「あ、羽織ー!」
「おかえりー。ね、どうだった?」
 まだ誰かしらはいるだろうと考えて足を運んだ、化学実験室。
 案の定、絵里とほかの部員の子が迎えてくれた。
「おかえり」
「……あ。ただ今帰りました」
 にこやかに迎えてくれた田代先生に笑みを返すと、いつも祐恭先生が座っている椅子に腰を下ろした。
 彼がいない、実験室。
 ……今の私には、それがとてもつらい。
 夕暮れが迫っている、室内。
 煌々と明りが灯る中、絵里の元へと自然に足が向く。
「で? どうだった? うまく喋れた?」
 嬉々として訊ねてくる彼女に苦笑を浮かべ、手にしていた賞状を渡す。
 すると、早速開いてすぐ目を丸くした。
「すごいじゃないー! 3位なんて! ……まぁ、正直言えば優勝して帰ってきてほしかったけどねー」
「うん。なんかね、途中で……言えなくなっちゃったの」
「え……? ウソ。だって、あんなに何度もすらすら……。だって、全校生徒の前でも、あんなに上手に喋れたじゃない!」
 彼女が瞳を丸くするのも、無理はない。
 月曜日の学年集会で、代表者6名はそれぞれステージに上がって全校生徒の前でリハーサルを兼ねた発表をしたのだから。
 確かに、そのときはあんなにすらすら言えた。
 だからこそ、自信がついたのに。
 ……でも――……。
「……うん」
 やっぱり、始まる直前に聞いた彼のあの告白に……戸惑ってしまったのだ。
 発表している間、どうしても視線があちこちにいってしまう。
 彼の姿を見ないように。
 それでも、客席側が暗いため、どうしてもステージからはひとりひとりの顔がよく見えるんだよね。
 そのせいで……探してもいないのに、彼と目が合ってしまったのだ。
 途端、情けないことに続きが出てこなかった。
 視線をテーブルに落とし、握ったままの手を見つめたことでようやく出てきた続き。
 『止まらなければもっといい成績だった』、と父にも言われた。
 でも、喋れなくなったのは自分のせい。
 彼の言葉に動揺した、この、私のせいだから。
「…………」
 何も言えなくて、悔しかった。
 そして同時に……祐恭先生に対して、申し訳なくて。
 今、すごく大事にしてもらえてるのに。
 今、すごく自分は幸せなのに。
 彼がそばにいてくれて、彼のそばにいることを許してもらえて。
 そんな恵まれた状況なのに。
 ……なのに、昔好きだった人の言葉に動揺を隠せなかった。
「羽織? どしたの?」
 心配そうな絵里に向き直って苦笑を浮かべ、今日あったできごとをつい口に出していた。
 そうすることで、少しでも気が楽になるような気がしたから。
 ……というのもあるけれど、やっぱり絵里に秘密事を作るのがイヤだった。
「……黒川が」
 すべてを話し終えると、ぽつりと一言漏らしてから絵里がこちらに向き直った。
 真剣な瞳。
 ……怒られる。
 そう思った瞬間、ぽんぽんと頭を撫でられ、目が丸くなる。
「……絵里……?」
「つらかったでしょ。……あんた、すごい好きだったもんね。アイツのこと」
「ん……」
 小さい子どもみたいにうなずくと、肩を抱いてよしよしと頭を撫でてくれた。
 ああ、すごいなぁ。
 絵里、どうしてこんなに私の扱い方を知ってくれてるんだろう。
 小さいころからずっとそばにいるから、わかってくれてるのかな。
 だとしたら、これ以上のしあわせはない。
「絵里」
「んー?」
「ありがと」
「おうよ。元気出せー」
 肩口に顔を埋めたまま呟くと、ぱっと身体を離してにっこりと笑みをくれた。
 いつも、彼女には救われてばかり。
 だから本当に、ありがたいとしか言えない。
 絵里から賞状を受け取って立ち上がると、その場にいた全員にあいさつをしてからドアに手をかける。
「それじゃあ、失礼します」
「気をつけてね」
「はいっ」
 田代先生に笑顔を見せてからノブを回し、暗くなった廊下へと抜け出す。
 今日は、このまま帰って家でのんびりしていたい。
 そんな気分でいっぱいだった。
 あのまま実験室にいると、彼に会えないのがわかっているものの、どうしても心細くなっちゃうから。
 ひとりでいる時間もイヤだけど、それでも家でのんびりしていたかった。
 彼の姿が普段見れない場所ならば、少しは落ち着けるような……そんな気がしたから。

「……はぁ」
 夕食を終えて、部屋でのため息。
 ……もう、何度目だろう。
 つけたままのスマフォに指で触れ、通知が来ないのにまたメッセージアプリを開く。
 受信があればすぐにわかる。
 着信があれば、それもすぐに。
 だけど、ついつい弄っちゃうんだよね。
 彼から連絡がないだろうかと、そればかりを確かめるように。
「羽織」
「……え?」
 コンコンというノックのあと、聞きなれた声が廊下に響いた。
「何?」
 遠慮がちにドアが開くと、怪訝そうなお兄ちゃんが顔を覗かせる。
「お前、頼んだデザインいつできる?」
「まだやってない」
「……ンでだよ。早くしろって」
「もぅ。文句言うなら、お兄ちゃんが自分でやればいいじゃない」
「できねぇから頼んでんだろ」
 眉を寄せて呟くと、深くため息をつきながらドアにもたれた。
 だいたい、お兄ちゃんはせっかちなんだよね。
 もう少し、余裕を持ったらいいのに。
「お前、祐恭に似てきたな」
「え? ……そうかな。前からこんなだったと思うけど」
「それもそうか。似てるから付き合うんだしな」
 肩をすくめてからドアに手をかけ、再び念を押してからドアを閉めたを見送りつつ、小さくため息が漏れた。
 ……もぅ。
 文句言うなら自分でやってよねー。
 だいたい、お兄ちゃんのサイトなのに。
 しかたなく、お兄ちゃんから借りたタブレットを開き、頼まれた写真の加工をするべくアプリを立ち上げる。
 今やっている作業は、彼のサイトの画像処理。
 毎月……もしくは、気まぐれでトップにある画像を差し替えるんだけど、それはお兄ちゃんがサイトを立ち上げたときから変わらないまま私の仕事になっていた。
 初代トップ絵ともいうべき写真は、学生時代にお兄ちゃんが乗っていた車のレビン。
 今回が何代目の画像か忘れちゃったけれど、今画面上にある車は――……そう。
 祐恭先生の、あの車だ。
 出張にも車で行くと言っていただけに、ついつい見入ってしまう。
 事故に遭ったりしなければ、それだけでほかに何もいらない。
 無事に帰ってきてさえくれれば、十分なの。
「……はぁ」
 日の光を浴びて、綺麗なボディラインを浮かばせている彼のRX-8。
 途中までの加工は終えたものの、どうしても手が止まる。
 ……会いたくて、会いたくて……たまらなく苦しい。
 普段の平日にはこれほどの思いに駆られることがないせいか、余計につらかった。
 と同時に、心底情けないとも思う。
 たった、2日なのに。
 ……ううん、2日も、だ。
「…………はぁ」
 画面から指を離して椅子にもたれると、やけに大きく椅子がきしんだ。
 今ごろ、何をしているんだろう。
 窓の外を眺めてみるものの、相変わらずの闇夜。
 メッセージなら、送ってもいいかなぁ。
 でも、会議中だったら困るし……。
 そんな葛藤を先ほどからくり返した揚げ句、結局何もできていない。
「……弱いなぁ」
 ぽつりと漏れた言葉が、なんだかやけに重たかった。


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