「――……というふうになる」
 いつもと同じ、3年2組の化学の授業。
 すっかりクセのついた教科書を机に広げたまま生徒たちを見ると、特に質問を持っている子はいないようだった。
 いよいよ、今月はセンター試験が行われる。
 ついでに言うと、卒業試験も今月末にはあったりして。
 何かと忙しいよな……1月って。
 そんなことを考えながら再び背を正し、黒板へ板書のために振り返る。
 ――……と、そのとき。
 あげた目線は、当然といえば当然の如く生徒たちへ向かうワケで。
 どうしたって目に入る、愛しい彼女。
 何やら一生懸命ノートを取っていて、その姿に一瞬動きが止まる。
 ……相変わらず、かわいい顔して。
 ついつい笑いそうになってしまうのを堪えながら軽く咳払いをすると、ふいに彼女がこちらを向いた。
 いつもと同じ、柔らかい表情。
 ――……うわ。
 思わず瞳が丸くなった。
 いつもならば、目が合っても大きなリアクションをすることなくすぐに彼女は俯いてしまう。
 いや、まぁ、口元に笑みくらいはあるけれど。
 ……でも、今日は違っていた。
 珍しいことに、目を合わせたままで笑ったのだ。
 しかも、いつもふたりきりのときに見せてくれるような、あの、とろける笑みだぞ?
「……えー……と」
 持っていたチョークを危うく落としそうになりながら黒板に戻り、書こうと思っていた内容を必死に思い出してチョークを当てる。
 ……しっかりしろよ、俺。
 今は、授業中。
 つまり、仕事中だ。
 ……しかも、彼女との関係はバレたらマズいわけで。
 …………はー……。
「……えー。この化学式だけど――……」
 小さく深呼吸をしてから手を動かすと、ようやくいつもの俺らしいカツカツという音が響いた。

「……今度は、瀬尋先生なんだ」

 ――……そんなときだ。
 いつもは聞こえない物が聞こえたのは。
「……なに?」
 手を止めて振り返る。
 ――……だが、みな一様に首をかしげるだけで、答えは返ってこなかった。
 ……おかしいな。
 聞こえたはずなんだけど。
 ……まぁいいか。
 そんな彼女らに背を向け、再び黒板に向かう。
 …………にしても、だ。今度は俺……ってのは、どういうことだ?
 それがどういう意味なのか、まったくわからない。
 身に覚えもないし。
 などと、授業とは別のことを考えながらも手が動くのは、少し有難いな。
 俺、結構器用かも。
 ふと、そんなことが頭に浮かんだ。

 授業を終えたあと。
 生徒たちをすべて見送ってから準備室に戻り、椅子に座る。
 やはり気になるのは、先ほどのこと。
 『……今度は、瀬尋先生なんだ』
 その言葉は、まるで次のターゲットにでもされたような印象を受ける。
 今度ってことは、前もあるってことだよな。
 顎もとに手をやりながら椅子にもたれると、目の前に座っていた純也さんが苦笑を浮かべた。
「どーした? そんな顔して」
「……あー。いや、なんか……さっきの授業でちょっと気になること言われたんすけど」
「気になること?」
「ええ」
 どうやらその言葉に興味を惹かれたらしく、彼が頬杖を解いてこちらに向いた。
 その顔は、どこか楽しんでいるような感じもする。
「“今度は瀬尋先生なんだ”、って言われたんですよ」
「誰に?」
「……いや、それがわかんなくて……」
「……ふむ」
 不思議そうな彼に首を振ると、視線を外して椅子にもたれながら両手を頭の後ろに組んだ。
 今度……ねぇ。
 何が今度なんだろうな。
 椅子にもたれると、自然にため息が漏れる。
「……祐恭君、何か恨みでも買ってるんじゃないの?」
「えぇ?」
 にやっとした笑みで何を言われるのかと思いきや、そんな。
 ……ひでぇ。
「いくら俺だって、ンな生徒から恨み買うようなことしてないっすよ?」
「どーかなー? ほら。そういうのって、自分じゃわからないだろ?」
「……いや、まぁ……そうっすけど」
「案外、わかんないよ? 祐恭君、彼女にいろいろな意味で手厳しいから」
「…………。いや、それとこれとは関係ないっすよ」
「あはは。まぁね」
 危うく、素直にうなずいてしまう所だった。
 ……ったく。
 別に、俺が彼女に手厳しいのは今に始まったことでもないし。
 ……って、だからそれは関係ないんだって。
「でも、気のせいとかじゃないの?」
「……んー……そういう感じでもなかったんですけどね」
「そう? まぁ、気にしないほうがいいよ。疲れるし」
「……そうっすね」
 苦笑を浮かべて首を振った彼にうなずいてから立ち上がり、久しぶりにコーヒーをカップに注ぐ。
 もしかすると、彼の言う通り気のせいかもしれないし。
 疲れてるのかもな。
 少し熱めのコーヒーを含むと、小さなため息が漏れた。


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