「はい」
「え……!? あ、あの……」
「読みたかったんだろ? これ」
「っ!? ち、ちがっ……!」
「違いません。ものすごく気になってたクセに」
 にやっと口角を上げて彼女を見ると、頬を染めて慌てたように首を振った。
 だけど、彼女が気になってたのは間違いないだろう。
 なんてったって、しっかりと見つめていたんだから。
「続きが読みたかったら、優人に言って」
「え……? 優くんに?」
「そ。これ、優人が置いてったヤツだから」
「……優くんが……」
 手にした本を彼女に差し出しながら呟くと、自然なかたちで彼女が手を出した。
 恐らく、読みたいとかそういう気持ちからじゃなくて、差し出されての反射的だろう。
 ま、この際どんな理由でもいいんだけど。
「……っ」
「ん? どした?」
「わ……私、ごはんの支度――!?」
「どこに行くのかな。読めばいいだろ? ここで」
「だ、だからっ! 私は別にっ」
「ほら。読んでいいよ? むしろ、大歓迎」
「歓迎しないでください!」
 逃げようとした彼女を捕まえて笑みを浮かべると、反比例するように彼女は表情を曇らせた。
 今年最後のわがままを言えば、ぜひとも彼女の反応が見てみたいところ。
 なんせ、この本は普通の本じゃないからだ。
 本っていうよりは、まぁ、漫画なんだけど。
「本当は、気になるんじゃないの?」
「なっ……! なっ……!?」
「タイトルがタイトルだしね。……気になる? 『ふたりでエッチ』」
「っ……!!」
 ぐいっと顔を近づけて、囁くようにタイトルを告げる。
 すると、さらに頬を染めて困ったように眉を寄せた。
 学生時代。
 珍しく優人が家に来たかと思いきや、人の部屋を散らかすだけ散らかして帰って行った。
 散乱した本や雑誌を片付けていると、見知らぬ本が数冊。
 どれもこれも怪しげな本ばかりで、俺の反応を楽しむために置いていったというのがすぐにわかった。
 すべて返したと思っていたんだが、どうやら1冊だけ残っていたらしい。
 それがまさかこんなタイミングで出てくるとは……。
 まさに、絶好の好機と言わずしてなんと言おうか。
「……なんなら、一緒に読む?」
「読みませんっ!!」
「あ! こら!」
「夕飯の準備!」
 しっかりと捕まえていたのだが、うまく逃げられてしまった。
 ……ち。
 半分本気、半分冗談とは言え見てみたかったのは事実。
 まぁ、無理強いはしないけどね。
 ……さて。手元に残った、この1冊の本。
 んー……とりあえず、いつの日かのためにとっておくか。
 彼女にバレたら、即優人に返されそうだけど。
 まだ赤い顔のままでキッチンに立つ彼女を見ると、自然に笑みが漏れた。

「……あー。やっぱ、年越し蕎麦食べると年末って感じがする」
 夕食後ののんびりした時間を過ごしながら呟くと、片付けを終えた彼女が隣に座った。
「そうですねー。あ、でも、私は紅白見るとそういう気分になりますけど」
「紅白か……。随分見てないな、俺」
「そうなんですか?」
「うん。ひとり暮らししてから、見てないかも」
「じゃあ……もう、6年?」
「かな」
 視線を外して考えてから呟いた彼女の言葉を聞くと、その期間が一層長い物のように感じる。
 ひとり暮らしをして、もう6年も経つのか……。
 その間過ごした幾つもの日々に、こうして年末をともに過ごした女性はいない。
 家に上げたのは、気心知れた男友達ばかり。
 それが今では、こうして休みとなれば一緒に過ごし、そしてそばにいたいと思う特別な彼女とどうやって過ごすかを考えているほど。
 この1年――……よりも短い時間の中で、俺は随分と変わったようだ。
 彼女と出会う前の俺では、考えにすら及ばないほどに。
 ニュースからチャンネルを変えると、聞いたことのある音楽が耳に入ってきた。
 流れるのは、レコード大賞。
 今年の曲がほとんどなのに、なぜか懐かしさがこみ上げてくる。
「……1年、ですね」
「そうだな」
 彼女の呟きに、笑みを浮かべてからそっと顔を伺うと、浮かんでいるのは自分と同じ笑みだった。
 それが、無性に嬉しい。
「……来年も」
「え?」
「来年も、こうしてよう」
 懇願にも似た、言葉。
 それをぽつりと呟くと、彼女が嬉しそうにうなずいた。
 どうやら、そう思っていたのは俺だけじゃないようだ。
「来年も、こうしてましょうね」
「そうだな」
 新たな年へと近づいていく、時間。
 新たな年までは、もう数時間を切っている。
 来年も、ともに。
 ともに過ごせる相手がいる今を、お互いが楽しむように笑みを浮かべた。
「……先生?」
「会えてよかった」
 彼女を抱き寄せると同時に、自然とそんな言葉が漏れる。
 彼女と出会うことができなかったら。
 お互いに、お互いを必要としなかったら。
 今の、この心地いい時間には巡りあえていない。
 そして、誰かを本気で愛しいと思い、すべてを許してもらうことの悦びも知らないまま、また同じような時間をひとりで過ごしていくのだろう。
「それは、私も一緒ですよ」
 はにかみながらも、幸せそうな笑顔。
 自分を受け入れてもらえることが、これほど嬉しいとは思わなかったな。
 軽くうなずいて腕に力を込め、頬にそっと唇を寄せる。
 そうすると、彼女の笑顔はより一層嬉しそうな物へと変わる。
 彼女にそんな顔をさせているのが自分だというのが、心底誇らしくもあり、素直に嬉しい。
「……羽織」
 頬から耳元へ唇を移し、そっと名前を口にする。
 不思議なもので自分は呼んでいる立場なのに、どきっとするのはどうしてだろう。
 彼女の名前を呼ぶ。
 それだけなのに、俺にとっては重要な出来事だから――……だろうな。きっと。
「……祐恭さん……」
 小さいながらも、しっかりと耳に届いた彼女の声。
 それは、誰に呼ばれるよりも愛しく響く。
 自分の名前を呼ばれることが、これほど嬉しいものなんだということも、彼女と出会わなければわからなかったことのひとつ。
「……このまま、年越すか」
「ん……」
 ぎゅっと抱き寄せ、肩口で呟くと彼女もすんなりうなずいた。
 新年までは、もう2時間を切っている。
 こうして彼女を抱いたままでまったりとした時間を過ごしていれば、すぐに新たな年へと移り行くだろう。
 ……それも、悪くない。
 だが、せっかくなら――……。
「え?」
 唇を耳元に寄せたまま、そっと彼女をソファにもたれさせる。
 顔は見えないが、恐らく不思議そうな顔をしているだろう。
 ……それが、どう変わるかな。
 今から言おうとしていることを考えると、つい笑みが漏れた。
「せっかくだから、きちんとしようか」
「……え? 何を……ですか?」
 わずかに身体が震えた。
 ……ふむ。
 もしかして、予想がついたのか?
 それはそれで、好都合。
 少しでも心の準備ができているほうが、彼女にとってはいいだろう。
「納めるものは、納める」
「っ……だからっ……な、にをっ……?」
 わざと息がかかるように囁き、耳元から首筋へ。
 すると、丁度胸元辺りを彼女が手で押した。
 抵抗するのは、これから俺が何をしようとしているのか想像がついた、何よりの証拠だろう。
 だからこそ、もう止めてはやらないけど。

「姫納め」

「なっ……!? そ、そんな言葉――」
「ないけど、初めがあるなら終わりもあるだろ? 仕事納めって言うんだし、似たようなモン」
「あ、んっ……!」
 軽く首筋に唇を落としながら呟くと、ぶんぶんと首を振って逃れようと彼女が腕に力を込めた。
 ま、俺に敵うなんて微塵も思っていないだろうけど。
「違いますっ! それに、今、このまま年を越すって……!」
「変更は、どんな物にでもつきものだよ? それに、せっかく新しいの買ったんだし」
「っ……! あ、あれはっ!」
「あれは?」
 そこで、正面から瞳をあわせてやる。
 もちろん、にっこりとした満面の笑みを添えて。
「……もぉ……普通に年越ししましょうよぉ……」
「人の数だけ年越しがあっても、おかしくないだろ? 俺たちの年越しがダメっていう決まりでもある?」
「そ……それはっ……なんか先生、いじわるですよ?」
「意地悪とは失敬だな。俺はいつだって優しいだろ?」
「いつもは優しいけど……今は……優しく――」
「……何?」
 言い終わる前に瞳を細めて顔を近づけると、困ったように眉を寄せて視線を外した。
 小さく漏らされたため息が少し気になるが、まぁよしとしよう。
「んっ……! だ、からっ……!」
「だから?」
「だからっ……せ、んせっ……ぇ」
 囁きながらも、もちろん手は止めたりしない。
 せっかく思いついたんだし、実行に移させてもらおうじゃないか。
「来年も、いい年にしよう」
「……そう思うなら、離して――」
「ダメ」
「っやぁ……」
 大晦日。
 冬至ではなく、本当は今日が1番夜の長い日なんだと思う。
 ほとんどの人間が、新年を迎えるために起きているし。
 そんな夜なんだ。
 ……朝まで彼女を抱いているのも悪くなんてないだろ?
 もうすぐ迎える新年も、どうか彼女と多くの時間を過ごせる1年であるように。
 今の俺の願いは、たったひとつ。それだけだ。
 なんだかんだ言いながらも、結局俺を許してくれる彼女を抱きしめたままでいると、自然に笑みが浮かんだ。


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