「……疲れた」
「だなぁ……」
 いつもより長引いてしまった学年会議。
 受験シーズンに突入していることもあって仕方がないとは思いながらも、ふたりは心底疲れた顔を見せていた。
 3年の副担任に就くというのも、なかなか楽じゃない。
 準備室に戻って帰り支度を整えながら、純也は窓の外を眺めていた。
 ……今日のメシ何にしようかな……。
 思わず顎に手を当てて考え込んでいると、祐恭が小さく笑う。
「ん?」
「そんなに深刻な悩みなんすか?」
「え。俺、そんな顔してた?」
「ええ。なんか、すげー考えてるって感じですけど」
「……いやー。今日のメシ何にしようかなーって考えてたんだけど」
「あはは」
 毎度毎度、自分は献立でそんなに苦労している顔を見せているのかと思うと、我ながらおかしくなった。
 彼の彼女である羽織ちゃんのように絵里も料理が得意だったら、こんな苦労はしないで済むのだが。
「祐恭君は、メシどうすんの?」
「んー……まあ、どっかで適当に」
「いいねぇ。なんか、独身って感じ」
「純也さんだって一緒じゃないっすか」
「いや、ほら。俺の場合は子守りがあるから」
「……そんなこと言って。バレたら怒られますよ?」
「あはは。かもな」
 いたずらっぽい笑みを向けられて、つい絵里の顔が浮かぶ。
 ……今ごろくしゃみしてるかも。
 なんてことを考えながら準備室に残っていた教師にあいさつをし、互いに駐車場へと足を向けた。
「この前買い物行ったときさ、同じホイール履いてるヤツがいて。しかも、同じ車でさー。……なんか、ヘコむよなー」
「あー、気持ちはわかるかも」
「だろ? せっかく履き替えたばっかりなのに同じことしてるヤツ見ると、また換えたくなる」
 先日近所のモールに出かけて見つけた、同車種の件。
 カラーこそ違ったが、格好もほぼ一緒となると寂しくなる。
 まぁ、こんなことをあいつに話したところで期待するような返事はなかったけど。
 それにしても、『だから?』はないだろ。ちくしょう。
「……女って、男のこういう些細な気持ちに気付いてくれないんだよなぁ」
「まぁ、しょうがないのかもしれないっすけどね。俺たちも、微妙な変化見逃すことあるし」
「……それを言われると、痛いな」
「でしょ?」
 そういえば、この前アイツのケータイのストラップが変わったことに気が付かなくて、ものすごく不機嫌だったことがあったな……。
 ったく。
 俺にどう言えっていうんだよ。
 結局、ウマいって評判の店のアイスでごまかせたからいいものの……女って生き物は、相変わらずよくわからない。
 つーか、絵里の場合が特殊なのかも。
 これまで付き合ってきた中で、アイツほど扱いづらいのはいないぞ。
「んじゃ、お疲れさん」
「お疲れさまです。……晩メシ、がんばってくださいね」
「あはは。わかった」
 ドアを開けながら声をかけると、楽しそうに笑われた。
 ……くそー。
 俺だって別に趣味で料理やってるわけじゃないんだけどな。
 助手席に荷物を放ってエンジンをかけると、途端に車内に響くやけに明るい音楽。
 ……またアイツは替えっぱなしかよ。
 普段自分が聞かない音楽をずーっと横で聞かれていると、人間順応してくるもんだが……。
 それでも、こんないわゆる若者向けは今の俺には結構キツイ。
 青春を歌われてもな。
 もうずいぶん昔の気がするし。
 ……あ。
 帰る前に電話しとくか。
 遅くなるときは電話を入れる習慣ができているため、スマフォを取り出しす。
 晩メシのリクエストも聞かなきゃなんないし。
「あ。もしもし?」
 呼び出し音のあとに響いた、いつもと同じ彼女の声。
 ……だが。
「……なんだよ。どうした?」
『別に……。何?』
 普段とちょっと声のトーンが違うというのもあるのだが、聞こえてきたのはいわゆる……涙声。
 それに、少し焦っている自分がいた。
「いや、今から帰るんだけど……。晩メシどうする?」
『いいから、早く帰ってきなさいよ』
「……は?」
 ……相変わらず口の利き方がなってねぇな。
 つーか、これほど機嫌が悪いとなると、何かあったのか?
「なんだよ……。何かあったのか?」
『別に何もないけど……。いいからすぐ帰ってきて。じゃ、気をつけてね』
「あ? あぁ、わかった」
 いつもなら何かあれば喧々囂々と言ってくるだけに、少し面食らってしまう。
 ……なんだ?
 何か見つけたのか?
 つっても、今さら別に見られて困るようなものもないし……牛乳だってちゃんとアイツの分残したんだぞ?
 ……なんだよー。気になるな。
 はっきりとした原因が掴めていないせいもあるが、どうしたって落ち着かない。
 だいたい、アイツが泣くって……鬼の目にも涙とは言わないが、珍しいことは珍しい。
 とりあえず、帰るか。
 流れている音楽をそのままに、家へと早く向かうことにした。
 なんだかんだ言っても絵里にころころと転がされているような気がする、自分。
 ……まぁ、もう慣れたからいいけど。
 そんなことを考えると、自然に苦笑が漏れた。

「ただいまー」
 鍵を開けて中に入る……と。
 ……?
 玉ねぎ?
 リビングに近づくにつれて漂ってくる、刺激臭。
 ……間違いない。
 これは、玉ねぎの匂いだ。
 シンクにもたれてタオルを顔に当てている絵里の手元には……案の定玉ねぎが転がっていた。
 微妙な大きさの……み……みじん切りか? これは。
 眉を寄せて彼女に近寄ると、赤い目をしてこちらを見た。
「……おかえり」
「ただいま。……何? お前が料理してんの?」
 何も言わずにうなずくと、ぐしぐしっとタオルで涙を拭う。
「……目が痛い……」
「あー、最近包丁砥いでなかったしな。ほら、あとは俺がやるから――」
「ダメ!」
「な……んでだよ」
「いーから! 純也は座ってて!」
「……はぁ? なんでそんな――」
「いいから!!」
 頑として譲らずに背中を押され、結局リビングまで連れてこられてしまった。
 ……なんだよ。
 そこまで料理をしたがるなんて、珍しいな。
 荷物を置いてからテーブルを見る……あれ。
「手紙来たのか?」
「うん。読んでいいよ」
「おー」
 ソファに座ってから、その束を手にする。
 まず目が行ったのは、写真のふたり。
 相変わらず、仲睦まじい。
 手紙も、以前と変わりなく丁寧な文字がつづられていた。
 ……純也さんによろしく。
 毎度毎度添えてくれる言葉は、嬉しいのだが若干気恥ずかしくもある。
 絵里の両親には、本当に頭が上がらない。
 見合いを蹴ってまで付き合うと言い出した男が、自分の娘を教えている高校の教師と知ったときの、絵里の祖母の顔といったら……。
 今思い出しただけでも、寒気がする。
 殺される。
 ……かもしれないと思ったほどだったからな。
 そんなときにやんわりと制してくれたふたりは、まさに命の恩人。
 助かったもんな……あのときは心底。
 どうやら向こうでも相変わらずの暮らしをしているらしく、少し安心できた。
 電話をかけてくることがほとんどないせいか、こういった手紙は絵里にとっても嬉しいはずだと思う。
 まぁ、アイツの場合はスマフォでときどき電話してるみたいだけど。
 あとは、パソコンにメールも来るしな。
 そう考えると、やっぱりマメな両親だとは思う。
 ……ま、自分も同じくらいマメだとは思うが。
 即、返事書いてるし。
 …………しかし、だ。
 なんで急にメシを作る気になったんだ? あいつ。
 ソファにもたれながらキッチンに立つ絵里を見ていると、まだ目が痛いらしく擦っていたが、今は別の野菜に手をつけているようだった。
 ……まぁ、いいけど。
 邪魔するなとあれだけの剣幕で言われて邪魔したら、あとが怖いし。
 仕方なく、文句を言わずに待つことにした。
 ……あ。そうだ。
「なぁ、絵里」
「んー?」
「お前、この間コタツがどうのって言ってたよな」
「あー、うん。あとで出すけど」
 けろっとした顔でこちらを見て、軽くうなずく彼女。
 そんな顔を見てから立ち上がり、先に廊下の納戸へ向かう。
「え? いいよ、あとで出すから」
「いーって。お前メシ作ってるんだろ? 俺、ヒマだし」
「けど……」
「ほら。ウマいヤツ作ってくれよな」
「……うん」
 ぱたぱたと付いてきた足音を振り返らずに告げると、再びキッチンへと戻っていく音がした。
 コタツくらい、ひとりで出せるっての。
 確かに、ここ最近急激に寒くなってきたしな。
 俺も出そうかとは思っていたんだが……どうしても、コタツに入ってると眠くなってくるからな。
 ……ま。
 大学進学も無事に決まっているアイツなら、今さらコタツで寝て風邪引いたところで、困るほどのモンでもないが。
 しかし、コタツか……。
 そうなると、みかんが食いたくなるよな。
 まだ時期的には早いのだが、ふとそんなことが思い浮かんだ。

「……あー、疲れた」
 ――……いつもと同じく車を停めて、向かうのは我が家。
 明日は羽織ちゃんと一緒の帰宅だからこそ、つい解放されるような気になる。
 ……やっぱり、ひとりのときは結構時間が長いんだよな。
 自分の好きなことができるとはいえ、だったら彼女で遊んでるほうが楽しいし。
 宅配ボックスに届いていた数冊の本を持ち、メールボックスの夕刊を――……。
「……あれ?」
 新聞がない。
 ……珍しいな、遅れるなんて。
 まぁ、いいけど。
 本を落としそうになりながら荷物を持ち直し、エレベーターへ。
 コツコツと響く靴音を聞きながら自宅まで進み、鍵を開けて中に入る――……と。
「……?」
 玄関に揃えられているのは、見慣れた靴。
 つーか、その前に……だ。
 玄関に明りがついてるって時点で、まずおかしいよな。
 廊下の向こうからも、わずかに明りが漏れてるし……。
 ……え?
 あれ? ちょっと待て。
 今日はまだ木曜日だよな。
 なんで、彼女が……?
 ほか合い鍵を持ってる人間なんていないし……いても、じーちゃんだし。
 リビングへ近づくにつれて聞こえてくる、リズムの整った包丁の音。
 間違いない。
 今ここにいるのは、彼女だ。
 ……けど、なんで?
 嬉しいのはもちろんだが、不思議でもある。
 なんで家に……。
 そんなことを考えながらドアを開けると、そこには私服姿の彼女が立っていた。
「あ。おかえりなさい」
「……ただいま……」
 にこやかな笑顔で迎えられるも、ついぎこちなくなる。
「……なんで? 約束……してたっけ……?」
「ううん。あの、絵里と買い物に行って……それで、ごはんだけでも作ろうかなぁって思ったんですけど……。……迷惑でした?」
「まさか! ……いや、ちょっとびっくりしただけ」
 申し訳なさそうな顔で慌てて首を振ると、嬉しそうに笑みを見せた。
 ……そっか。
 こうして目の前にいる彼女を見ていると、ふつふつと実感が湧いてくる。
「……先生?」
「ん?」
「どうしたんですか? なんか……楽しそう」
「すげー、嬉しい」
 思わず、笑みが漏れる。
 今日1日我慢すれば明日は彼女に会えると思っていただけに、1日早まって……嬉しかった。
「わっ!?」
「……ありがと」
「あ、危ないですよっ」
「大丈夫だって」
 包丁を握ったままの彼女を抱きしめると、慌てて首を振られる。
 でもな。
 そうそう簡単に離せるわけないだろ?
 自分の予想をいい意味でことごとく裏切ってくれている、彼女。
 ……あーもー、すげぇ嬉しい。
 漏れてくる笑みを噛み締めながら、気付くと彼女の頭を撫でていた。
「……ん?」
 急に聞こえた、鼻をすする音。
 それで、身体を離す――……と。
「どうした……?」
 瞳を潤ませて、今にも泣きそうな顔をしていた。
 え? ……そんなに嬉しかった……とか?
 って、ンなワケないよな。
「玉ねぎ……冷蔵庫入れておくの忘れちゃって……」
「冷蔵庫?」
「うん。入れておくと、あんまり目にしみないんですよ」
「へぇ」
 マメ知識に瞳を丸くすると、ぐしぐしっと手の甲で涙を拭った。
 ……うーん。
 なんつーか、幼な妻っぽくて、いい。
「……はあ」
 って、玉ねぎで泣いてる子を前に考えることじゃないか。
「大丈夫?」
「うん。もう、終わるから」
 やっと笑みを見せた彼女の髪を撫でてから寝室に向かい、まず着替えることにした。
 つっても、いつもと同じくネクタイを取ってシャツはそのままにジーパン穿くだけだけど。
 どーせ風呂に入るんだし。
 平日は、大抵この格好。
 夏はさすがにTシャツに着替えるが、涼しくなってくると面倒くささが先立ってしまう。
「……ふー」
 リビングに戻ってソファに腰かけ、テーブルに置かれている郵便物を選別し始める。
 相変わらずどこから情報が漏れてるのかしらないが、ダイレクトメールが多い。
 ……いらないものばかりだ。
 宛名を破ってからゴミ箱に放ると、いくつかの書類関係が残った。
 ま、今の俺にくる手紙なんて、仕事関係だよなぁ。
 誰かから手紙が来るなんて、まず考えられない。
 もともと、筆まめなほうでもないし。
 そんなことを考えていると、ほどなくしていい音が部屋に響いた。
 それと同時にウマそうな匂いも。
 ふとそちらを見ると、キッチンに立っている彼女と目が合い、つい笑みが漏れる。
「うまそう」
「もうちょっと、待ってくださいね」
 匂いと、さっきの玉ねぎからして……ハンバーグってとこか。
 いいね。
 ちょうど、肉が食いたかった。
 ソファにもたれて夕刊を読み始めると、今日のニュースが大きく取り上げられていた。
 ……って、また台風来るのかよ。
 今年は本当に多いな。
 ちょうど進路に関東が含まれているのを見ると、どうしても気が滅入る。
 休みのときに当たってもイヤだが、平日の仕事があるときにぶつかるのは、もっとヘコむ。
 なんてことを考えていると、炊飯器が炊き上がりを告げる音楽を響かせた。
 それを聞いて、相変わらず嬉しそうに混ぜる彼女の姿。
 ……甲斐甲斐しい。
 嬉しそうな姿を見ていると、こちらもつい顔がほころぶ。
 あ。
 そういえば、純也さん……メシどうしたんだろ。
 あんだけ悩んだ顔してたしな。
 今ごろ悩みながらメシ作ってるのかも。
 とはいえ、一種の趣味っぽい気がしないでもないから、まぁ、いいんだろうけど。
 俺は彼と違って料理がまったくダメなので、やっぱり不思議な気がする。
 ……しかし、絵里ちゃんは幸せだよな。
 純也さんも、結構料理得意らしいし。
 って、あそこの場合はなんだかんだ言って幸せそうだよな。
 互いにあれこれ言い合う割には、やっぱ仲いいし。
 普段見ている絵里ちゃんが、ふたりきりになるとどれだけ甘えるのか。
 それを想像すると、少し笑えないわけでもないが。
 ……やっぱ、かわいくなるのかな。
 いや、待てよ。
 逆にそれこそ天下になってるんじゃ……。
 ……んー。
 どっちにしろ、幸せそうだし……いいか。
 そんなふうに納得してから、自分も現在の状況に感謝した。
 いると思わなかった彼女が家にいて、甲斐甲斐しくメシを作って待っていてくれて。
 ……あー、幸せだな。
 我ながらいい人生だ。
 感謝するとしたら、いったい誰にすればいい?
 神か――……それとも、やはり自分自身か。
 選ぶとしたら、当然後者だよな。
 当たり前の答えがすぐに浮かび、我ながら苦笑が漏れた。


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