「こういう学校行事って、嬉しいけど……椅子は用意してほしいわよね」
 自分の普段使っている椅子を持ちながら絵里がぼやくと、羽織も同じく苦笑を浮かべた。
「そうだねー。……めんどくさいかも」
 いつものことだが、入学式や卒業式といったメインイベント以外は、生徒は自分の椅子を体育館へ持参しなければいけない。
 まぁ、椅子がなければ床へ直に座らなければいけないので、それを考えればまだいいとは思うのだが。
 ぞろぞろと歩いていく生徒たちは、誰もがふたりと同じように椅子を持っている。
 階段と体育館への通路で多少混雑を見せたが、あとは特に問題もなかった。
 今日は、ここ神奈川県立冬瀬女子高等学校の創立記念日。
 創立記念日となると休校である場合も多いのだが、この学校は違っていた。
 進学校だからということが関係しているのかどうかはわからないが、授業がないだけで学校にはいつもと変わらずにこなければならないのだ。
 毎年、体育館で何かしらの催しが行われるのだが、今年は映画鑑賞らしい。
 映画は羽織とて嫌いではないし、少し楽しみというのがあるため、絵里よりはずっと嬉しそうな顔。
 だが一方の絵里はというと、字幕映画は死ぬほど嫌いと自負するだけあって、今日の演目を聞いてからずっと浮かない顔だった。
 去年は地元の劇団による演劇だったので、もちろん日本語だし、なんの苦労も心配もなかったのだが……。
「……ヤバい。早くも寝そう」
「えー? いい映画だよ? ちゃんと見ようよー」
「あんたさぁ……なんで、1度見たことがある映画をそうやって楽しみにできるの?」
「いいものは何回見てもいいものだよ?」
「……あ、そう」
 絵里のげんなりした問いにけろっとした顔で答え、笑顔を見せた羽織。
 ……愚問だった。
 絵里は羽織にそんな質問をしたことを、少し後悔した。

 体育館に入ると、すでに重たい遮光カーテンがしっかりと引かれていた。
「……なんか、わくわくする」
「あはは。羽織らしいわね」
 電気はまだついているのだが、このなんとも言えない雰囲気はお互い好きだった。
 これから何かが始まるという予感がして、非常にいい。
 本日のこのイベントに限り、出席番号などは一切関係なく、ただクラスごとに並んでいればいいという日永のおすみつき。
 そのお陰か、普段一緒にいるグループごとに2組の生徒はすでに並んで座っていた。
 かなり後ろのほうになった絵里と羽織も2列に並び、椅子を下ろす。
 3年ともなると、位置が全体的に体育館の右寄りだ。
 ……ここからステージ上に張られたスクリーンを見るのは、少し首が疲れそうね。
 すっかり興味のない絵里は、そんなことを考えていた。
 季節も、いい時期。
 ブランケットやショールを持参してもいいということではあったが、さすがに体育館は寒いわけで。
 後方では、ジェットヒーターが大きな音を立てている。
「……ちょっとさぁ、温まりに行かない?」
「ん? いいよー」
 絵里が羽織を小突くと、こくんとうなずいた。
 それを見てから後方にあるヒーターに向かうと、そこにはすでに数人の生徒が暖を取っていた。
「はー……暖かい」
 空いていたスペースに身体を滑り込ませ、ほっとひと息。
 ヒーターは、勢いがあるだけに少し熱いと思えるほど。
 焚き火に手をかざすようにしてからヒーターへ背を向けると、向かいからポケットに手を突っこんだままの教師が歩いてきた。
「……さむー……」
「ちょっとー。ここ私の場所。先生はどこか探してよね」
「別にいいだろ? 床に名前が書いてあるワケじゃないし」
 絵里に言われて祐恭が渋い顔を見せると、くすくす笑ってから羽織が少し横にずれた。
「ありがと。……誰かさんとは違う、できのいい生徒で助かるよ」
「……悪かったわね」
 わざとらしく肩をすくめた祐恭は、先ほどまでふたりがしていたようにヒーターへ手をかざした。
「先生、冷え性なの?」
「違うけど?」
「……じゃあ、いいじゃない。大体、教師のところにはストーブがあるでしょ?」
「ほかの先生方が椅子に座ってる中、ひとりで当たるわけに行かないだろ」
「じゃあなおさら悪いじゃない。早く戻りなさいよ」
「……うるさいな」
 腕を組んで絵里を睨む彼の白衣を、ヒーターの焔の色がオレンジに照らす。
 羽織がその様子をまじまじ見ていると、ふいに視線が合った。
「……何?」
「え。あ、う、ううん。別に……」
「……なんだよ。気になるだろ?」
「なんでもないですってばっ」
 怪訝そうな祐恭に慌ててかぶりを振るものの、そう簡単に許してくれそうな雰囲気ではない。
 あれこれと別の話題を考えながら視線を這わせていると、あることが思いついた。
「あ。先生は、この映画見たことあるんですか?」
「これ? ……あぁ、まぁ。ほら、定番だろ」
「そう……なの?」
「学生に対する戒めには、もってこい」
 軽く肩をすくめたところで、絵里も羽織と同じように小さく声を漏らす。
 ――……ただし、しっかりといたずらっぽい顔をして。
「じゃあ、先生も泣いちゃうわけ?」
「は?」
「だってこれ、泣ける映画なんでしょ?」
「まぁ、そうだろうな。でも、俺は見たことあるし。……正直、こういう感動物は苦手」
「あー、わかるわかる」
 苦笑を見せた祐恭に、絵里がけらけらと笑いながら大きく首を縦に振った。
「……どういう意味だよ」
「ん? そのまんまだけど?」
 その言葉に祐恭は瞳を細め、大きくため息をついてからヒーターに背を当てる。
 明らかに、馬鹿にされたとわかって不服そうな顔だ。
「もういいから、席に戻れ」
「先生も戻ったら? ほら、ほとんどの先生たちもう席に着いてるわよ?」
「……うわ」
 絵里が指差したほうを見ると、確かにほとんどの教師がすでに着席していた。
 それを見て慌てて足を向け――……た途端、彼女らを振り返る。
「ま、せいぜい号泣するんだな」
「え? 先生もですよね?」
「俺はしない」
 苦笑を浮かべた羽織を軽く睨んでから、そのまま自分の席へと小走りで戻って行った。
 ……その後姿を見つめていた羽織を、ちょんちょんと絵里が指で突付く。
「ん?」
「いいの? 先生に言わなくて」
「……言えると思う……?」
「まぁね」
 苦笑を浮かべて首をかしげたのを見て、同じように絵里も苦く笑った。
 朝。
 突然できてしまった、彼に報告するべきかどうか迷うこと。
 ……だが、とりあえず今は内緒にしておくことに決めたらしく、それ以上何も言わなかった。

「……いい映画だったね」
 スタッフロールも終わって館内に明りがつくと、羽織が呟いた。
「うん。すごい泣けた」
「でしょ?」
 赤い目で笑う羽織に絵里もうなずき、大きく伸びをひとつ。
 本日の映画は、『マイフレンドフォーエバー』。
 恐らく、『泣ける映画は?』と聞かれれば、ほとんどの人間が挙げるであろう。
 性に関する問題を取りただされる中、やはりこの手の映画を学校側が選択するのもうなずける。
 共学ではないために性教育を扱う時間はほとんど設けられていないが、1番必要な年齢ろう。
 特に、“エイズ”という恐ろしい病気に対して間違った知識を持っている人間がいないとは言えない、生徒たちには。
 命の尊さと、病気に対するしっかりとした知識。
 それらを考える、いい機会になるのだから。
 この映画は、羽織も以前見たことがあり、そのときも涙した。
 話の起こりも結末も知っているが、やはり泣ける物は泣ける。
 ――……だが、以前。
 祐恭といるときにもこれをスカパーで放映していたのだが、彼は心底嫌そうな顔をした。
 相変わらず、『感動』とか『泣ける』とかいう映画は嫌いらしく、露骨に表情にしめす。
 それを羽織も知っているから、あえて強くは言わないのだが。
 ……先生も泣いたのかな。
 ここからは見えない教員席に顔を向けてから、自然とそんなことが浮かぶ。
「……あー、もうお昼回ってるんだ。どうりでお腹空いたー」
「だよね。このあと、どうする?」
「なんか、純也は近所へ食べに行くとか言ってたけど……」
 椅子にもたれて絵里が呟くと、ぱっと顔を明るくした。
 その顔はまるで『いいこと考えた』とでも言わんばかりのモノ。
「ゴチってもらうか」
「……いいの?」
「いいのいいのっ。どーせ、純也が行くのは安くてうまい店なんだし」
「もー。それはいいことなんだよ?」
 絵里の言葉に羽織が苦笑を見せると、教頭が1年1組からの退場を命じていった。
 羽織たちの順番がは、もう少しあと。
 さすがに体育館の入り口3箇所がすべて解放されているが、まだまだかかりそうだ。
「じゃあ、HR終わったら実験室行ってみましょ」
「そうだね」
 絵里の言葉で羽織もうなずき、椅子から立ち上がって順番を待つことにした。
 その間も、前後の友人らが映画の話題を持ちかけてくるので、話には困らない。
 みんなも同じように涙し、そして考えることになった点は共通のようで。
 今回の演目は、学校の計らいにしてはいいものだったと素直に感じた。

 HRを終えてバッグを手に、羽織と絵里は実験室に向かう。
 途中で、同じ方向へ歩いていた祐恭も、連れ立っていったが。
「先生、泣いた?」
「俺が? ……泣くわけないだろ」
「やだー。冷血人間がここにいる」
「……うるさいな」
 絵里のわざとらしい声で瞳を細めると、彼は大きくため息を漏らした。
「いいんだよ。ああいう映画は『よかった』っていう感想があれば。男がほいほい泣いてどーする」
「先生って、泣いたことないの?」
 眉を寄せた絵里に、祐恭が口を結ぶ。
 その顔は、いかにも呆れた顔だった。
「……あのな。人のことをなんだと思ってんだよ」
「だって、あの映画見て泣かないって……どうなの?」
 ねぇ? と絵里が羽織に同意を求めると、軽く祐恭を見てから小さくうなずいた。
 それを見て祐恭が何か言いたげに口を開く――……と、慌てたように彼女が付け足す。
「でも、ほら。ねぇ? 感想って、人それぞれだし」
「……フォローになってない」
「ぅ。……そうですか?」
 祐恭が再びため息を漏らしてから、準備室のドアに手をかける。
 すると、中からは数人の生徒の声が聞こえてきた。
 祐恭を先頭に入っていくと、そこにいたのは化学部の面々。
 3年も、2年も混じっている。
「あ、絵里ー」
 その中のひとりが絵里に気付くと、満面の笑みを浮かべた。
 ちょうど、昼食をどうするかで話していたらしい。
「絵里たちも、一緒に行かない? そこのファミレス」
「……んー。まぁ、いいけど?」
「じゃあ、決まりー。先生たちも行きますよね?」
 くるっと振り返った先には、嫌そうな顔をしている純也と祐恭。
 明らかにそれは、彼女の企みを察知しての物のようだ。
「どうせ、俺たちの奢りとか言うんだろ」
 ぎく。
 絵里と羽織が小さく反応を見せる一方で、言いだしっぺの生徒はけらけらと笑う。
「まさかー。自分のは自分で払いますよ。ね? ふたりとも」
「あ、当り前じゃない。そこまで依存しないわよ」
「もちろんっ」
 ぶんぶんと首を振るふたりの姿は、それはもう明らかに不自然で。
 顔を見合わせてから、互いに苦笑を見せた。
「奢らないからな」
「はーい」
 純也の声で彼女が手を挙げると、それを合図にそれぞれが準備室から廊下へと出て行った。
 絵里と羽織も貴重品以外は置いたままにし、身軽な格好であとを追う。
「……奢らないぞ」
「なんでよ。別にいいでしょ? 家計は一緒なんだから」
「そうは言っても、これは別だろ? 自分の食ったモンくらい自分で払え」
 眉を寄せて小声で呟いた純也を絵里がキッと睨むと、両手の人さし指で小さく“バツ”を作った。
「ケチ」
「なんとでも言え」
 ふん、と鼻であしらい、あしらわれるふたりのやり取りを見ていた祐恭と羽織は、当たり前のように顔を見合わせて苦笑を浮かべた。


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