「……ん?」
「あ。……ごめんなさい」
 ともにベッドへ入り、そのまま瞳を閉じようとしたとき。
 不意に、隣の彼女が笑った。
「……なんだか……いつもと逆ですね」
「…………そうだな」
「えへへ。……嬉しい」
 小さく呟いた彼女が、俺の頭を撫でた。
 一緒に寝てくれと言ったクセに、そういえば風呂に入ってなかったことを思い出して。
 やっぱりいいと丁重にお断りしたんだが、彼女は笑って『何言ってるんですか』と首を横に振った。
 ……汗臭かったらどうするんだ。
 などといろいろ理由を挙げてはみたんだが――……当然のように、彼女の返事はすべて『NO』。
 ひとりきりで寝かせられません、とまでキッパリ言われた。
 ……まぁ、それはそれでもちろん嬉しくないはずがないんだが。
「……早くよくなってくださいね」
「がんばるよ」
 間接照明を薄く付けたままだからこそ、目を開ければ彼女の表情が見える。
 穏やかで、温かくて。
 いつもより自分の目線が少し下にあるからかもしれないが、やけに彼女が母親のように見える。
 ……慈愛とか、母性とか……。
 なんだか、そんな感じだ。
「…………」
 これでも、家に帰ってからは普段の何倍もよく寝たはず。
 だが、ゆっくりと温かい手のひらで頭を撫でられていると、すぐに瞳が閉じて眠くなってきた。
 ……子どもと一緒だな。
 じんわりと手足が温まってきたのを感じて、まだ眠れる自分が少しだけおかしかった。
「……あ……」
「…………温かい」
「ぅ……なんか……くすぐったいですよ……」
「たまには、ね」
 もうすぐ落ちる。
 そう思ってか、自然に彼女へ擦り寄る格好になった。
 背中に手を回し、抱きついたままで――……胸元に頬を当てる。
 ……普段とは、逆。
 いつもだったら、こうして彼女が俺に擦り寄るのに。
「…………」
 だが、こうしてみないとわからないことも多いようで。
 しっかりと聞こえてくる鼓動の音と温かさとを感じていると、やけに落ち着くのがわかった。
 ……しかも、なんだかんだ言いながらも、彼女は俺を落ち着かせるかのように頭を撫でてくれてるワケで。
 ……うん。
 たまにはと言わず、これはこれでイイかもしれない。
 いろんな意味でこれからも使えそうだなと改めて思った。
「…………」
「…………」
「……お腹空いた?」
「っ……! もぅ、先生っ!」
「ごめん」
 微かに聞こえた音で呟くと、案の定怒られた。
 ……まぁいい。
 こういうやり取りも、彼女とならば悪くない。
「……え?」
「…………おやすみ」
「あ……。おやすみなさい」
 半分眠りかけた頭を呼び覚まし、薄っすらと目を開けて彼女を見上げる。
 穏やかな笑み。
 それを見れたことで、どれほど俺が落ち着くことか。

 ありがとう。

 改めて彼女に回した腕へ力をこめながら、しっかりとその言葉を胸に囁いた。

「…………」
 別になんの音が聞こえたワケでもなければ、誰かに起こされたワケでもない。
 ……のだが、いい加減身体も“もう十分”と感じたんだろう。
 なんの前触れもなく目が開き、眠気というモノを一切感じずに目覚めた。
「…………」
 昨日と、違う。
 なんかこう……すごくスッキリしたような。
 頭も別に痛くないし、どこか身体に変調があるワケでもない。
 多少はまだ喉が痛い気もしたが、それでも昨日に比べれば微々たるモノ。
 すでに、緩んで冷たさがまったくなくなったアイスノンを頭の下から引きずり出すと、やっぱり身体が素直に動いた。
 ……起きれるな。普通に。
 頭痛もなければ、ダルさもない。
 これはもう、ヤマを越えたと言っていいだろう。
 すべてはもちろん――……隣で、安らかな寝息を立てている彼女のお陰。
「…………」
 昨日眠りについたときと同じ格好で行儀よく寝ているのを見ると、自然に頬が緩んだ。
 少しだけ出ている肩に布団をかけ直し、そのまま……隣へと潜り込む。
 このまま起きてもよかったんだが、やっぱりちょっと寒いんだよな。
 ……それに、なんと言っても彼女より先に起きてこうしている時間が、結構イイもので。
 こういう時間、好きなんだよな。
 彼女に言えば、『意地悪』とか『ずるい』とか言われそうなものだが。
「…………」
 頬に落ちていた髪を耳にかけ、昨日彼女がしてくれたように頭を撫でてやる。
 ……愛の力は偉大。
 よく、難病を克服した人間の話なんかをテレビで見るが、大抵そういう結末があったりするんだよな。
 でも、今ならばわからなくはない。
 毎日彼女とこうしてるだけで、十分長生きできるに違いない。
「………あ」
 何度か髪を撫でていたら、ようやく思い出した。
 ……昨日の夜、風呂へ入ってなかったことを。
 大分汗もかいたし、できればさっぱりしたいところ。
 身体も自由に動くようになったし……ここはひとつ、彼女の寝ている間に済ませてしまおう。
 そう思ってからの行動は、割と早いもので。
 彼女を動かさないようにそっとベッドを抜けると、そのまま洗面所へと向かっていた。

「先生っ!!」
「……あ。おはよう」
「おはようじゃないですよ! もぅ!!」
 パタパタと音が聞こえたかと思いきや、すぐに彼女はこの場所を探し当てた。
 鏡越しに見えるのは、眉を寄せてちょっとだけ怒ってる感じのする彼女の顔。
 ……そういや、昨日はまるで反対の立場だったな。
 時間帯こそ違えど、今は俺が髪を乾かしているんだから。
「ダメじゃないですか! まだ寝てなきゃいけないのにっ……」
「大丈夫だって。もう熱も下がったし」
 本当は微熱までだけど。
 ……なんてことを言ったら、彼女に本気で怒られそうだからやめておく。
「でもっ! 治りかけが肝心なんですよ!?」

「それじゃ、朝からしようか?」

「…………は……い?」
 俺の隣に並んで直に見上げてくる彼女は見ず、鏡を向いたままにっこりと微笑む。
 言葉の、意味。
 そんなモノは、言うまでもなくわかってるはず。
 鏡に映った彼女が、微かに喉を動かしたのが見えたから。
「え……っと。え? 何を……ですか?」
「適度な運動」
「……え……」
 パチン、とドライヤーを切ってから彼女に向き直り、にっこりと微笑む。
 昨日とは違い、軽やかな動作。
 ……うん。
 これならば間違いなく、機敏にいろいろできそうだ。
「知ってる? 風邪引きそうだなーってときにヤると、免疫力上げてくれるんだってさ」
「なっ……何をですか……」
「……言わなきゃ分からない?」
 にっこり。
 壁に行き当たって行き場をなくした彼女に顔を近づけ、表情を笑みからいたずらっぽいモノへと変える。
 すると、途端に困ったような顔をしてから緩く首を振った。
「ああ、大丈夫だって。うつらないように、今回はキスしないから」
「えぇっ!? あ、のっ……! そ、そういう問題じゃ――」
「寂しいけど我慢するよ」
「やっ……! せ、せんせっ……!?」
「……まぁ、唇以外にはもちろんするけど」
「えぇええぇ!?」
 くっくと笑いながら洗面所をあとにし、慌てて追いかけてくる彼女にひらひらと手を振る。
 だが、すぐに隣へ来た彼女は、ため息をついてから俺を見上げた。
「なんでそんなに元気なんですか……」
「……そりゃあね。かわいい彼女が献身的に尽くしてくれたからさー」
「ぅ。……そ……それは……」
「ありがとう。お陰でこんなに元気になったよ」
 羽織ちゃんのお陰だね。
 言葉を続けながらソファにどっかり座ると、キッチンの入り口に立ったままドアにしがみついている彼女が乾いた笑いを見せた。
「よ……よかったですね……。っ……でも、だからってこれとそれとは話が――」
「一緒だって。……ほら。どうせだから、元気になったところをアピールしておかないと」
「いっ……!? いいですよ、そんな!!」
 一向にこちらへ来る気配がない。
 それを察知して、表情を笑みから口元を上げるだけにしてこちらから迎えに行く。
「いやいやいや。気にしないで」
「やっ、あの、そ、そうじゃなく――……っ……!?」
 途端、まるで危険を察知した小動物よろしく逃げようと身を翻したが、あとの祭り。
 8割方体力の戻った俺に、敵うはずがない。
 ……そうだよね?
 顔を覗き込んでからくるっと簡単にこちらを向かせてやると、まるで『もうダメ……!』とでも言わんばかりの表情で首を振った。

「羽織ちゃんまで風邪引いたりしたら困るだろ?」

 にっこりと笑いながら、同意を求めるかのように首をかしげる。
 思っていた通り、彼女は首を振ったままなぜか半泣きの顔を見せたが、気にはしない。
 ……あぁ、そうか。
 俺が元気になったのがそんなに嬉しいのか。
 なんて有難い彼女なんだろう。
 献身的に尽くしてくれて……これはこれは丁重なおもてなしをしなくては。
 逃げようとする彼女の手首を掴んで微笑むと、相変わらず必死に振り解こうと両手を振られた。
 ……相変わらず諦めが悪いな。
 身をもって俺の回復を確かめてくれればいいのに。
 ――……なんてことは、もちろん口が裂けても言えないけれど。
「何事も予防策ってね。……さ、一緒に遊ぼうか」
「え、やっ……! やぁあっ!?」
「さぁ。昨日のお礼をたっぷり利子付けて払ってあげよう」
「いっ、いえっ……あの! だから、そんなっ……!!」
「はいはい。いいから大人しく俺の言うこと聞きなさいって」
「やっ……! せ、せんせっ……! 先生っ!?」
 ようやく暖かい日の射してきたリビングを通り抜け、そのまま寝室へと彼女を連れ込む。
 ……うん。
 やっぱり――……8割と言わず、9割9分7厘ってところかな。
 微熱ごときで苦しむようなヤワな男にはできてない。
 それはもちろん自身が1番よくわかってるからこそ……やることがあるなら、やっておかねば。

 ……ちなみに。
 次にふたりでリビングに現れたのは――……お昼を目前に控えたときで。
 あぁ、俺って回復早いしまだまだ若いんだな、なんて我ながら誇らしかったワケだが……彼女はやっぱり疲れた様子でソファに座り込んだ。
 ……まぁ、何か言おうものなら怒られそうだから黙っておくけど。
 とりあえず『風邪引きそうになったらいつでも言ってね』とだけ伝えておくことにした。


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