ドラマが終盤に差しかかったころ、部屋のチャイムが鳴った。
 彼女を制してドアに向かうと、案の定そこには山内さん。
「すみません、わざわざ」
「いえ、とんでもないです。こちらでよろしかったですか?」
「ええ、十分です。すみません、急にお願いしてしまって……」
「お気になさらないでください。あ、それと……これを。本当に申し訳ありませんでした」
「大丈夫です」
 申し訳なさそうにシャツを渡してくれた彼に笑顔で首を振ると、頭を下げてきびすを返していった。
 ……さて。
「サンドイッチもらったんだけど、食べる?」
「え? んー……今はいいです」
「そう? じゃ、お腹が空いたら食べて」
「はぁい」
 考えていた通りの返事。
 ……まぁ、もともとそんなに食べるほうじゃないしな。
 こちらに笑顔を見せてからテレビへ向き直った彼女を見て、内心ほっとしながらソファに向かう。
 歩く振動で、ワインクーラーの氷がわずかに音を立てた。
 よく冷えているボトルとグラス、そして――……彼女が声を漏らすであろうアレ。
 ……昔は、こんなの頼むのはどこかの馬鹿なカップルだけだと思ってたんだけどな。
 今じゃすっかりその馬鹿のひとりである自分に、苦笑が漏れる。
「……? お酒ですか?」
「んー。『モエ・エ・シャンドン・ブリュット・アンペリアル』っていうんだけど。……知らない?」
「知らない……かも」
「そう? 残念だな。羽織ちゃんなら絶対知ってると思ったんだけど」
 わざと肩をすくめてから、グラスをテーブルに置く。
 横には、ガラスの容器に入ったイチゴを添えて。
「シャンパンだよ、モエ・エ・シャンドンっていう会社の」
「シャンパン?」
「うん。……似てるんでしょ? この部屋」
「部屋が……?」
「そ。プリティウーマンに」
「……え……あっ! じゃ、あのシャンパン!?」
「やっと気付いた?」
 驚いたように口元を押さえた彼女に苦笑を浮かべると、こくこくと首を縦に振った。
 そんな彼女を見てから封を切り、栓を開ける。
 弾かれるようないい音とともにあたりへ漂う、甘い香り。
 シャンパンを開けるのなんて、本当に久しぶりだ。
「今日じゃなきゃ酒なんて飲めないしね。……でも、さすがはホテル。これ常備なところを見ると、まだ頼む連中がいるんだな」
 かくいう自分も、そんなひとり。
 ……改めて思うと、やはり恥ずかしい。
「でも、そのために……取ってくれたんですか?」
「まぁ、たまにはいいかなって。……せっかくの、結婚前夜だし」
「っ……」
 あえて『結婚』という言葉を使うと、照れたような笑みを浮かべて小さくうなずいた。
 それを見てからシャンパンをグラスに注ぎ、彼女へ渡す。
「……お酒、駄目なんじゃないんですか?」
「ん? もちろん。でも、お祝いだからね。舐めるだけならどうぞ?」
 にっこり笑ってグラスを合わせると、カチンといい音を響かせた。
 すらりとした細いグラスの底から立ちのぼり続けている、細かい泡。
 色といいコレといい、きれいだと素直に思う。
「……なんか……えへへ、嬉しい」
「それはそれは。お気に召していただけて何より」
 山内さんに借りた白のYシャツの袖を、まくったところで気付いた。
 あー、似てるな。
 ……まぁ、彼女は気付かないだろうけど。
 ひとくち含んで色っぽく笑った彼女に、イチゴをつまんでそっと唇に運ぶ。
「……え?」
「To try strawberry……It brings out flavor the champagne」
「……え、っと」
「『イチゴを試してごらん。シャンパンの香りが引き立つから』って、エドワードが言ったろ?」
「あ……」
「で、ヴィヴィアンは『Groovin'』って答えたんだよ」
「……そっかぁ」
「で? ひとこと欲しいんだけど」
 いたずらっぽく催促すると、小さく声をあげてから笑顔を見せた。
「……Groovin'」
「ん、よくできました」
 うなずいてから、口を開けるように催促してイチゴを食べさせる。
 ……なんつーかこう、目を合わせながら食べられると、結構ヤラシイな。
「はい」
「……ん」
 グラスを差し出し、シャンパンをひとくち。
 こくん、と動く白い喉。
 ……うわ。ヤバい。つーか、えろい。
 って、今日は手を出さないって決めたんだが――……苦行か? もしかして。
「どう?」
「……おいしいって思うけど……。苦い気もします」
「だろうね。それじゃ、シャンパンはおしまい。あとは、こっち」
 グラスを取り上げ、代わりにいちごを差し出す。
 ほんの少し口にしただけなのに、少し頬を赤らめた姿がなんとも色っぽい。
 イチゴをかじる。
 小さく息をつく。
 ……そして、潤んだ瞳で俺を見上げる。
「あ。でも、エドワードはお酒飲まない主義なんですよ?」
「んー……まぁ、エドワード風ってことにしといてよ」
「もぅ」
 くすっと笑ってから、彼女がもたれた。
 途端、ふわりとイチゴの甘酸っぱい香りがする。
「……なんか、先生……格好がエドワードみたい」
「そう?」
「うん。……エドワードも、こうやって白いワイシャツを着て飲んだんですよね」
 ……気付いてたか。
 いや、ちょっとナメてたな。
 さすがは、何回も見たというだけある。
 ――……しかし、だ。
 珍しいことは、起きてほしくない日に限って起きるんだな。
 これが今日じゃなければ、間違いなくいただいていたのに。
「……でも、ひとつ。絶対的にエドワードとは違うところがある」
「え?」
「俺は、唇のキス以外はいらない」
「っ……」
 ごく近くで囁き、いたずらっぽく笑って彼女の唇に触れると、一瞬目を見張ってから小さく笑った。
 この顔も、結構……ヤバい。
「もぅ……」
「羽織ちゃんは? ……ヴィヴィアンと一緒?」
「……いじわる」
 首を横に振ってから、彼女がそっと唇を重ねてきた。
 柔らかく、甘い口づけ。
 シャンパンとイチゴのいい香りが、余韻として残る。
「…………」
「…………」
 ふっ、と離れる彼女の唇。
 艶っぽくて、じぃっと見ているとこのまま――……。
「……さて、そろそろ風呂入るか」
「え? ……あ、はい」
 一瞬の間のあとで、彼女が慌てたように反応した。
 ……そんな顔されたら止まれなくなるだろ。
「……せんせ……?」
「…………」
「っ……ん」
 頬に手を這わせ、そっと口づける。
 ……キスだけなら、いいよな。
 などと自分に言い訳しながら甘い痺れの残る舌を絡め、丹念に口づけをほどこすと、耳元で甘い声が聞こえた。
「……ん……ん」
 ゆっくり顔を離すと、とろけてしまいそうな甘い顔がすぐそこにあった。
 シャンパンの効果か知らないが、あまりにもかわいくて、それはそれはうまそうで……。
「せ……んせ」
 たまらず抱きしめていた。
 本当はこのまま――……はぁ。どうしてあんなことを誓ってしまったのやら。
「今日は、キスだけでやめとく」
「……え?」
 意外にも、彼女は驚いたような顔をした。
 ……あー、もったいないぞ。ちくしょう。
「模擬結婚式なんだし、いいかなとは思ったけどさ。……でも、前日にしっかりオイシクいただいた彼女をバージンロード歩かせるワケにいかないだろ?」
「……あ……」
 苦笑まじりに呟くと、彼女がしばらくしてから口元を押さえた。
 ……あぁもう、かわいいぞ。
 ちゅ、と頬に唇を寄せてから彼女を離し、ひとりバスルームへ向かう。
 湯を張ってからリビングに戻ると、とろんとした瞳でうつらうつらしていた。
 ……寝そうだな。
 思わず苦笑しながら隣に腰をおろすと、誘ってるんだろとしか思えない顔で見上げる。
「……そんな顔したら、食っちゃいたくなるだろ」
「だって……」
 もたれるように身体を預けた彼女が、息をついてから瞳を閉じる。
「こら。寝ちゃ駄目」
「ん……でも……」
「明日のためだろ? きれいに洗ってあげるから」
「……自分で洗えますっ」
 ち、起きたか。
 素直に『うん』と言ってくれるのを期待していたのだが、まだ理性がしっかりしていたらしい。
 ……まぁいいか。
 今日のところは、大人しくしていよう。
 そう決めたんだ。
「お楽しみは、明日までとっとくから」
「え?」
「明日、改めておいしくいただいてあげる」
「っ……えっち」
 耳元で囁いてから頬へ口づけると、赤い顔をしながら小さく呟いた。
 酒のせいか、はたまた……彼女自身の素直な身体のせいか。
 どちらにせよ、やっぱり『ああ、もったいないな』なんて、まだ葛藤している自分もいた。

「おはようございます」
「あ、おはようございます」
「昨夜はよく眠れましたか?」
「はい、とっても」
「…………」
 部屋に響いたチャイムで出ると、山内さんが時間きっかり迎えに来てくれた。
 はは。俺はよく眠れませんでしたけどね、なんて大人気ないことを考えつつも、大人の笑顔。
 俺とは違い、元気にうなずいた彼女に山内さんが微笑んだ。
 悶々としながらもなんとか理性が打ち勝ち、朝食を摂ったのは1時間ほど前のことか。
 現在は、まさに休日の朝のごとくのんびりとした時間を過ごしている。
 ……といっても、『贅沢な』が冠につくけど。
「では参りましょうか」
「あ、はい」
 にこやかな彼に促されて1階に降り、早速衣装替えのためにそれぞれの更衣室へ向かう。
 ……いよいよ、か。
 昨日とは違う気分に、少しだけ自分が緊張しているらしいとわかった。
「それでは、新婦さまはお化粧などがありますから。どうぞ、新郎さまはこちらのお部屋でお待ちください」
「あ、はい」
 促されるまま控え室に向かう途中で、彼女と視線が合った。
 ……そういえば。
「そうだ」
「え?」
 彼女に歩み寄り、ポケットからある物を取り出す。
 手のひらに収まってしまうほど小さなもの。
 それでも、忘れてしまうにはもったいなさすぎる価値と意味のあるものだ。
「はい」
「え……? なんですか?」
「まぁ、開けてみて」
 笑みを浮かべて彼女を促すと、小さな包みをそっと開いた。
 ――……そして。
 中身を見た瞬間、驚いたように顔を上げる。
「っ……! これっ!」
「“Something four”って知ってる?」
「もちろん! 青い物、とか新しい物、とか……ですよね?」
「さすが。だから、“Something New”を渡そうと思って」
 苦笑まじりにうなずくと、まじまじと手にとって見つめた。
 その眼差しは、それこそ本当に大切なものを見ているかのようで、笑みが浮かぶ。
「本番まで、“Something Blue”は取っておくよ」
「っ……先生」
 髪を撫でて微笑むと、一瞬目を見張った彼女がそれはそれは嬉しそうにうなずいた。
 ……我ながら、よく言うよ。
 昨日のシャンパンといい、このセリフといい、去年までは考えられない。
「じゃあ、またあとで」
「はぁい」
 はにかみながら美容ルームのドアを開け、頭を下げてから入っていく彼女。
 その背中を見送り、ひとり、笑みを……というより、にやける。
 いよいよ、だ。
 模擬とはいえ、結婚式という晴れ舞台の幕が上がる。
 ……彼女のドレス姿を、ひとあし早く見れるとはね。
 改めて、じーちゃんに感謝したほうがいいかもしれない。


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