「……ったく。どいつもこいつも……」
 悪態をつきながらベッドに入り、大きくため息をつく。
 散々『お前のために来てやったのに』などとホラを吹く孝之を追い返し、ようやく静寂を取り戻した我が家。
 ……あー。
 音がないのが、コレほど落ち着くなんて思わなかったな。
 寂しいなんて一瞬でも思った俺が馬鹿だった。
 ……ったく。
 アイツらに限って風邪を引くなんてことはないだろうが、万が一にでもあったときには、同じ仕打ちをしてやろう。
 ……ま、なんとかは風邪引かないって言うしな。
 当分の間はないだろうが。
「……は……ぁ」
 深呼吸してから寝返りを打つと、自然に瞼が下りた。
 ……眠い。
 それが、ダルさから来るのか精神的なモノかはわからないが、まぁ……どっちもだろうな。
 どちらにしろ、今日1日というより家に帰って来てからのほうがずっと疲れたことに変わりない。
「…………」
 日が落ちてから、だいぶ経つ室内。
 それでも明かりをつけようとすら浮かばないのは、やっぱり自分が参ってるせいか。
「……さむ……」
 布団をいつもより多めにかぶっているにもかかわらず、ぞくりとした寒気で身体が震える。
 ……あー。
 やっぱ、何か適当に食ってまで薬を飲むべきだったか……。
 まったく食べ物に関しては考えにも浮かばず、今の今まで何も食べてない状態。
 だが、だからと言って孝之の馬鹿が持って来た弁当なんぞ、見るのも嫌だがな。
 ……クソ。
 近い内に、何かしらの礼をしてやる。
 優人とふたりしてヤらしい笑みを浮かべてる姿が目に浮かび、眉が寄った。

 ぴんぽーん

「…………」
 そんなときだ。
 ……っていうか、“また”だな。
 特に音のない我が家に響く、高いチャイムの音。
「……………」
 『3度目の正直』という言葉がある。
 だが、『2度あることは3度』という言葉もある。
 ……どっち、か?
 そんなモンは、簡単に答えが出るワケで。
「……ったく」
 いい加減にしてくれと内心しっかり毒づき、再び寝返りを打って玄関に背を向ける。
 今はもう、さすがに彼女では……なんて甘い考えには及びもしなかった。
 2度も騙されてるからな。
 これでも、精一杯2度は期待したんだ。
 だが、案の定2度とも裏切られた。
 もう出ないぞ。
 ……そりゃまぁ……仏の顔もって言葉通り、もしかしたら今度こそ本当にホントかもしれないが。
「…………」
 そうは言っても先に勝ったのは眠気のほうで。
 ……ダルいし……なんか、疲れた。
「………………」
 しばらくしても2度目のチャイムがなかったこともあり、いつの間にか眠りについていたらしい。
 徐々に温まって来た身体で、一瞬『あ、寝るな』と自覚したのを最後に、記憶はそこでプツりと切れた。

 夢を見た。
 暖かい部屋で、薄着の俺が彼女とともにいる夢を。
 ……まぁ、夢とは言えないかもしれないが。
 そんな光景は何度だって経験してるからこそ、『夢』ではなくて『思い出してる』だけかもしれない。
 だが、途中で『そういえば、自分は具合が悪いんだったな』と思い出したので、夢だと思えたのかもしれない。
 覚醒夢、だっけか。
 自分で都合良く夢を操れるってヤツは。
 ……まぁ、なんでもいい。
 たとえ夢であっても、欲しいと思っていた彼女がそばにいてさえくれれば。
「…………」
 なんてことを考えていたら、夢の中で彼女が振り返った。
 いつも俺に見せるように、一瞬だけ瞳を丸くして……それから、今度ははにかんだように柔らかく笑う。
 ……相変わらず、かわいい子だな。
 夢の中でもリアルに再現されている彼女が嬉しくて、同時に、そこまできちんと記憶している自分が誇らしく思えた。
 温かくて柔らかい手を握り、ともに歩く。
 場所こそは定かではないものの――……隣には、彼女。
 眠る直前まで邪魔してきた優人と孝之は、影も形もない。
 ……あー……。
 やっと解放された気分だ。
 などと思いながら彼女を見ると、にっこり笑ってから両手を目の前に差し出した。
 そこには、一輪の花。
 名前はわからないが、小さくて、可憐で……甘い匂いがする。
 それを手にしようか――……というときに、彼女がにっこりと笑った。

「はい、先生。スタミナ丼と日本酒です」

 ――……満面の笑みで、その両手に例のブツをのせながら。
「っ……!!」
 がばっと跳ね起きることこそなかったものの、くわっと目が開いた。
 ……な……なんだ、今のは……。
 どくどくと激しく鼓動が高鳴り、同時に苦しいくらいの血流を感じる。
 満面の笑みで、例の弁当。
 匂いまでリアルに再現されていて、一瞬、胃がムカつく。
 …………はー……。
 何も、そこまで出て来なくても。
 ……まぁ、優人が持って来たほうじゃなくてよかったとは思うが。
 …………。
 ……いや、でも……その…………“彼女が”再現してくれるんであれば、それはそれで……。
「…………はー……」
 いろんな意味で、どっと疲れが出た。
 改めて布団をかぶり直し、ごろんっと寝返りを打つ。
「っ……!」
 するとそのとき、何かが目の前に落ちた。
 冷たさで目が開き、同時にびくっと反応する。
「……え……?」
 手で触れれば、さらに冷たいことを自覚できる――……濡れたタオル。
 それはまさに今額から落ちたらしく、触れていたとおぼしき部分は温かかった。
「…………」
 手にある、コレ。
 これはまさに、間違いなく……現実で。
「……まさか……っ」
 一瞬よぎった考えを確認すべく、慌てて身体を起こす。
 ――……と頭がフラついたが、それでもやはり……どうしても確かめたいという気持ちのほうが、どんなモノより勝っていた。
「…………っ……」
 冷たすぎる床に足が触れると、一瞬ピリッと痺れたような気がした。
 ……ホント、一気に弱ったな。
 自分が情けなくなる。
「…………」
 そろそろと足音を忍ばせ、ゆっくりと近づくのは寝室とリビングの間仕切り。
 リビングの電気は、煌々と付いている。
 ……俺がつけっ放しだったのか、はたまた――……なんて考えながら、開けた瞬間。
 暖かい空気が、何よりもまず肌に触れた。
「……あ……」
 途端に聞こえた、高い声。
 壁へもたれるようにして身体を支えながらそちらを見ると……案の定、とも言うべきか。
 そこには、私服の彼女自身がいた。
「具合はどうですか? ……あっ。何か飲みます?」
 ぱたぱたとスリッパの音を響かせてこちらに小走りで駆けて来ると、心配そうな顔で俺を見上げた。
 少しだけ震えているように見える、双の瞳。
 だが、俺が見つめていたことで何か勘違いでもしたのか、慌てたように首を横に振った。
「あのっ……ごめんなさい、勝手に入って……。一応チャイムは鳴らしたんですけれど……」
 ……なるほど。
 どうやら、3度目のアレは本当に彼女だったらしい。
 ……だったら、起きればよかったな。
 そうだという確信さえあれば、間違いなく這ってだろうと応対したのに。
「それで……何か食べられそうですか?」
 両手を所在なさげに組み合わせ、相変わらず不安そうに俺を見上げる。
 その、顔。
 柔らかい彼女特有の表情と、甘い声と。
 心底欲しかった――……温かい、彼女自身と。
 すべてが手を伸ばせばすぐここにあるのに、なぜか、手が出ない。
 ……なぜか……?
 そんなモンわかってるのに自分で問うなんて重症だな。
 もしかしたら、我侭な自分を納得させるための手段だったのかもしれないが。

「帰るんだ」

「……え……?」
「すぐ送るから、支度して。……俺も着替えるから」
「え…………えっ……!? せんせっ……!」
 自分でも驚いた。
 まさか、そんな言葉が出てくるとはな……。
 だが、裏腹というよりは、それが正当。
 ずっと欲しくてたまらなかった彼女にちゃんと言えるなんて、俺にしては上出来だ。
「っ待って……! 先生、待って……っ……待ってください!」
「……何?」
 追って来てくれた彼女を振り返らずに、寝室のクローゼットを開ける。
 明かりなしでモノを見つけるのなんて普段いとも容易いことなんだが、今日に限ってはどうもうまくいかない。
 一瞬、どれがジャケットかさえ見分けがつかなかった。
「どうして? っ……なんでですか……!」
 半分泣きそうな声。
 それがすぐ近くで聞こえて、一瞬言葉が浮かばなかった。
 ……だが、それじゃダメなんだよ。
 あくまでも、ケジメはケジメだと自分に言い聞かせなければ。
 愛しくて、欲しくて、ずっとそうであればいいと願い続けた存在。
 それが、今すぐそこにあって、手を伸ばせば容易に届いて……叶えられた願い。
 だが、そうじゃない。
 本当は、そんなこと思っちゃいけなかった。願っちゃいけなかった。
 ……そうだろ?
 今この時期が彼女にとってどれほど大切かなんて、彼女以上に俺が知ってるんだから。

「受験生に風邪を引かせるワケいかないだろ?」

 ひと息ついてからクローゼットにもたれ、彼女を見る。
 すると、リビングから入って来る光を背にした彼女の表情が見えた。
「……だから」
 一瞬、そのせいで言葉に詰まる。
 わかってるんだぞ?
 彼女が、俺を心配してくれてるってことは。
 わざわざここまで来てくれたのは、間違いなく俺のためだってことは。
 ……でも、それに甘えてどうする。
 いつだって周りに甘えさせてもらって、どんなときもどんなことも大目に見てもらってきた。
 だけど、そのままじゃダメなんだよ。
 俺は教師で、彼女は教え子で。
 まだ進路の決まってない彼女だからこそ、ちゃんと目標を定めて欲しい。
 それは、約束。
 誰と交わしたわけでもないが、きっと俺の周りにいるすべてのことを受諾してくれている多くの人に対するモノに違いない。
「……心配してくれて、ありがとう。……嬉しいんだよ? もちろん」
 今にも泣きそうな彼女の頭を撫でてから、その頬に手のひらを滑らせる。
 普段ならば俺よりもいくらか温かいその頬が、今はひんやりと心地いい。
「……だけど、受験生に風邪をうつすわけにはいかないだろ? ……それは、わかるよね?」
「それは……っ」
「大丈夫だよ。……俺は、大丈夫だから。だから、有難いけど今日だけは頼むから帰ってほしい」
 今送るから、と続けてからジャケットを手にし、改めて彼女に向こうと――……した途端。
「……っ」
「待ってください……!」
 いきなり、後ろ向きに抱きつかれた。
「……待って、先生。私の話も聞いてください!」
 わかってる。
 ……なんてこと、言えるはずがない。
 だが、もしかしたら言ったほうが良かったんだろうな。
 というよりも、それこそが『正解』。
 なのに……やっぱり、人間正直なモンで。
 ずっとずっとそうであればイイと願っていたからこそ、そう容易く手放すことができない。
 我侭なモンだな。
 口ではなんだかんだ言っても、結局はそばに置いておきたくて堪らないんだから。
「先生が私を心配してくれるように……私だって、先生が心配なんです」
「……でも、それは――」
「先生がひとりでつらい思いしてるなんて……いやなんです……! だから……だからっ……!」
 ぎゅっと手に力がこもり、痛いほど彼女の気持ちが伝わってくる。
 それがつらくてか――……はたまた、自己満足か。
 クロゼットにもたれるようにして振り返ると、彼女がまっすぐに俺を見上げた。
「……せめて、今日と明日だけ……。何もできることはないかもしれないけれど、でもっ……でも、それでも……そばにいさせてください」
 緩く首を振る彼女は、それこそ懇願そのもの。
 言うまでもなく『どうか、お願いだから』とねだられているような気がして、何も言えなかった。
 ……確かに、気持ちはわかる。
 もしも逆の立場だったら、うつるうつらないなんてまず考えないから。
 そんなことより、ひとりで苦しんでる彼女を放っておけるはずがない。
 自分はいいから、それよりも彼女を。
「…………」
 ――……確かに、俺もそう考えるから。
「……わかった」
「っ……!」
「ただし、少しでも変調が見れたらすぐに帰ること。……わかった?」
「はいっ……!!」
 途端、ぱっと彼女の顔が輝く。
 ……この瞬間は、そりゃあ、好きだ。
 ゲンキンだなと笑ってもいいところだが、むしろそれは俺のほう。
 ……ゲンキンなヤツ。
 口ではああ言いながらも、それはすべて――……きっと彼女ならば断ってくれる、と心のどこかで思っていたから。
 だから、強い口調で言えたんだ。
 本当は、違うのに。
 ずっとずっとそばにいてほしくて……誰よりも欲しくてたまらなかったのに。
「……っ……せんせ……!?」
「はぁ………ありがと……」
 体重をかけるようにもたれ、そのまま抱きしめる。
 普段は暖かい彼女のセーターも、温もりも……何もかも。
 薄いパジャマ越しに伝わってくるそれらが、ひどく愛しくて、ひどく心地いい。
「先生っ……すごい熱!」
「……かも……」
 ひたり、と額に当てられた彼女の手のひらがあまりに心地よくて、つい、瞳が閉じた。
 弱気になってた、ってのも正解。
 そして、ワザと強がったというのも。
 ……全部、自分のためだ。
 相変わらず、俺はズルい。
 でもまぁ……今さら仕方ないか。
 “最初”の時点ですでに、どんな手を使ってでも彼女を手に入れたいと思ったんだから。


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