「ね……ダメだよ、やっぱり」
「……何言ってんだよ。いーじゃん、別に」
「っ……よ、よくないってば、やっぱり!」
 少し離れた向こうから聞こえてくる、ぼそぼそとくぐもった話し声。
 つい、じゃなくても聞き耳が立つ。
 ……誰の声だ?
 いや、それよりも。
 どうして、こんな場所でそんなやり取りをしているのか。
 明らかに今は、授業中で。
 当然のように、この第2校舎もシンと静まり返っている。
 だが、低い男の声と違って、幼さの残る声は明らかに女生徒である気がした。
「っ……やっ……あはは、くすぐったいよぉ」
「……たく。相変わらず感じやすいなー。お前」
「だってぇ」
 揃いも揃って、くすくすという笑い声を含んだ声。
 ……うわ。何してんだよ、こんなトコで。
 階段の踊り場という誰か来てもおかしくない場所から聞こえ続けている相変わらずな声。
 そこを半ば見上げるようにして壁際に背を当てたまま、出るに出れない状況と化した現在。
 ……めんどくさいことになったな。
「…………」
 わずかに顔を覗かせると、すぐそこには校内における我が城とも呼べる化学準備室が見えた。
 そして、その奥には実験室も。
 ……しかし。
「ん、やだぁ……」
「……いーじゃん。ちょっとだけだって」
 相変わらず続いている、男女の何やら怪しげな会話。
 何をしてるのかは、見てないからわからない。
 だが、雰囲気からして……なんとなく、わかる。
 今俺がいる2階から、3階に上がるための踊り場が今、えらいことになっている。
 だが、どうしても3階に行きたいんだよ。俺は。
 もちろん違う階段から上がって――……ということもできなくはないのだが、音楽室へ向かうにはこの階段が1番の近道。
 だからこそ、逆に言えば音楽の授業以外ではほとんど使われない場所。
 なので、それを知っている者ならば、教職員に限らず……ここは格好の場所と呼べるんだろう。
 授業をサボって、フケ込むためには。
「…………」
 どうしたモンか。
 多分、すぐそこで――……ってワケじゃないと思う。
 そりゃそうだ。
 いくら授業中で人通りがないとはいえ、それは絶対ではないから。
 このまま何ごともなかったように素通りしても、もしかしたら互いにバレないかもしれない。
 だが……なんとなく、嫌な予感がする。
 ここを『通るな』と言っている自分の内の声が聞こえる、というか。
「…………」
 瞳を閉じてから、抱えていたファイルを持ち直す。
 ……仕方ない。
 いつまでもこんな所にいるわけにはいかないし、とっとと過ぎるか。
 そう決め込むように深呼吸をし、改めて瞳を開ける。
 決意の表れ。
 ソレだったのかもしれない。
「…………」
 背を正し、なるべく――……というか、完璧にそちらを見ないよう歩を進める。
 ……余計でかつ面倒くさいことに巻き込まれるのは、御免だ。
 根っからの性分が現れたせいか、特にそう思った。
「や、んっ……!」
「……っ……」
 いきなり聞こえた、高い声。
 おかげで、せっかくこれまで我関せずを貫いていたのに、つい、反射的にそちらへと顔が向いてしまった。
 ――……とき。
「……な……っ……」
 バサバサっと、持っていたファイルから書類が零れ落ちた。
 だが、それでも目線は動かない。
 ……何……?
 瞳と同時に唇が開き、思わず喉が鳴った。
「な……にしてるんだよ……ッここで……!!」
 自然と握りしめた、拳。
 ぎゅっと力を込めると、痛いほど爪が手のひらに当たる。
 2階と3階の間の、踊り場。
 大きな窓から降り注ぐ光を背に座っているのは、紛れもなく――……。

「……っぁ……せ、んせ……!」

 彼女本人に、間違いなかった。
「どういうことだ……!」
 自分でも信じられない出来事。
 なのに、怒りとか憤りとか、そんなモノよりもずっと先に驚きが1番強く出る。
 ……少しだけ。
 ほんの少しだけ制服が乱れ、肌が普段よりずっと露出して見えた。
 ……何してる。
 ここで今、何をしてるんだ。
 そう怒鳴りつけそうになるのを堪えて彼女のすぐ隣へと視線を向けると、いつしかそれは睨みへと変わっていた。
「……なんだ」
 まるで、嘲るような声が聞こえた。
 彼女に触れている大きな手のひら。
 だが、それを動かして見せ付けるように髪を撫でた男の顔は、逆光でよく見えない。
 ……むしろ、それがもしかしたら俺にとっての幸運であったのかもな。
 見なければよかった。
 だけど、知らないほうがよかったとは思わない。
 そんな、俺にとってのまさに裏切りと呼ぶしかない相手だったから。

「ッ……優人……!!」

 立ち上がって、光が遮られたとき。
 黒い影のまま俺を見下ろしたのは、ヤツに違いなかった。
「……なァんだ。てっきり、知らん顔してそのまま行くと思ったぜ」
「なんだと……!?」
 彼女の腰を抱いて立ち上がり、首をかしげてニヤッとヤらしい笑みを浮かべる。
 それは、挑発以外の何ものでもなく。
 思わず持っていた物を投げ捨てるようにしてから、ヤツへと階段を踏み越していた。
「どういうことだ……ッ……!!」
「っせんせ……!」
「お前ッ……どういうつもりだって聞いてんだろうが……!!」
 両手で掴みかかり、ぎりぎりと力を込める。
 顔を近づけ、思い切り睨みつけながら。
 だが、優人はまったく動じない様子で小馬鹿にするような笑みを浮かべた。
「……なんだよ。ずいぶん乱暴だな」
「ッ……るさい!! だいたいお前……こんなところで何してる……!」
「何、って? 別に。見たまんまっつーか……まぁ、お前の想像した通りだけど?」
「んだと……!?」

「先生お願いっ……やめてください……!」

「っ……!」
 まるで、かばうかのような態度。
 思わず、握った拳をそのまま――……というときに手を捕まれ、瞬間的に身体が強張った。
「お願い……っ……優くんに酷いことしないで……!」
「な……っ」
 思ってもなかった言葉を告げられ、愕然とした。
 身体から力が抜け、掴んでいた優人の胸元が自由になる。
「……サンキュ、羽織」
「…………」
 何がどうなっているのかまったくわからず、ただただ呆然と光景を見つめる。
 ……何……?
 どういうことなんだ……?
 事態が飲み込めず、動揺ばかりが自身を動かす。
 ……だが、しかし。
 俺に潤んだ瞳を見せて必死に優人を庇った彼女は、彼に肩を抱かれたまま俺をまっすぐに見つめた。
「……どういうこと?」
 至極、落ち着いた声で。
 それが普段よりもずっと冷ややかなだとはわかったが、仕方ないだろう。
 ……なんでだよ。
 ただ、そればかりでツラい。
「……先生。……ひとつ聞いてもいいですか……?」
「何?」
 質問、だろう。
 だが、彼女のその問いには低い返事しか出ない。
 これまでどころか、すべてを否定された気分だ。
 裏切りとか、そういう問題じゃない。

「……先生は私のこと……どれくらい好きですか?」

「え……?」
 少し、思いつめたような表情に思えた。
 今にも泣きそうな顔で告げられた言葉は、これまで彼女に言われたことがなかったもの。
 ……だが、それと今の状況と何が関係あるんだ?
 正直、突拍子ないように感じる。
「俺は……」
 ぽつりと呟いた言葉。
 そのあとは、どう続ければいい?
 彼女が何を意図しているのかまったく汲み取れず、視線が1度落ちた。
「……海よりも深くそれこそ山よりも高く――……とでも言えばいいか? でも、実際は何に形容できるものじゃない」
 まっすぐに彼女を見つめ、静かに言葉を並べる。
 ――……途端。
 彼女は、これまで見せていた表情を一層曇らせ、涙を瞳に浮かべた。

「優くんは……月くらいって言ってくれたのに……!」

 ぽろっと涙が零れたのを見て、思わず瞳が丸くなった。
「ま、所詮はそんなモンだよな」
「なっ……!?」
「そーゆーコト。結局は、それが俺とお前の違いってことだ」
「ちょっ……! 待てよ!! 優人!!」
 目に手を当てた彼女の肩を抱き、くるりとこちらに背を向ける彼。
 慌てて手を伸ばすものの、届くはずもなく。
 ……なんだよそれ……!
 まったく納得できない内容で、慌てて追いかけるしかできない。
「……あ、そうそう」
「ッ……なんだよ……!」
 あと、少し。
 そんなとき、何かを思い出したかのように優人が足を止めて振り返った。
 そして――……。
「……っ……」
 まるでトドメを刺すかのように、嘲笑った。
「お前、知らないのか?」
「……何をだ」

「従兄妹同士は結婚できるんだぜ?」

「ッ……!」
 そのときの気持ち。
 それを形容するとしたら、いったいどれほどの量の悪態を遣わなければいけないだろう。
 激しく、荒く、そして酷く汚い言葉。
 ……だが、きっとそのどんな言葉を用いたとしても、正確に俺の心情を表すことなんてできなかっただろう。
 なぜならそのとき――……。
「……ッ……!」
 俺にとって絶対だと信じ切っていた彼女が、優人みたいに笑うのが見えたから。


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