いったい、いつぶりだろう。
 こんなふうに、チャイムを鳴らさず彼の部屋まで直接来たのは。
 時間は、19時を回ったところ。
 今日は平日だから、彼は――……とっくに家へ帰っていてもおかしくない。
 もう、ごはん食べたのかな。
 ……それとも――……。
「…………」
 ……留守、なんてことないよね……?
 アルコープの門扉を開けて玄関の戸に手を当てると、ひんやりとした冷たさのせいか、少しだけ不安になった。
 どうしてもチラついてしまうのは、あのシーン。
 彼の背中越しに見えた、彼女。
 ……少しだけ驚いたような顔だったけれど、でも……。
「っ……」
 落ちた視線の先に映った、自分の靴先。
 それがわずかに震えた気がして、眉が寄る。
 ……大丈夫。
 大丈夫だから。
 先生はそんなことしない。
 今だってきっと――……ううん。
 絶対に、彼はちゃんとこの扉の向こうにいるから。
 このチャイムを鳴らせば、彼はちゃんと……ちゃんと迎えに、出てくれるんだから。
「…………」
 先に、電話したほうがいいかな……。
 チャイムに指を乗せたまま、ふと思い浮かんだ。
 ……でも。
「…………あ」
 いつの間にか瞳を閉じてしまい、慌てて顔を上げると同時に開く。
 ……ん。
 大丈夫。
 大丈夫だから。
 そう自分に言い聞かせてから、ごくっと息をのんで改めてドアフォンへ指を乗せる。
 ……押そう。
 彼が出てくれますように。
 ただひとつ、それだけを祈りながら。
「…………」
 ……でも。
 持っている合鍵を使わずにチャイムを鳴らすのが――……決定的な私の弱さだとは思った。

『……羽織ちゃん?』

 反響して聞こえたチャイムの音のあとで、少しの沈黙があった。
 聞き慣れている彼の声が、いつもと違ったかたちで響く。
 ……だけど。
 どうしてわかっちゃうのかな。
 いつもとは違って、彼が明らかに戸惑っていた。
 ……何かいけないことをしてしまっただろうか。
 それとも――……連絡もなしにきたことが、迷惑だった……?
「……ごめんなさい……っ。あの、私……」
 慌ててインターフォンの前で首を振り、視線を落とす。
 ……いけなかったんだ。
 いくら合鍵をもらえている立場だとはいえ、こんな突然――……しかも連絡なしでなんて。
 ……最悪。
 ぷつん、と切れたドアフォンに背を向け、門扉の戸を掴む。
 帰ろう。
 拒絶されてしまった以上粘ることなんてもちろんできないし、それに――……。
「っ……!」
 カシャン、と門扉が鳴るのとすぐ後ろでドアが開くのとは、同じタイミングだった。
 当然弾かれるようにそちらへと向き直り、ちょうどドアを開けて私をまっすぐに見つめている彼と目が合う。
「……先生……」
「どうしてここに」
 先ほどと同じ、驚いたような声。
 ……そして表情。
 いつもと違う“戸惑い”が、なんともいえずにつらかった。
 だって……そんな顔をさせているのは、間違いなく私自身なんだから。
「……迷惑でした……?」
 視線を逸らせず呟くと、一層彼は驚いたような顔を見せた。
 ……よかった。
 この顔が見れただけで、答えなんてなくてもいいとすら思える。
 だって、私には彼が『違う』って言ってくれるような気がしたから。
 ……だから、それだけでよかった。
 たとえ彼の答えが違うものでも、聞かなければそれで私は救われるんだから。
「…………なんでそんな……」
 音を立ててドアを大きく開き直した彼が、私へ1歩近づいた。
 ……先生の顔。
 先生の声。
 どれもこれも、私の欲しいもので。
 ずっとずっと……求めていたことで。
「…………」
「……羽織ちゃん?」
 手を伸ばして私を呼んでくれる彼を見たら、なんだか胸がいっぱいになった。
 ……私だけの、先生。
 大切で、大好きで……心底、『彼だけが』と思えた人。
 だから。
 今のこの時間だけは、私と彼だけのふたりきりだと思えて本当に嬉しかった。
 安心できた。
 ……そして、『私だけの』彼であることがどうしようもなく嬉しくて……涙が零れた。
 私だけの時間。
 私だけが許されている、すべて――……だと。
 私は決して、疑わなかったのに。

「……うーちゃん?」

 少し遠くから聞こえた、声。
 それが耳に入ると、身体が強張った。
 ……ふたりだと、思ってたのに。
 なのにそう思っていたのは、私だけだったらしい。
「……っ! おまっ……! なんだその格好!」
「ッ……!?」

 彼が振り返ったのと同時に彼女を見てしまったことを、心底後悔した。

 ……やっぱり、こなければよかったんだ。
 私は今日、ここに来たりしちゃ……いけなかったんだ。
「……や……」
 全身から血の気が引き、ぞくぞくと嫌な感情が身体を巡る。
 視線の先にあるのは、間違いなくあのとき彼に抱きしめられていた女の子で。
 ……あの子が“本当の彼女”、なんじゃないのかな。
 だって、おかしいでしょう?

 ただの知り合いが、バスタオル1枚で立ってたりしないじゃない。

 私が知らないこと。
 私が知らない人。
 ……私が――……。
「……っ……」
「ッ! 羽織ちゃっ……!!」
 あとずさったままの状態から、不意に身体の向きを変えてまっすぐ――……逃げるように走り出していた。
 遠くで何かやり取りをしていたふたりの姿は、当然最初から見れなくて。
 ……言葉だって、自分の大きすぎる鼓動にかき消されて何も聞こえなかった。


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