遠足の余韻も消え始めたころ。
 絵里は、自然に化学の授業にのめりこんでいった。
 元々理数系が好きだったということもあったが、何よりも純也へ素直に興味が湧いたからかもしれない。
 これまで真面目に授業を聞いてはいたものの、イマイチ彼のことを好きになれなかったため、話はそこまで聞いていなかった。
 ――……だが、あの遠足の日。
 これまで出会った大人とは違った彼を見つけてから、興味をそそられた。
 しかも、いざ真面目に授業を受けてみると、内容がわかりやすいのはもちろんなのだが、結構と脱線も多くて。
 そのどれが化学に関することだが、日常における化学の話などもしてくれて、割と面白いと思えた。
 これまで知らなかった彼を見つけた。
 そんなふうにさえ、思えるようになっていた。
「だからー。ここはそうじゃなくて、こっちなんだよ」
「どうして? だって、このやり方だと、この数字を当てはめて考えるんじゃないの?」
 昼休み。
 絵里はこうして彼の元に押しかけては質問を繰り返すことが、日増しに多くなっていった。
 わからない所はすぐに解決したい。
 それが昔からの性格だったからというのもあるが、やはり話がしたいというのがどこかにあったのかもしれない。
「いいか? これは、特別なやり方だって、前にも話しただろ?」
「そう? 私、先生の授業真面目に聞き始めたのって、最近だから」
「……やっぱり。つーか、皆瀬。お前な、そういうことを面と向かって言うなよ」
 椅子にもたれながら彼を見ると、呆れたように瞳を細めてため息を漏らした。
 そんな姿に肩をすくめてから続ける。
「なんで? 正直なことだもん」
「いや、ヘコむから。マジで」
「そんなもの知らないわよ。先生が悪いんでしょ? 人のことを優等生扱いするから」
 瞳を細めて彼を見ると、ぽりぽりと頭をかいてからコーヒーに口をつけた。
「俺がいつお前をそんなふうに扱ったんだよ。だいたい、優等生ってのはな、教師にふたつ返事で敬語って昔から相場が決まってんだろ?」
「はぁ? いつの時代の優等生よ、それ。先生、古過ぎ」
「……お前、人が傷つくこと平気でぽんぽん言うなー」
「そう? 先生に対してだけだと思うけど」
 にっこりと笑みを浮かべて言ってやると、瞳を丸くしてから呆れたようにため息をついた。
 でも、その顔は笑っているから反省はしない。
「……お前ってさぁ」
「何よ」
「変わってるよなー」
「…………はぁ?」
 カップを机において頬杖をつき、おかしそうに視線を向けられた。
 ……それはこっちのセリフ。
 と言いたいところだったけど、予鈴のチャイムが響いたから今日はここまで。
「それじゃ、お邪魔しました」
「おー。とっとと帰れ」
「言われなくても帰るわよ」
「……お前、ひとこと多いんだよなぁ」
「うるさいわね」
 こんな調子で、準備室を出るまで彼とは憎まれ口を叩きあう。
 でも、楽しんでるのはもちろんのこと。
 教室へ戻りながらひとり、次は何を聞きに行こうかと頭の中で『次回』の対策を練っているなどとは、彼が思いもしなかっただろうけど。

「それじゃ、期末の範囲はここまで。各自復習忘れるなよー」
 期末テストの2コマ前の化学の授業を終えると、生徒たちがそれぞれ実験室をあとにし始める。
 もちろん、その中には嬉しそうな顔をした絵里と羽織の姿もあった。
 これから暫くは、自習という形を取ることになるだろう。
 1学期初めのころの絵里とは違い、今では授業中目が合うことも何度かあった。
 だが、昼休みに自分のところにきて見せるいたずらっぽいようなものではなく、いたって真剣そのもの。
 そのたびに、やっぱり『根っからの生真面目なヤツ』という印象が強くなっていった。
 ほかの生徒と何が違うと言われれば、やはりその瞳を挙げるだろう。
 今では自分に向けられる視線は柔らかくなったが、それでも射すくめるような物に変わりはなかった。
 ……と表現すると以前から何も変わっていないように思えるかもしれないが、以前とは明らかに色が違う。
 きれいな鋭さ、とでも表現するとしっくりくるかもしれない。
 男の中でそういう瞳をしていた人間は何人か知っているが、女で……しかもあの若さでそんな瞳をしているのは、彼女が初めて。
 もしかすると、この先もそういう人間は出てこないかもしれない。
 人生稀に見る種類の少女だった。
「……っと。終わり」
 今日の授業の板書きを消しながらそんなことを考えていると、まだ残っていた生徒の言葉が耳に入った。
 なんてことはない、ただの世間話。
 ――……だと思ったのだが、話の内容が絵里のことだとわかった途端、つい聞き耳を立てていた。
「ねえ、知ってる? 絵里ちゃん、お見合いするんだってー」
「えー!? だって、まだ16でしょ? なんで? もう結婚するの?」
「さぁ……そこまでは知らないけど、イイとこのお坊ちゃんらしいよー」
「うそー、マジでー?」
 思わず、手が止まる。
 ……見合い……とか言ってなかったか? 今。
 気にはなるもののさすがに振り返れず、彼女らに背を向けたままで平然とした態度を続ける。
 だが、内心はやはり落ち着かなくて。
 とはいえ、別に彼女に対して恋愛感情を抱いているとか、そういうチャチな話ではない。
 どちらかというと、16歳という若い子が見合いすることに対しての、好奇心だ。
「お父さんの行ってる会社の、跡取り息子らしいんだけどさー。なんか、今は大学生らしいのね? その人。だけど、将来はその会社継ぐらしいから……すごくない? 玉の輿だよー」
「いいなぁー絵里ちゃん。年上で、お金持ち。それでカッコよかったら、言うことないよねー」
「うんうん! やっぱり、美人は得だよねぇ」
 きゃいきゃいと話しながら生徒たちが実験室をあとにすると、途端に静かになった。
 ……結婚……。
 つーか、許婚?
 ……とはちょっと違うか。
「…………」
 それにしても、見合い……ねぇ。
 あんな子どもを相手にしたって、面白くないと思うけどなー。
 思わず、苦笑が漏れる。
 まだ何も知らないであろう、高校に入学したての生徒たち。
 いわば、中学生にケが生えたようなものだ。
 まるで、噂に尾ひれ背びれ……いや、ヒレというヒレ全部が付いてるんじゃないかと思えるような、話だったな。
 ……からかってやるか。
 目一杯怒りながら否定する姿が、目に浮かんだ。
 チョークの粉が付いた手を洗ってから笑みを噛み、そのまま準備室に戻る。
 どうせ今日の昼休みも、彼女が何かと問題を見つけては自分のところに来るだろう。
 そのためにも、さっさと昼飯を済ませておくつもりでいた。

「うん。ホントよ? それ」
「………マジ?」
「そ。お祖母ちゃんに言われたんだけどね。……って、どこで聞いたの? そんな話」
 危うく問題集を落としそうになりながら彼女を見ると、至って平然とした顔で椅子に座ったままうなずいた。
 ……なんていうか、普通、このくらいの年の子が見合いなんてなったら、もっと慌てるよな。
 だが、まじまじと彼女を見ていると、緊張しているようでも慌てているようでもなくて。
 むしろ、肝っ玉がすわっていすぎるように見えて、まばたきが出る。
「おまっ……え、何、本気で見合いするつもりなのか?」
「は? なんで? 先生には関係ないじゃない」
「いや、そうなんだけどさ。でも、まだ16だろ? 人生そんなに簡単に決めていいのか?」
 思ったことを素直に眉を寄せて口にすると、瞳を丸くしてからおかしそうに声をあげた。
 まるで、火がついたかのよう。
 大口を開けてけらけら笑い出したのを見て、目が丸くなる。
「なっ……! おい! 俺はだな――」
「あはは! おっかしー! 先生が真面目なこと言うなんて。ちょっと、やだー。やめてよねー!」
「……お前なぁ」
 まるで珍しい物を見たとばかりに笑い出され、ため息が漏れる。
 こっちが心配してやってる、ってのにお前は。
「……ったく、なんなんだよお前は。せっかく、人が心配して言ってやってるのに!」
「あはははは! 先生が心配? 私を!? おかしーー! やだー!!」
「っ……あーもー」
 今の彼女には何を言っても通用しないらしく、ああ言えばこう言う。
 ……あーあ。
 居心地悪さから頭をかいて椅子にもたれ、瞳を細めて彼女に視線を向ける。
 それでも、デカい声で笑うのをそう簡単にやめなかった。
「……あーそーかよ。ま、せいぜい相手の男に気に入られて、玉の輿にでもなんでも、のればいいだろ!」
 ぷいっと視線を反らしてコーヒーを含むと、けたけた笑っていた彼女が静かになっていった。
 ちょっとは反省でもしたのかと思ってそちらを見ると、息を整えてから瞳を閉じる。
「あのね。私の人生、そんなに安い物じゃないわよ」
「……は?」
「どこの御曹司だかしらないけど、まったく興味ないし。退屈な人生過ごすほど、私暇じゃないのよね」
「……けど、金持ちなんだろ? 自分の好きなことできるじゃねぇか」
 あくまでもありきたりな一般論を口にすると、瞳を細めていたずらっぽく笑みを見せた。
「お金があれば好きなことができるなんて、これっぽっちも思ってないクセに」
「っ………それは、だな……」
 思わず言葉を飲み込む。
 自分の心を見透かされたような気がして、素直に驚いた。
「私の人生は、私が決める。誰の物でもない……私のモノなんだから」
 16歳の少女が、こんなことをさらりと言ってのけるだろうか。
 至って平然と。
 そして、あまりにも鋭いきれいな瞳で。
 すべてを悟っているようなとても16とは思えない雰囲気に、何も言葉が出てこなかった。
「ちょっとー。人のこと見すぎー。何? そんなに私のこと想ってくれてるワケ?」
「え? ……ああ、まぁ……」
 うなずきとともに、ぽつりと出た言葉。
 だが、意外にも絵里は大きく反応を見せた。
 いつもの彼女らしくない態度にこちらも瞳を丸くすると、ふっと小さく笑みを浮かべる。
 その笑みは、これまで彼女が見せたどの表情よりも柔らかくて、かわいいと思った。
「ありがと」
 普通の言葉のはず。
 だが、絵里が呟いた言葉は、違う物のようにさえ聞こえた。
 力強い芯の通った響き。
 なのに、どこか儚い印象さえある。
「……皆瀬。お前――」
「私、先生のこと好きかも」
 一瞬、何を言われたのかわからなかった。
 ……ん?
 今、好き……とか言ったか? この子は。
「……は?」
「だから、先生のことが好きなの」
「なっ……!? いや、お前、それはおかしいだろ!」
 がたっと椅子を鳴らせて彼女を見ると、心底嫌そうな顔を見せた。
「なんでよ」
「だって、お前っ……! ずっと俺に対して敵対してきてただろ!?」
「敵対? んなことしてないでしょ。ただ、ヘンな教師だなーと思ってただけ」
「いやいやいや! だから、どうしてそれで俺を好きなんて思うんだ!?」
「だから! そんなこと言われても、困るわよ! しょうがないでしょ!? 好きなものは好きなんだから!!」
 ッ……何ぃーー!?
 口をぱくぱくさせながら絵里を見ると、我に返ったように頬を少し染めてから軽くうつむいた。
 それは確かに……好きな男を前にした女の、普通の反応。
 だからこそ、慌てて首を振っていた。
「いや、それは……お前、マズイだろ!?」
「……なんでよ」
「っつーか、その……そもそも皆瀬のことを、そんなふうに見てないっていうか……」
 彼女から視線を落として呟くと、息を呑むのがわかった。
 ……あ。
「皆――」
「あのね、わかってたわよそんなこと。だけど、何も言わないままでいるのはイヤだったの。なんか、悔しいじゃない? そういうのって。いつまでも悩んでるなら、すっぱり気持ちを聞いて次に進んだほうがいいんだし」
 立ち上がってこちらに背を向け、にっといたずらっぽい笑みを見せた彼女。
 いつもの彼女の笑み。
 ……だが、このときばかりはそれが仮面であることがすぐにわかった。
「じゃ、これからもよろしくね。先生」
「……あ……ああ」
 元気に声をあげて準備室を出て行く、彼女。
 その姿を見ていたら、自分のほうがよっぽど動揺しているのに気付いた。
 ……まさか、彼女が自分に好意を抱いていたなど、微塵も感じなかった。
 それだけに、かなり焦っている。
「……はぁ」
 椅子に深くもたれながら口元に手を当てると、なんとも言えないため息が漏れた。
 この先、もう彼女が座ることはないだろう、椅子。
 そこに視線を向けると、再びため息をついていた。


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