もう、何もかもが限界レベル。
 ギリギリもいいとこ。
「……なんなんだよ、くそ……っ」
 何を恨むとか、誰のせいとか。
 そういうことじゃないんだろうが、それでも、なんだかものすごく呪いたい気分だ。
 今日1日、朝起きたときからもうずっとそうだった。
 まるで、禍々しい何かに見舞われているんじゃないか。
 そう錯覚するほどに、めまぐるしい時間。
 ……もう嫌だ。
 本気で嫌だ。
 これ以上外にいたら、きっと何かもっと悪いことが起きる。
 そう思ったから、家に篭ろうと本気で思ったのに。
 ……なのに。
「…………ちくしょうが……」

 それすらも、許されないと言うのか。

「…………」
 見上げれば、高くそびえる鉄筋コンクリートの塊。
 いくつかの窓には光が灯っていて、普通の人間は、普通の時間を過ごしている。
 ……それがどうだ。
 俺はといえば、やっと帰り着いたマンションの前で――……恨めしそうにそれを見つめているだけ。
 さっきまでは、エントランスに入っていたんだが……通り過ぎる同じマンションの住人から、ものすごく不審者扱いの眼差しを受けていたので、外に出て来たワケだ。
 今日は、ただでさえ運の悪い日。
 それこそ、通報だってされかねない。
 ……なぜ、中に入らないのか。
 そんな理由を、わざわざ口に出してやりたいとも思わないが――……ひとことで片付けられるほどチープな理由。

 家の鍵はどこへ。

 題するならば、そう言ってやりたい。
「……さむ……」
 コートのポケットに突っ込んだままの両手を、ぎゅっと握り締める。
 今日に限って、顔見知りの管理人は留守。
 お陰で、泥棒と同じ扱いしか受けられない。
 ……それにしても、外ってこんなに寒いんだな。
 普段、どこもかしこも暖房に包まれてるから、体感することなんて滅多になかった。
 そのせいか、なんだか一気に年を取った気分だ。
 学生のころなんて、暖房器具が一切ないあの弓道場ですらも寒いなんて思わなかったのに。
「…………」
 今日は、この冬一番の大寒波が来てるとかで、空もどんよりとした重たい雲が張ったまま。
 ……そういや、マッチ売りの少女とかって話があったが……今の俺なら、確かにうなずけるかもしれない。
 今ならば、きっとライターかマッチの火ですらも、温かいと感じるだろうから。
 家に入れないのならば、車の中で待てばいい。
 そんな考えは、俺だって当然持った。
 だが――……知ってるか?
 エンジンのかかってない車の中ってのは、死ぬほど寒いモンなんだってことを。
 そりゃ、外に比べればまだマシかもしれない。
 だが、1日中日の当たらない屋内で、しかも冬。
 ……寒いんだよ、かなり。
 かなりどころか、めちゃくちゃ。
 エンジンがかかるんなら、それこそ走らせてどこにでも避難できる。
 ……だがしかし。
「……あーもー……」
 かろうじて風を防げるマンションの一角にもたれると、ため息が重たく漏れた。
 確かにポケットへ入れたはず。
 ……いや、絶対だと言っていい。
 そりゃ、確かにいつもよりは慌しかっただろう。
 だが、それでも間違いなく家の鍵を閉め、エレベーター……じゃなくて、階段を駆け下りて…………車へ。
 ……動かなかったけどな。
 それでもドアを閉めたのは確かに覚えてる。
「…………」
 音もなくスマフォで時間を確認すると、それこそ夕方の時刻をとうに過ぎている。
 特に変わった点もない、普通の、画面。
 音もなく刻まれる時の数字だけ見ていると、なんだか無性に寂しくなった。
 情けなくも、こう……自分があまりに惨めな状況にあると、どうしても弱気になるモンなんだよな。
 ひとりきりってのもあるだろうが、非常に……切ない。
 温もりが恋しい。
 特に――……言うまでもなく、優しくて温かくてかわいくて健気な、あの、俺の彼女の。

「先生っ……!」

 鶴の一声。
 ……いや、むしろ天の声。
 それが聞こえた瞬間、世界が色を取り戻した。
「羽織ちゃん……」
「ごめんなさい、遅くなって! つめた……っ。先生、大丈夫ですか……!?」
 信じられないのは、自分の目。
 だけど、やっぱり嬉しいのがまず最初にあって。
「……え……?」
「ありがと……。……すげー……助かった」
 頬に当てられた彼女の温かい手を掴み、両手を重ねる。
 ずっとずっと、待ち焦がれていた相手。
 ……彼女だけは、ホンモノ。
 実感しているのは確かなのに、それでも尚、彼女に触れていたかった。
 もしかしたら――……本気で、参っている証拠なのかも。
「……ごめんなさい……」
「え?」
「もっと早く来れれば、こんなことにならなかったのに……。風邪なんか、引いたりしたら……っ」
 謝るのは、俺のほう。
 なのに、どうして彼女がこんなにつらそうな顔をするのか。
「っ……」
「……ごめん。全部俺のせいだな」
 運が悪いとか、そういう話以上の問題。
 今日起こったことすべてと、そして今、俺の目の前で起きていること。
 それはやっぱり……言うまでもなく、俺のせいなんだろう。
 彼女が今、こんな顔をしているのも。
 頬に片手を当てると、惜しみない温もりが伝わって来た。
 冷たいのは、俺の手。
 今日はもう……どんなときも、彼女に何かプラスになるようなことをしてあげられない。
「そんなことないですよ!」
「……いや、でも……」
「本当ですってば! ……どうしたんですか? 先生らしくないですよ?」
 そう言った彼女は、さらに心配の色を濃くさせた。
 俺らしい、俺らしくない。
 それは俺にはわからないことだが、だからこそ彼女がわかってくれる。
 気づいてくれる。
 これは……やっぱ、幸せの証なんだろうな。
「ごめん。なんか……ちょっと、疲れきってるのかも」
「先生……」
「でも、こうして羽織ちゃんが――」

 プップー

「………………」
「……ぁ……」
 無情に、なんかじゃない。
 ……むしろ、どっちかっていうと――……意図的な悪意を感じる。
 意識されてる、ものすごく計算づくされた嫌がらせを。
「……せ……んせぇ……」
 言われるまでもなく、顔はそちらへ向いたまま。
 同時にものすごく顔も引きつっていた。
「…………」
 じとじととした視線を向ける先は、まごうことなき瀬那先生の愛車と同じ白いセダン。
 少し離れた場所に停まっている、ヘッドライトを付けたままのアレ。
 ……つーか、おもいっきりハイビームだな。俺に向かって。
 もっとお手柔らかにしてくれてもいいじゃないか。
 感じ悪くクラクションを鳴らされ、にっこり笑えるはずがない。
 ……腹立つ。
 自分のためにも、言っちゃいけない言葉なんだろうがものすごく言いたい。
 声高に言いたい。
 あそこにいるのが例え――……あの、葉月ちゃんの父親だろうとも。
「……羽織ちゃん」
「は、はいっ」
「運転手、瀬那先生じゃないよね?」
「ぅ。……はい」
 そのときの俺は、どんな顔だっただろうか。
 少なくとも、歓迎してるってモノじゃないってのはわかるけど。
「あの、今日お兄ちゃんいなくて……ちょうどお父さんが帰ってきたんですけど……」
「……けど?」
「その……代わりに行くって言って……」
 それはもうまるで、子どもみたいに言い張って。
 ……彼女ならば付け足さないだろうから、俺があえて付け足しておこう。
 ライトのせいで顔こそ見えないが、どんな表情をしてるかはなんとなく想像が付く。
 きっと今、こうしてただ話をしているだけでも気に入らず、もしもここで抱きしめたりしようものなら――……まぁ、間違いなくドアを蹴り飛ばして出て来るだろうな。
 紛れもなく、アレは瀬那先生の車であって彼の私物じゃないとしても。
「えと……あの、そういうわけなので……」
「……帰るってこと?」
「っ…………ごめんなさい」
 一瞬、自分でも声が低くなったのがわかった。
 ただでさえ、今日1日であまり機嫌がよくない現在。
 せっかくの金曜だというのに、みすみす彼女を逃さねばならないなどとなったら――……。
「せ……せんせ……?」
「……嫌だって言ったら、どうする?」
「…………それは……」
 わかってる。
 そんなことをすれば、彼の手によって俺と彼女の関係がどうなってしまうか位は。
 だけど、差し出された彼女が持っているべきウチの合鍵を見たら、その手首ごと掴んでいた。
 悔しいし、簡単にはうなずけない。
 でも、解放しなければならない。
 葛藤というよりは……なんかもう、複雑を通り越していろんな意味で堪らない。
 がんばれと言われるのが、余計なお世話だ。
 なんせ、少なくとも今日1日に関しては、どれもこれも俺のせいだと思えることなんてひとつもないから。
 運が悪い。
 天命に見放されてる。
 人はみな好き勝手にそう言うだろうが、俺に言わせてもらえば違う。
 きっと、どれもこれもすべてが見えない何かによって必然的に起こされているとしか俺には思えなかった。
 ……それが例え、“責任転嫁”だとしか言われなくても。
「……ありがとう」
「あ……」
 瞳を伏せてから大きなため息をつき、彼女の手のひらから鍵をもらう。
 当たり前ながらも、俺のと同じ形の鍵。
 だけど、やっぱり違う……彼女だけの鍵。
「…………」
 まじまじとそれを見つめたまま握り締めていたら、再び無機質な……だけどものすごく感じの悪いクラクションがふたたび響いた。
「じゃあ……」
「ん。……わざわざありがとね」
「とんでもないっ!」
 鍵をポケットに入れると同時に小さな金属音が聞こえ、確かにそこへ鍵が入ったことがわかる。
 ……おかしいな。
 確かに、朝もこうして同じような音を聞いたはずだったのに。
「…………」
 車に向かうまでに何度もこちらを振り返り、何度も頭を下げる。
 そんな彼女を見ていたら、少しだけ笑みが浮かんだ。
 ……何も、そこまで恐縮してくれなくていいのにな。
 むしろ、その半分くらいの気遣いを、運転席に乗ってる彼にわけ与えてやってもらいたいモンだ。
「……はー……」
 バタン、と助手席のドアが閉まるか閉まらないかの瞬間、車が有無を言わさずその場から走り去った。
 あの分じゃ、彼女はベルトを締めようとしていた途中だったはず。
 ……かわいい彼女に何かあったら、どうしてくれる。
 眉を寄せてからすでに遠く離れたテールランプを睨んでみるものの、もちろんそんな気持ちに応えてくれるモノはこれっぽっちもなかった。
「……雨か……」
 外階段に立ったままでいたら、頬に幾つかの水滴が落ちた。
 細かい、それ。
 どうやら、天気だけは俺の心情に同情でもしてくれるつもりらしい。
 ――……と、思った。

 ……ッツ……ッザアァアァァア……!!

「っ……!?」
 バケツをひっくり返したようなってのは、まさにこういうことだろう。
 ものの数分も経っていないのに、いきなり豪雨というか土砂降りというか。
 とにかく、天変地異の前触れなんじゃないかと思えるくらいのものすごい量が、俺に向かって降り注いで来た。
 ……もちろん、なんの躊躇もなく。
「なっ……んだコレ……!?」
 慌ててコートを翻しつつエントランスに向かい、ポケットから鍵を取り出す。

 ガショボッチャン

「……ぼ……?」
 途端、なんだかわからないが奇妙な音が後方で聞こえた。
 それは、例えるならば……そうだな。
 まるで、硬い物が硬い物にぶつかってから…………水中にでも消えたような……。
「……ッ……!!!?」
 一瞬にして、身の毛がよだつ。
 と同時に、瞳も見開いていた。
 音の源は、なんだ。
 そう思って鍵を差し込んだまま振り返った先には、なぜか入り口付近にできている深そうな水溜りにぼっちゃりと身を沈めている、愛用ウン年のスマートフォンが。
「うわっ、な……!?」
 ここから数メートル離れているにもかかわらず、きれいに滑り落ちたのか。
 はたまた、気づかないウチに手で弾いたのか。
 それとも……目に見えない何かで引っ張られたのか。
 理由はいかんともハッキリしがたいが、とにかく、水濡れ厳禁の精密機器がどっぷり水に浸かってるのだけは確か。
 慌てて駆け寄ると同時に拾い上げると、どこから出てくるのかわからないような量が、ぼたぼたと手のひらから零れ落ちた。
「な……んだよソレ……ッ!!」
 動揺から一転して、怒りがこみ上げてくる。
 バックアップを取るなんていう、器用さも慎重さもない我が性格。
 だからこそ、すべての番号やら住所やらアドレスやら何やらは、これに入れるだけの『ぱなし』生活だったのに。
 ……なのに……。
「…………ちくしょう……!!」
 俺が悪いのか。
 これすらも、俺が悪くて、俺のせいだと言うのか。
 当然のように電源が落ちて、何も映さない真っ黒い液晶。
 無理やり電源を入れようものならショートでもしかねないから、応急処置にもならないがハンカチでくるむ。
 …………が、しかし。
 こんなことをしても、何になる。
 これで電源が入ってさっきまでと何ひとつ変わらず使えるというならばまだしも、そんな保証はどこにもない。
 ……くそ。
くっそ…………!!
「っ……くそが……ッ! つぅ……!!!」
 ガンッと思わず壁に八つ当たりすると、当然のようにつま先に痛みが走った。
 ……あーーーもーー……!!
 今度は自分が悪いから、どうにもできない。
 それは、わかってる。
 だけど腹が立つ。
 矛盾というよりも……人は我侭だから。
「ちくしょう……っ!」
 もう、最低だ。
 こんな日なんて、消えてなくなってしまえばいい。
 ――……今日だけは、そう本気で思った。


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