーー!!」
 ぐぁばぁ!! っと、たまらず身体を起こした。
「…………あ……?」
 全身、汗まみれ。
 窓からはまだ光が漏れておらず、どうやら……深夜。
 ていうか、夢……?
 ぐっしょりとかいた汗で冷たくなったパジャマを脱ぎ捨て、時計を探す。
 探ってからよくよく見てみると……まだ4時前。
「……はぁ……」
 思わず頭を抱えた。
 だって、そうだろ?
 まさか……彼女に『気持ちよくない』なんて言われるとは……。
 何? つーか、無意識にそんな心配してるってことか? 俺は。
 たしかに、女性は演技がうまいと言うが……。
 彼女に限って、そんなことはありえない。………と、思いたい。
 再び布団に潜り直し、瞳を閉じる。
 ……閉じる……。
 …………がっ。
 やっぱり、今まで見ていた夢が強烈すぎて、どうしたって眠れそうになかった。
 ばくばくと高鳴る鼓動を整えるように息をするが、依然として整いそうにはなく。
 ……結局。
 それから一睡もできずに、朝を迎えてしまったのだった。

「…………」
「……生きてる?」
「…………ええ」
 ぼーーっとすごした金曜の昼休み、純也さんが目の前でひらひらと手を振った。
「祐恭君、朝から死にそうな顔して……つーか、むしろ半分死んでるよ?」
「……昨日1日、まったく休めなかったんで……」
 相当参っている、自分自身。
 椅子にもたれながらも、食欲ってやつすら出てこない。
 昨日は、本当に人生で1番最悪だったんじゃないかとさえ思える日。
 ふと、卓上にあったカレンダーを見ると――……昨日が、黒日の仏滅だとわかった。
 ……うわ……。
 昔から、ウチの家系がそうだというか、六曜を重んじるタイプだった。
 やっぱ、黒日はダメだ。
 しかも、仏滅と被ってるし……。
 ……まさに、最悪。
 『何をするにも、ツイてない日』
 と言われている、黒日の仏滅。
 …………朝から悪いことしか起きないよな、確かに。
 そんな事実を今しがた知り、余計にヘコみの一途を辿るハメになった。
「失礼しまーす」
 元気な声にも振り向かずに窓を眺めていると、いきなり頭を叩かれた。
「って……!」
「こら」
「こ……こらじゃないだろ……」
 たまらず振り返ると、そこにはやたら機嫌の悪そうな絵里ちゃんが立っていた。
 ……なんでここにいるんだよ。
 確かに次の時間は化学だけど、連絡は羽織ちゃんなのに。
 そんな意味合いを込めて、睨む。
 というか、睨み返す。
「……羽織じゃないとか考えてるでしょ」
「当り前だろ」
「あの子のこと不安にしたでしょ。先生」
「……は……?」
 ちょっと待て。
 むしろ、不安でいるのは俺のほうだ。
 朝っぱらからあんな夢見て、もしあれが本当だったらどうしようかと考えているのに。
 彼女の言葉は、まったくもって意味がわからない。
「……なんで俺が不安にさせたんだよ」
「だって、ちゅーしてあげてないでしょ? 羽織に」
……昨日のことか……?
 ため息混じりに呟かれ、思わず瞳が丸くなる。
「それは、その……」
「なんで、キスのひとつやふたつしてあげないのよ!」
「仕方ないだろ! いろいろと理由があるんだよ!」
「どんな理由よ! お陰であの子、朝っぱらから元気ないんだからね!?」
「……え……」
 だから……ここに来てないのか? 彼女が。
「だから、それは――」
 立ち上がって弁解しようとしたそのとき、無情にもチャイムが鳴り響いた。
 それと同時に絵里ちゃんがやたらため息をついてから、実験室へ向かう。
「……泣かせたら、承知しないからね」
 ――……今にも殺されるんじゃないかというような、視線を残して。
 彼女が実験室へ向かったあとも、しばらく動けないでいた。
 ……いや、別に絵里ちゃんが怖いとかじゃなくて…………羽織ちゃんに誤解されたままだというのが、結構ショックで。
 なんて言えばいい……?
 というか、どんな顔して……授業しろって言うんだよ。
 閉じられた実験室への小さな扉が、あまりにも重く、冷たい感じがする。
 どんなふうに接すれば……。
 ……放課後、家に来ないとか言い出さないよな……。
 そんな余計な心配をしながらなんとかノブを回すと、どうしても最初に彼女へと視線が行ってしまった。
 友人らと話をする姿も、どこか元気がない。
 しかも、俺が実験室に入ったことに気付くと、1度合った視線を外すことなく見つめられた。
 今にも泣きそうな顔に、俺自身も……目を外せなくなる。
「……授業を始める」
 振り切るように教員用の実験台に向かい、置いたままの教科書をめくる。
 ……どこからだっけな。
 ほかのことを考えていると、どうしても今しなければいけないことが、疎かになる。
 本当は、すぐにでも呼び出して……ふたりきりで話をしたかった。
 何よりもまず、誤解を解いてやりたかった。
 ……自分が、あまりにも情けなくて……つい、手が止まる。
 1度だけじゃない。
 黒板に文字を書いている途中も何度も間違い、そのたびにため息が漏れた。
「先生、どーしたんですかー?」
「元気ないねー」
「あ、もしかして……彼女と喧嘩?」
 聞こえてくる野次にも似た言葉を背中で受け流しながらも、どうしたって彼女の態度が気になる。
 今度目が合ったときに泣きそうだったら……俺もう、ダメかも。
 だから、以来目が見れなかった。
 板書を済ませて説明を続けるが、声が大きく出ない気がした。
 なんていうか……らしくない。
 それは、十分わかっている。
 ……痛いくらいに。
 だけど、俺なんかより彼女のほうがずっと…キツいんだよな。
 キスをしてやれなかったことを誤解され、恐らく今も不安でいっぱいなんだろう。
「…………」
 意を決して顔を上げてみる。
 ――……が、彼女はずっと俯いたままだった。
 それが、余計に……ツラい。
「……以上。次は実験するから、予習しておいて」
 チャイムが鳴る5分前に授業を切り上げると、生徒たちが嬉しそうに立ち上がって出て行った。
 絵里ちゃんに肩を叩かれて、同じように立ち上がる羽織ちゃん。
 だが、一向に視線を合わせてくれようとはしなかった。
 ……かといって、個人的に呼び出すのも……阻まれる。
 そのため、ものすごく寂しそうな横顔を見送ってひとり準備室へ戻ることにした。
 参ったな……。
 軽く頭をかいて椅子に座ると、やけに大きくきしんだ音が響いた。
 珍しくほかに誰もいない、準備室。
 そのせいか、普段よりずっと広い部屋のように感じてしまう。
 ……放課後、ちゃんと来るのか? はたして。
 トントン、といつしか無意識に机を叩いていたのに気付き、再びため息が漏れる。
 相当参ってるんだな、俺は。
 誤解されてるんだから、それを解けば済むんだが……。
 一刻も早くふたりきりになりたい。
 …………奪取。
 いやいやいや、待てよ、俺。
 まだ次の時間は授業があるんだし。
 我ながら、彼女のこととなると見境がなくなるようで少し危ない気がする。
 それでも、やっぱりそれだけ惚れたわけで。
 こればっかりは、しょうがないか。
 そういうふうに自己完結させたころ、5時限目終了を告げるチャイムが響いた。

 放課後の、部活動。
 いつもと同じメンツが揃い、それぞれノートやら実験用具やらを引っ張り出して作業を始めた。
 そんな中、彼女は……というと、絵里ちゃんに引きずられるように机へ向かったのが見えたので、とりあえず一安心だ。
 教員用の実験台について、俺自身も作業を始める。
 なんてことはない、まぁ、論文と先日の出張のレポートだ。
「……ん?」
 ノートパソコンを開いて暫く打っていると、ポケットに入れていたスマフォが震えた。
 こんな時間に誰が……と思いきや、待ち望んでいた人物からの電話。
「もしもし」
 準備室に戻ってから電話に出ると、いつもと変わらない光の声。
 ってことは……!
「直った?」
『おー。実は昨日の夜に電話したらさー、今日朝からやってくれるってことで。んでまぁ、無事に仕上がってきたよ』
「マジで? うわ、すげぇ嬉しい。ありがとうな」
『おうよ。俺さまさまだろ?』
「もちろん! 今度何か奢る」
『あはは。それよか、車いじらせてくれればいいや』
 相変わらず、光らしい。
 自分が考えていたよりもずっと早い仕上がりに、思わず顔もほころぶ。
 ……あー、よかった。
 やっぱり、人の車は乗りづらいんだよ。
 確かに、昔は俺のだったけど……な。
「じゃあ、今日取り行く」
『ん。店までよろしくなー』
 電話を切ってからかける相手は――……もちろん涼。
 この時間ならば、どうせ大学でブラブラしてんだろ。
 しばらくして響いたのは、案の定いかにもヒマそうな涼の声だった。
『もっしもーし』
「……お前、人の車傷つけておいてずいぶん楽しそうだな」
『うぇ!? ま、まさか! んなことないって!!』
 慌てたような声に意地悪く笑みが漏れ、我ながら単純だと思う。
 ……ま、無事に直ったからいいものの。
 あれがとんでもないことになってたら――……今ごろ、アイツはタダで済んでないはずだけど。
「車、直ったらしい。学校終わったら大学行くから、それまで待ってろ」
『あ、そうなんだ。でも、だったら俺が直接取りに――』
「行くな。今度ぶつけたら、タダじゃおかないからな」
『じょ……冗談だって。じゃあ、待ってるから連絡よろしくー』
 自然に瞳が細くなったまま呟くと、慌てて手と首を振っている涼の姿が容易に想像ついた。
 ……笑える。
 通話を終えて漏れるのは、安堵のため息。
 …………よかった……マジで。
 傷ついたときは心底泣きそうだっただけに、本当にほっとする。
 さっさと仕事切り上げて、取り行くか。
 単純なもので浮かんだ笑みをそのままに実験室に戻り、仕事の続きを始めることにした。
 こうなると、不思議なモノで能率も上がる。
 ……やっぱ、俺って単純。
 1度キーボードを叩く手を止めてそんなことを考えてから、再び画面に視線を向けた。

 無事に車を受け取っての、帰り道。
 自分の車が戻ってきたことをやけに嬉しそうにしていた涼に別れを告げ、自宅へと向かっている――……現在。
「…………」
 隣には、相変わらずいつもとは雰囲気の異なる彼女が大人しく座っていた。
 ずっと俯き加減で、何より……笑顔も言葉数も少ない。
 いつものような表情がなく、ひどく落ち込んでいるような……そんな気になる。
 自宅の駐車場にいつも通り車を停めるが……やっぱり、元気がないわけで。
 エレベーターホールへと向かう途中で、たまらずその手を引いていた。
「っ……!」
「……どうした?」
 一瞬驚いたように瞳を合わせてくれるが、すぐに逸らされてしまった。
 それが……酷くつらい。
「何か言われた?」
「……え、ううん。ちょっと……疲れてるだけ」
 俯いたまま首を振り、先にエレベーターのボタンを押す。
 視線を合わせてくれない。
 そのままエレベーターに乗り込み、家へと向かう道のり。
 だが、彼女に妙な誤解を抱かれたままというのは、俺にとって何よりヘコむものだ。
 ……たとえどんなに嫌なことがあろうとも、彼女が笑ってくれればそれだけで十分に救われるんだから。
 今日こんなことがあった、あんな話をした……そんな他愛ないことを笑いながら話してくれるだけで、十分に癒される。
 自分の手が届く場所にいてくれて、何も制限せずに俺自身を許してくれて。
 抱きしめたり、キスをしたり……。
 それさえできれば、どんなことでもやれる気分になる。
 どんなに……誰かに無理だと言われても。
 ――…だから、そばにいてほしい。
 ……笑っていてほしい、んだ。


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