「…………はぁ」
「こら。そんな顔しない」
 どうしても出てしまう、ため息。
 だけど、それを目ざとく見付ける彼は、そのたびに瞳を細めた。
 ……でもね? 仕方ないと思う。
 なぜならば今は――……センター試験2日目を終えたばかりなんだから。
 …………はぁああ……。
 結局、昨日の夜も必死にがんばった化学の追い込みは、功を奏してはくれなかった。
 ……でも、それは当然なんだよね。
 これまで苦手な科目だったのに、本番で威力発揮! ……なんてドラマチックな展開になるはずないんだから。
 …………確かにね?
 確かにそれは、頭ではわかってる。
 だけどやっぱり、『しかたがない』なんて簡単に処理できなくて。
 ……せっかく、彼が受け持ってる科目だからこそ、いい点取りたかったなぁ……。
 テーブルに両手で頬杖をつくと、やっぱりため息が漏れた。
「あ。新聞もテレビも、今日は見ちゃダメだから」
「え!? っ……そんなぁ」
「ダメなものはダメ。いいから、今日はこれ以上疲れを蓄積させないように」
「…………はぁい……」
「ん。いい返事」
 ……うー。
 本当は、すごく……すごくすごくすごく見たい。
 何がって、それはもちろん――……新聞が。
 今日受けた試験の解答はまだわからないけれど、でも、昨日受けたテストの解答はすでに印刷されているわけで。
 ……気にならないなんて言ったら、嘘になる。
 だけど、『ダメ』と取り上げられてしまったこの状況下で、彼に『ください』なんて言えるはずがなくて。
「…………」
「ほら。風邪引くからちゃんとかぶってる」
「……ぅー」
 ブランケットを私にかけてくれた彼を見ながらも、やっぱり……ちょっとだけ納得しきれなくて、眉は寄ったままだった。
 ……でも、約束が叶ったことは素直に嬉しいと思う。
 たとえ数時間しか一緒にいられないって言っても、試験が終わったあとすぐに彼は私を家まで誘ってくれたんだから。
 今日はもう日曜日だから、明日からはいつも通り新しい週が始まる。
 そうなると……彼とまたこうしてふたりきりになれるのは、週末でのおあずけ。
 ……遠いんだもん。
 だから、さすがに今日だけは我慢できなかった。
 “聞きわけのいい子”に、なることができなかった。
 ……どうしても、先生に会いたかったから。
 会って、ふたりきりで話がしたかったから。
 だって――……。
「え……?」
「お疲れさま」
「……あ……っ」
 ソファに座った私を後ろから抱きしめてくれた彼へ、うなずくと同時に満面の笑みが浮かんだ。
 ……いつぶりだろう。
 誰のことを気にするでもなく、ふたりきりでこの独特の時間を謳歌できているのは。
 先週の日曜日も確かに彼と過ごせたけれど、やっぱり、今回のセンターがあったから……手放しで甘えることはできなかったし。
 だから、そういう意味ではやっぱり今日は特別だった。
 誰に何かを言われるでもなく、やりたいことをさせてもらえている時間。
「今日はさ……」
「え?」

「なんでも言うこと聞いてあげる」

「っ……せんせ……」
「だから、なんでも言って?」
 きゅ、と抱きしめてくれている腕に力がこもったかと思いきや、耳元で囁いた。
 で……でも。
 なんていうか、その……ちょっとだけ、困ってしまう。
 だって、『言うこと聞いてあげる』って言われても、あれこれと頭に浮かぶようなことはないし、ましてや私は――……。
「ん?」
「私……こうしてもらえてれば、十分ですよ?」
「……これだけ?」
「です」
 首だけを動かして彼を見上げると、一瞬瞳を丸くしてから――……え?
 なぜか、いつもみたいに何かを思いついたらしき、いたずらっぽい顔を見せた。
 あ……あれ?
 今のやり取りで、そんな顔をされるような場所あったかな。
 まじまじと彼の瞳を見つめたままでいながらも、やっぱり、思い当たる節はない。
 ――……けれど。
 ずいっと顔を近づけた彼はその表情を崩すことなく、すぐ目の前で唇を開いた。
「それじゃ、お願いして?」
「……え……?」
「だから、どうしてほしいのか」
 ……またぁ。
 どうして先生は、こんなふうにとっても楽しそうに笑うんだろう。
 …………うぅ。
 た、確かにその……こんな顔をする先生も、もちろん嫌いなんかじゃないけれど。
 でも、なんか照れちゃうんだもん。
 改めて口にするのがちょっと恥ずかしくて、だからこそ、察してくれる彼がありがたいのに。
「…………」
 そんな願いを込めて、まじまじと彼を見つめてみる。
 ……。
 ……はー……。
 だけど、やっぱり彼は『早くする』とまるで私をせかすかのように、瞳を細めた。
「……あ」
 どうやらお願いするしかない、と思い立ったちょうどそのとき。
 これまで忘れていたというか――……無理矢理気にしないようにさせられていたあることが、ぽんっと浮かんだ。
 ……そう。そうだよ……。
 私はまず、しなきゃいけないことがあったんだ。
「…………」
「何?」
 不思議そうな彼を見つめながら唇を結ぶと、なぜかごくっと喉が鳴った。
「あの、えっと……ですね」
「うん」

「服、着てもいいですか?」

 『忘れていた』と言うには、重大すぎる見すごせないこと。
 だけど、これまで忘れてた……っていうか、ちょっとだけ強いられてたっていうか。
 そんな感じだから、正直言い出せなかった。
 だって、これまでも何度となく口にして、そのたびに彼は許してくれなかったんだから。
 ……でも。でもね?
 彼はさっき、『なんでも』って言ってくれた。
 だから、きっとこの笑顔のままひとこと――……。

「却下」

「っえぇ!? そんな!」
「それはダメ。っていうか、それ以外」
 それまで浮かべていた笑みから一転して、私に向けられているのは……まるで射られてしまいそうな鋭い視線で。
 ……うぅー。
 『なんでも』に例外があるなんて、聞いてないのに。
 なんとも言えない気持ちでぎゅっとシャツの裾を掴むと、当然のように視線が落ちて、大きな大きなため息が漏れた。


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