「…………ここも、最後だな」
 手を繋いだままドアを開けたのは、これまでも何度となく足を運んだ化学室で。
 両側にある窓からは、明るい日差しが差込んできているにもかかわらず、いつもと同じひんやりとした空気が漂っていた。
「そういや、さっき絵里ちゃんに会ったよ」
「絵里にですか?」
「うん。……なんか、全部のボタン取られてた」
「……え」
 くすくす笑いながら、彼が自分のスーツの上着を親指でさした。
 ……全部のボタン。
 まじまじと自分の制服を見てみるも、そこにあるボタンは限られていて。
 …………全部……。
「……あはは」
 どうしてだろう。
 こうも容易に、そのシーンが目に浮かぶのは。
 泣きじゃくりながら『皆瀬先輩』とすがりつかれ、『第2ボタンをください』とせがまれる。
 その、顔。
 それは困惑しつつも、女の子相手に本気が出せなくて困っている――……かわいそうな絵里で。
 ……うーん……。
 見事なまでに、『このボタンも考えようによっては、第2だから!』と剥ぎ取られていく映像。
 あれよあれよと後輩の子が群がって、残されたのは……深い深いため息をつく彼女。
 ……うー……うん……。
 あとで会ったら慰めてあげようと思う。
「……え?」
 窓際に立った彼が、こちらを振り返った。
 ……その顔に、満面とも呼べる優しい笑みを浮かべて。

「おめでとう」

「……っ……」
 誰もいない室内に響く、彼だけの声。
 ……私だけのために、向けられたはなむけの言葉。
「……あ……」
 咄嗟のことで、というのもある。
 ……でも、そうじゃない。
 思わず言葉が出てこなかったのは、そんな理由なんかじゃなくて。
「……ありがとう……ございます」
 その笑み。
 惹きつけられてしまう、あたたかくて、優しい顔。
 そんな顔を、今私だけに向けてくれているんだと改めて思うと、どうしようもないくらい嬉しくて。
 身体の奥底が、ぎゅっと震える。
「……これ」
「え?」
 きゅっと手を握ったまま彼に歩み寄ったら、上着の内ポケットから何かを取り出した。
 そして……それを、私にまっすぐ差し出す。
「……これは……?」
「ささやかだけど、俺からの卒業祝い」
「っ……え……!?」
 手を出そうとした瞬間、その言葉で思わず引っ込めていた。
「だっ……ダメですよ、そんな!」
「どうして?」
「だって……! だって私、今朝……あんなにステキなものいただいたんですもん……」
 笑みを浮かべたまま首をかしげた彼に、ふるふると首を振る。
 これ以上何かを貰えるわけない。
 大きな大きな、薔薇の花束。
 あんなステキなお祝いを貰っておいて、さらに……なんて。
 先生の気持ちは嬉しい。
 だけど、これ以上は――……なんて思ったとき。
 彼が、小さく笑ってから……それをひっくりかえした。
「でも、これは貰ってくれないと困るんだけど……」
「……え……?」

「だってほら、ここにちゃんと名前が書いてあるだろ?」

 彼がそうしたように、私もそこへと視線を落とす。
 封筒。
 少し緑がかった淡い色の、普通より少しだけ大きな封筒。
 ……そして……わずかに厚みのある。
「っ……これ……!」
 明記されていた文字。
 それが目に入った瞬間、ぞくっと鳥肌が立った。
 これ。
 この……彼が今、私に差し出してくれているもの。
 それは間違いなく――……。
「……ど……して……」

 七ヶ瀬学園大学 教学課

 大学からの物に、違いなかったから。
「なんで……っ……! なんで、これ……っ」
「言ったろ? これは、羽織ちゃんのモノだって」
「ッ……けど! けど、これ……っ……!」
 差し出した手が、震える。
 だけど、彼は変わらない笑みを浮かべたまま、両手で私にそれを握らせてくれた。
 見るのと持つのとでは、また少し違う。
 分厚くて、少しだけ重たくて。
「……私……っ……」
 表に書かれている、文字。
 そこには受験番号と一緒に、赤文字でくっきりと『重要書類在中』の文字があった。
「開けてごらん?」
「……でも……!」
「それは羽織ちゃんのモノだよ?」
 どうしよう、なんて気持ちばかりが先に出て、うまく言葉も身体も動かない。
 重要書類。
 しかも、試験を終えたばかりの……七ヶ瀬から。
 となると、どうしたって考えられることはひとつしかなくて。
 でも……っ……でも、もし違ったら……?
 そんな不安と期待にさいなまれながら封に手をかけると、紙特有の乾いた音があたりに響いた。
「………………」
 しっかりと封がされていた。
 ただ剥がすだけのことなのに、緊張してうまくできない。
 ……だけど、破いたりはしたくなかった。
 もしかしたら。どうか――……そうでありますように。
 そんな気持ちが、今の私を動かしていたから。
「……っ……」
 ようやく封が開き、同時に、予想していたよりもずっとたくさんの紙が詰まっていたことがわかった。
 大きく口を開けた、封筒。
 覗き込むまでもなく、中身が……幾つか目に入る。
 ……全部、白い紙。
 それに違いないけれど、でも……。
「…………っ……」
 深呼吸してから、小さく緊張を飲み込んで……手を入れる。
 指先に触れた、硬い紙の感触。
 この感覚は、生涯きっとずっと――……忘れたりしないだろう。
「……っ……あ……」
 文字が目に入った瞬間、身体が強張るのがわかった。

『ご入学おめでとうございます』

 恐る恐る開いた紙の1番上には、大きく太い文字でそう書かれていた。
「っ……うそ……!」
「ちゃんと書いてあるだろ? ……ここに」
「けど……っ……けど、これ……!!」
 身体が震えて、思った以上に感情が昂る。
 じわっと涙が浮かんで、どうしようもないくらい高揚して。
 でも、緩く首を振りながら彼を見つめると、本当に本当に優しい笑顔で頭を撫でてくれた。
「ホントのことだよ」
「……せんせ……」
「さっきも言ったろ? ……おめでとう、って」
「っ……!」
 途端、涙が溢れた。
「っ……せんせぇ……!」
 書類を握ったまま彼に抱きつき、強く腕を握る。
 本当のことなんだ。
 現実。
 まさに、絶対的な証拠。
 それを掴んだまま、涙と嗚咽しか出てこない。
「今までよく、がんばったね」
「っ……わたし……ッ……わたし……!」
「……がんばったよ。合格おめでとう」
「ふぇ……せんせ……ぇ……!!」
 まるで子どもをあやすかのように、彼が背中を撫でてくれた。
 かけてくれる言葉すべてが優しくて、温かくて。
 本当なんだ……。
 本当に、私……ちゃんと、合格もらえたんだ……!
 今までのことが蘇ったのか、それとも、この合格という言葉でこうなったのかは、わからない。
 ……でも、夢なんかじゃない。
 ちゃんと、本当に……ホント。
 抱きしめてくれている彼が力強くて、心底、“今”を実感する。
「本当は、これ……明後日、直接受け取るか……郵送なんだよ」
 ハンカチで涙を拭いながら彼を見ると、持っていた封筒に手を添えた。
「ほら。……ここに“速達”って文字、入ってるだろ?」
「っ……あ……」
 まったく気付かず、今、先生に言われてようやく気付いた。
 ……確かに。
 確かに彼が指差した場所には、くっきりと“速達”の2文字があって。
 …………こんなに大きく書かれてるのに、気付かなかった……。
 どうやら、よっぽどびっくりしていたらしい。
「……公私混同だとか、職権濫用とか……いろいろ言われるかもしれないけど」
「え……?」

「でも、どうしても手向(たむ)けたかった」

「っ……せんせ……」
「何よりも俺らしい……俺にしか、できないモノを」
 頬に手を当てられて顔を上げると、ごくごく近い距離で、彼が笑った。
 ほんの少しだけ……照れているような。
 そんな顔をしたまま静かに囁かれ、言葉がもう、何も見つからない。
「……言ってくれただろ? 俺と同じ場所が見たい、って。……同じ時間をすごしたい、って。……あれ、すごく嬉しかったんだよ?」
 ほんの少しだけ、くすぐったそうに彼が笑った。
 ――……あれは、七ヶ瀬の二次試験があった日曜日のこと。
 彼に聞かれたとき、確かに……私はそう告げた。

 もし駄目でも……目指します。
 私、先生と同じ世界を見てきたいんです。
 ……同じ“とき”は無理だけど……でも、同じ年に変わりないですよね?
 だから……っ……だから私、先生が見た世界を……たくさんの思い出がある場所を、見てみたいんです。
 目指す学部も目標も違うけど……でもっ、先生がすごした場所だから。

 自分では、ちゃんとした言葉を言えてなかったと思ってる。
 こう思ってる、とか……こうしたい、とか。
 そんな、自分だけの想いを伝えることだけで、精一杯だった。
 ……でも。
 彼はそんな私を、ずっと嬉しそうに見つめてくれて。
 最後にひとことだけ、『ありがとう』って言ってくれたんだよね。
「……あの言葉聞いたとき……俺がどれだけ嬉しかったか、わかる?」
 髪をすくうように撫でた彼が、また、笑った。

 ……早く結果が見たかったのは、俺のほうかもしれない。

 そう言って、彼が笑みを苦笑へと変えた。
「……先生……っありがとう……」
 きゅ、と彼を掴むように力を込めながら、唇を軽く噛む。
 今は、泣かない。
 ……ちゃんと、感謝の気持ちを伝えるんだから。
 ぐっとこみあげてくる感情に堪えるようにそうすると、ほんの少しだけ気持ちが落ち着いてきたように思えた。
 『嬉しい』と言うには簡単すぎて。
 『幸せ』と言うにも言葉が足りなさすぎる。
 だって、彼がしてくれたのは、私の将来であり人生に深く関わってくることで。
 ……感謝しきれないほどの想いを抱く。
 当然だけど、彼に対してそんな気持ちしか浮かんでこない。
「でも本当は、孝之も同じこと考えてたらしいけどね」
「……え……。お兄ちゃん、が……?」
「うん。受け取ったあとでお礼がてら改めて顔を出したとき、教学課の先生が笑ってたよ」
 これまでとまた雰囲気の違う笑みを浮かべた彼に、思わず瞳が丸くなった。
 だって、考えたこともなければ、思ってもなかったこと。
 それは……確かに、先生がこうして直接私に合格通知を持ってきてくれるなんてことすら、思わなかったけれど……。
 でも、同じことを、あのお兄ちゃんがわざわざしてくれようとしただなんて……もっと考えられない。
「……大切な子なんだよ」
「え……?」
「羽織ちゃんは」
 俺にとっても、アイツにとっても。
 彼はそう言うと、また優しく笑って頭を撫でた。
「……いや……」
「え?」

「羽織」

「っ……!」
 ごく、近く。
 本当に……もう、10cmもない近い場所。
 そこにあった優しい彼の顔が、とてもとても優しく笑みを浮かべた。
「……もう、『ちゃん』はいらないよね?」
「え……っ」
「俺たちはもう、『教師と生徒』じゃないんだから」
 頬を撫でるように。
 手のひらがあちこちを滑り、最後に……唇に触れた。
「……だから、俺のことも名前で呼んで」
 それは、決してお願いめいたものじゃなくて。
 ……決して、おねだりでもなくて。
 まっすぐに見つめてくれている彼からは、当然とも呼べる眼差しと想いが伝わって来た。
「っ……あ……!」
 ちゃら、という小さな金属の音。
 一瞬冷たさを肌に感じてびくっと反応すると、指先で器用につまみ上げたそれを、彼が両手で首から外してくれた。
「……知ってた……?」
「え……?」

「薬指は、心に1番近いところなんだよ」

「っ……」
 ずっと首にかけていた細いチェーンから外され、今は彼の掌中にある……指輪。
 どんなときも、この手にしていられれば。
 ……いつだって、そう思ってきた。
 願ってきた。
 だけどそれは、許されないこと。
 私が生徒であるせいで。
 ……でも。
 どうしても、外したくなくて。
 内側に入っている、私と……そして、彼の名前。
 こっそりそれを見るたびに、言いようのない嬉しさと幸せな気持ちがこみ上げてくるから、どうしても肌身離さず付けていたかった。
 そんな私の気持ちを先読みして――……指輪と一緒に、彼が贈ってくれたチェーンとともに、ずっとそばにあった。
「……だから、コレの場所はここ」
 静かに低い声で囁いた彼が、指先と私とを見比べてから……指輪を通してくれた。
 ……あのときと、同じ。
 今となっては随分昔に感じられる、あの、ホンモノの教会で行った模擬結婚式と。
「……あ……」
 ほんの少しだけ、目の前に陰が落ちた。
 と同時に――……唇が重なる。
「……ふ……」
 1度離れた彼が、そっと、また口づけてくれた。
 柔らかくて、優しくて……大好きなキス。
 あのときと違って真っ白いヴェールはないけれど、今は……温かい日差しが私たちを包む。
 ……まるで、光でできたヴェールがかかっているかのように。
「……覚えてる?」
「え……?」
「あのときの、キス」
 少しだけ濡れた音とともに離れた唇。
 ほんのわずかの距離を開けて、彼が、すぐここで囁く。
「全部、ここから始まったんだ」
「っ……」
 彼の吐息が、かかる。
 ……ううん、それだけじゃない。
 微かに、唇が触れているような気もする。
「……忘れたりしないですよ」
 彼を見つめたまま、顔がほころぶのがわかった。
 それは、絶対。
 だって……彼に恋してたのはあの日まで。
 あの日から、愛することを覚えたんだから。

「……だから、ここで終わりにしよう」

「っ……え?」
 まっすぐ見つめられたまま、動いた彼の唇。
 そこを見ながら、思わず身体が硬くなった。
「……せ、んせ……?」
 どういう意味で告げられたんだろう。
 ……終わり。
 その言葉だけがやけに妙な響きを持って、頭の中でこだましている。
 …………笑って、ないの。
 先生が。
 彼が……今まであんなに優しい顔をしてくれていた彼が、今は……その表情を元に戻していた。
「初めてキスしたのも、ここだったね」
「……それは……」
「だから、最後のキスもここ」
「っ……」
「もう終わりにしよう」
 囁かれている言葉は、ちゃんと耳に入って来る。
 ……でも、なんでだろう。
 その言葉にどんな意味が込められているか、まったくわからない。
「……先生……っ……え……?」
「俺はもう、先生じゃないよ」
「……あ……」
 緩く首を振った彼が、小さく囁いた。
 弾かれるように瞳が丸くなり、慌てて……というには遅すぎるけれど、1度口をつぐむ。
「祐恭……さん……」
 自分の声が、ほんの少し掠れてるのがわかった。
 ……名前を呼ぶこと。
 それが、こんなにどきどきするなんて。
 本当に、不思議なほど幸せな気持ちでいっぱいになる。
「……ん」
 まるで、私がそう囁くのをずっと待ってくれていたかのように。
 彼が改めて柔らかい眼差しをくれた。

「……愛してる。一緒に暮らそう?」

「っ……!」
 なんて優しい言葉だっただろう。
 ……愛しさと、嬉しさと……幸せ。
 本当に、どんな言葉にも表せない感情が、身体中を駆け巡る。
「っと……。……大丈夫?」
「……わ、たし……」
 一瞬足元がおぼつかなくて、フラついた。
 だけど、その瞬間に彼が支えてくれる。
 ……温かい、大きな手のひら。
 いったい、どれほどこの手にすくわれてきたことだろう。
「……さよなら、言われるのかと思った……」
 本心中の、本音。
 少し掠れた声のまま彼を見上げると、『まさか』と苦笑を浮かべて首を横に振る。
 ……それを見て、さらに身体から力が抜けた。
 …………違った。
 ホントのホントに……彼は。
「……よかった……」
 自然とまぶたが下りて、薄っすらと滲んでいた涙が小さな粒に変わる。
 ……でも、これは違う。
 ほっとした、まさに安堵そのものだから。

「……するのは、離れて暮らしてた……これまでの日に」

「え……?」
 ふっと笑った彼が、頬に手のひらを当ててから一層柔らかく微笑んだ。
「…………」
「…………」
「……ちょっとクサいか」
「…………もぉ……」
 途端、まるでこれまでとは正反対の雰囲気が流れ始めた。
 ……でも、私たちらしいもの。
 くすくす笑いながら互いに触れ合っているこのときは、何よりも愛しくて好き。
 だって、これまで一緒にすごした時間そのものだから。
 一緒に作り上げた……私たちだけが、持ってるものだから。
「ご両親には、ちゃんとあいさつに行くから」
「……え……?」
「説得っていうか……納得してもらえるだけの理由は、考えてあるから」
 そのとき、ほんの少しだけ……彼が私から視線を外したように見えた。
 どこか……少し、遠くを。
 ほんのりその頬が赤くなっているような気がして、瞳が丸くなる。
「大学だってウチからのほうが近いし。……それに、これからは――……まぁ、いろいろとね」
「……ぅ。な、なんですか……? その顔は……」
「別に?」
 『もしかして』を確かめる前に、彼らしい含み笑いが目に入った。
 ……残念。
 今ではもう、当然だけどすべてが彼のペースで。
 先ほど見つけたあの欠片も、当然まったくなかった。
「初めは、女子校に赴任だって言われて悩んだんだよ」
「……え?」
「だけど……」
 途切れた言葉のあと、彼が髪をすくった。
 ……それはまるで、大切な何かを扱うかのように。
「……っ……」
 眼差しも、一緒。
 揺れることなくまっすぐに見つめてくれている彼の瞳は、芯の強そうな彼そのもの。
「……ここにいるのは、こうなるためだったんだなってつくづく思うよ」
「祐恭さん……」
「…………そう呼んでもらえるの、ずっと待ってた」
 耳元で囁かれた言葉のあと、すぐに唇が触れ合う。
 掠れたような、声。
 それが、心の1番深くて柔らかい場所を、くすぐるように撫でていく。
「……ん……」
 角度を変えて重ねられる、口づけ。
 何度も何度も、いつしか求めるように彼へと腕を回す。
「ふ……」
 唇が離れたのを感じて薄っすら瞳を開くと、すぐそこに、優しい顔をした彼がいた。

「卒業おめでとう」

「っ……祐恭さ……ん……」
 たっぷりと息を重ねて、紡がれた言葉。
 誰よりも近くで祝ってくれた今を、きっとずっと忘れたりしない。
「……ありがとう」
 涙がまた浮かんで、だけど……零れないように。
 笑みをしっかり浮かべてうなずくと、彼がそっと手のひらで頬を包んだ。
「……今日、とは言わない」
「え?」
「だけど、できれば近いうちに……ふたりきりでお祝いしようか」
「……はい……っ」
 とびきりの笑みが浮かんだのは、言うまでもなく彼のお陰。
 ……すべて。
 何もかも、今ここにある私のすべては、彼のお陰だと言ってもいい。
 ……彼がいてくれたから。
 そばにいて、ずっと支えてくれていたから。
 見てくれていたから。
 だから私は――………ちゃんとここまで歩いてこれたんだ。
 迷わないように。
 くじけないように。
 ……決してつまづかないように。
 祐恭さんがずっと……ずっと、導いてくれたから。
「……愛してるよ」
「愛してます……っ……」
 極上の笑みと呼んでもらえるよう、しっかりとうなずく。
 涙が頬を伝っていても。
 ……それでも……想いは決して濡れてないから。
「…………嬉しい……」
 涙の跡を拭うことも忘れ、ただただ、笑みが浮かぶ。
 どうしようもないくらい、嬉しい気持ち。
 幸せだと実感する、今。
 ……今だけは……世界中の誰よりも幸せだと声を大にして胸を張りたい。
 恋は下心、愛は真心。
 遠い昔誰かに聞いたことのある、その言葉。
 それをいつか……自分が口にできたらいいな、なんて思ったこともあった。
 …………だけど。
「えへへ」
「……幸せそうな顔して」
「幸せですもん」
 今日で、恋するのはおしまい。
 これからは、愛することを……誓います。
「……ずっと……」
「ん……?」
 少しだけ顎を上げて、上目遣いで彼を見つめる。

 病めるときも、健やかなるときも。
 ――……不思議そうな顔で……だけど、とても優しい彼。

 たとえこの先、どんなことがあっても。
 ――…その顔には、何物にも形容しがたい、幸せと愛しさが満ちていて。

 それでも私は……ううん。
 ……私たちは――……。


「ずっと……一緒」

 かすれることがないように、震えることがないように。
 少しだけ頬を染めながらも満面の笑みで彼に告げると、同じく、とてもとても優しい眼差しで微笑んでくれた。
「……当然」
「ん……」
「離したり、しない」
 手に入れた。
 それは、私も彼も……同じだから。
「……キス、してもいい?」
「え……?」
「そういうときは、かわいく『うん』って言うべきだよ?」
「っ……もぉ」
 ほんの少し、いたずらっぽい顔で笑った彼に、ちょっとだけ笑いが漏れた。
 ……だけど。
「…………ん……」
 笑みを浮かべたまま交わす、何度目かも言えないほどの口づけ。
 ……幸せの、キス。
 だけど、もっとたくさん……なんて願うのは、我侭なことだろうか。
「……え……?」

 たくさん、キスしよう。

 一瞬、小さく小さく耳元で聞こえた気がして。
 ……だけど、彼はただ優しく微笑んでいるだけだった。
「…………はい……」
 軽くうなずきながら、浮かべるのは微笑み。
 何に対しての、返事なのか。
 どれに対する、笑みなのか。
 ……それは、ひとつしかなくて。

 ――……あの日と同じ。
 ここからの、始まりの口づけ。
 誓いを交わした今、だからこそ笑みが浮かんだ。

「そういえば……今日、桜が咲いたんだってね」
「え?」
 抱きしめてくれたままの彼が、窓にもたれながら外を見つめた。
 正門にある、大きな桜の木。
 ……言われてみれば、確かに幾つかぽつぽつとした色が見える。
「…………サクラサク」
 口から漏れた、ハレの言葉。
 そのまま彼を見上げると――……同じように外へ向けていた視線を、私に戻してくれた。
「俺の行いの賜物かな」
 にやっと笑った彼を見て、思わずまた笑みが浮かんだのは……もちろん、言うまでもない。


―――To be continued other...




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