「…………」
 カチャン、と音を立て、スプーンに味見用のスープをすくう。
 そして、口へ。
「……うっ」
 言いようのないしょっぱさと、味わったことのない苦味が容赦なく口いっぱいに広がって、思わず呻く。
 ……うあ。ダメだわ。
 なんでこうなったか知らないけど、ものすごく心折れる。
「え……絵里……大丈夫?」
「だ、大丈夫よ。ほらっ! 気にしないで、向こうで待ってて!」
「ねぇ? 何かあったら、手伝う――」
「ああもうっ! 葉月ちゃんも、向こうで待ってる!」
 ひょこひょこと、キッチンへ顔を覗かせたふたり組。
 その顔には『不安』と『心配』が入り混じったような表情が浮かんでいて、なんだか、ちょっぴり申し訳ない。
「大丈夫よっ! あ、ほら。もうすぐ今日のメインができるから!」
 対面式のキッチンなので、開口部からリビングにいるふたりがよく見える。
 ……だけど、見えすぎるのよね。
 明らかに、ふたりともハラハラしているような視線をあちこちへ向けていて、そのたびにこっちもドキドキする。
 焦がしてるかしらとか、鍋が吹いてるかしら、とか。
 でも、とりあえずご飯だけはさっき炊き上がったから、心配ないわよ。
 万が一のときは、おにぎりかふりかけご飯を食べることができるから。
「……ねぇ、絵里ちゃん……」
「え?」
 なんて思ってたら、あちこちに視線を向けていた葉月ちゃんが私を呼んだ。

「なんだか……焦げた匂いがするけれど、大丈夫?」

「っ……!!」
 バッと顔を向けたのは言うまでもなく、コンロにかけたままのフライパン。
 火を使っているのはそれしかないし、それに……確かにそっちを向いた途端、焦げた匂いが鼻をついた。
「…………」
「…………」
「…………あ……あはっ……あははっ! あははははは!!!」
 憐れむような、今にも泣きそうな。
 そんな複雑なふたりの顔を見ていたら、乾いた笑いが思い切り腹の底から湧き上がってきた。
 ……どうしよう、ごはんの神様。
 っていうか、この状況をなんとかしてくれるなら、『もったいないおばけ』でもいいわ。
「……大丈夫……よね」
 ふたりから視線を逸らして、こっそりと呟く。
 無論、返事はない。
 誰からも。
「………………」
 万が一……いや、もしかしたら……どっちかって言うと限りなく『100%』に近い数字で。
 今夜は、『ご飯』をおかずに『ご飯』を食べるハメになっちゃうほうが確率高いかもしれない。

「いただきます」
 両手を合わせ、箸置きにあった箸を両手で取る。
 今日は、幸い――……じゃなかった。
 残念なことに、おじさまとおばさまは席に着いていなかった。
 なんでも、知り合いの人とごはんを食べに行く約束ができたらしい。
 ……やっぱりあのお二方は、席についている兄妹ふたりとは違って、運という物をがっちり掴んで離さないタイプなのよね。
 どんなに小さな運気でも、逃さずにキャッチする。
 それはやっぱり、絶対条件。
 ……何事にも勝つための。
「いただきます」
「あ、召しあがれー」
 次に箸を取ったのは、私の左斜め前に座っている葉月ちゃんだった。
 ちなみに、その隣には孝之さんが。
 そして、私の左には羽織がそれぞれ座っている。
 ――……ただし。
「…………」
「…………」
 瀬那家のご子息ご息女だけは、未だに箸を取ろうともしていなかった。
「……あのさぁ。絵里ちゃん」
「はい?」
「ちょっと……つかぬことを聞いてもいいかな」
「ええ。なんなりとどうぞ」

「これは何?」

 孝之さんには珍しく、真顔と言うよりはちょっぴりおっかなびっくりみたいな、そんな表情。
 ごくっと一瞬羽織が喉を鳴らしたような気がしたのは、多分気のせいじゃないと思う。
「やだなー。見たままですよー」
「……まんま?」
「はい」
 にこにこにっこり。
 お箸を持って笑って見せると、引きつるように、孝之さんが小さく笑った。
「なんだと思います?」
「ぅっ。……そ……だな……」
「ほらぁ、アレですよ。アレ。子どもがみんな大好きな物です」
「こ、子どもが……? ……あー……。……そうだな………」
 ……ん?
 なんか、泳いでません? その瞳。
 じぃっと観察していたら、まじまじと目の前のお皿を見つめてから、隣の葉月ちゃんにぼそぼそと何かを訊ねたみたいに口元へ手を当てていた。
 ……だけど。
 葉月ちゃんは葉月ちゃんで、かわいく苦笑を浮かべてから――……首をかしげる。
 ……かしげたわね、首を。
 …………。
 ってことは――……。
「…………」
 ちらりと隣の羽織を見ると、案の定彼女は眉を寄せて真剣に悩んでいた。
 食い入るように目の前のお皿の物体を見つめ続け、あれこれと頭の中で幾通りもの答えを導き出している……ように見える。
 ……こりゃ、相当悩んでるわね。
 仕方がない。
 これ以上羽織を悩ませると、そのうちパニック状態に陥りそうな気もするし、この辺でいっちょ答えを言っておいてあげるか。
 そういう意味を込めてお箸を置き、えっへんと胸を張る。
 と、面白いくらい一斉に3人が私を見つめた。

「何を隠そう、コレは絵里ちゃん特製手ごねハンバーグです」

 えっへん。
 自慢げに、高らかと告げてやる。
 どうせだったら、ここで『じゃーん』なんてファンファーレがあってもいい。
 ――……んが。
 なぜかそんなモノも拍手も喝采もなければ、なぜか『へぇ』とか『ほぉ』とかっていう薄いため息みたいなモノしか返って来なかった。
「んー? 何? 羽織」
「えっ!? いやっ……あのっ……お……おいしそうな色、だなぁ、って」
「あら、そう? ちょっと焦げちゃったけどね」
「ううんっ。ほらっ! ハンバーグって、火が通りにくいし……こ、コレくらい焼いてもいいんじゃないかな」
「ふーん。そうなの?」
「え!?」
 知らなかった。
 そぉ。ハンバーグって、火が通りにくいんだ。
 ……あー、なるほど。だから、蓋をするのね。
 っていうか、あの蓋よ蓋。
 いくら透明なガラスの蓋を使ったところで、曇って水滴が付いたら中が見えないじゃない。
 もっとどうにかならないのかしら、アレ。
 お陰で、焼き加減がまったく見えないっての。
「……ハンバーグか……なるほど。てっきり、俺はそぼろか……はたまた、スコッチエッグとかあっち系かと思った」
「そぼろ?」
「ん? いや、こっちの話」
 にっこり。
 今度は、眉をひそめた私に孝之さんが笑みを浮かべて首を振った。
 ……今、何か聞こえた気がしたんだけど。
 なんだかその笑顔で全部ひっくるめて持ってかれちゃった気分だわ。
 まぁいいけどね。
「でも、スコッチエッグって……?」
「いや、なんつーかさ。……こー……このデカさと丸さは……ほら。中に何か入ってそうじゃん?」
「あ、なるほど」
 彼がお箸でつついたのは、お皿の中でもひときわ存在感がある、ブツ。
 言われてみれば、その丸い巨体はまるで中に何かが詰めこまれてそうに見えなくもない。
「……ふぅん……。それじゃあ、今度は何か入れてみますね」
「え」
「んー……オレンジとか、おいしいかも……」
「ッ!? いや! ほら! やっぱ、普通が1番だよな! 普通が!!」
「……そうですか? でも、それじゃ面白くな――」
「いやいやいやいや。やっぱ、料理はその素材の持ち味を生かしてやらないと。な! 羽織!」
「え!? ……そっ……そうだね。オレンジは、えっと……ほら……。……っそう! そ、ソースとかにはいいかもしれないけど、そのままは……やっぱり、ねぇ? 葉月っ!」
「え? うん。そうね」
「だよなぁー! は、ははっ、はははは!!」
「そ、そうだよねっ! それが1番だよねっ! あは、あははっ」
 ……うーん?
 そんなモンなのかしら。
 ……まぁいいんだけど。
 何気に息ピッタリ! って感じの兄妹ふたりを交互に見つめてから、首をかしげる。
 すると、目の端に葉月ちゃんが箸でブツをつついているのが目に入った。

「でも、おいしいよ? コレ」

「「え゛」」
 一瞬。
 私と葉月ちゃん以外の時間が、パキパキーンと音を立てて凍りついたような気がした。
「……おいしい……?」
「うん、おいしいよ。確かに、ちょっと焦げすぎちゃってる所があるけど……でも、それを除けば普通に食べられるし」
「……嘘……。……ホントに?」
「もちろん! わざわざ、嘘ついたりする必要ないでしょう? 作り方自体は間違ってないし……しいて言うなら、少し……独創性を少なくしたら、もっとよくなるんじゃないかな」
 にっこり。
 普段と変わらぬ優しい笑顔でうなずいてくれた彼女は、私の目を見て、ハッキリキッパリがっつりと、間違いなくそうコメントをくれた。
「このスープも、もう少しお塩を少なくして……あとは、少し牛乳を入れると臭みがなくなるかな」
「……これも……? え? コレも大丈夫なの?」
「うん。そう思うけど?」
 ……あれ。
 あれあれあれあれ?
 ……なんだろう、この気持ち……。
 もくもくとお箸を動かして、続きを口へ運んでくれている葉月ちゃん。
 その様子を見つめていたら、ほかほかほんわりと、段々心の臓あたりが温かくなってきたように感じた。
「……葉月……?」
「え?」
「おまっ……え? 何? ギャグ?」
「……? 何言ってるの? たーくん」
「うそ……。葉月……ホントに……?」
「……もう。羽織まで、なぁに? 変な顔しちゃって。本当よ、もちろん」
 心配そうな、不安げな、疑わしげな声がふたつ。
 間髪入れずに、葉月ちゃんへ飛んだ。
 だけど彼女は、私に言ってくれたときと寸分違わぬ顔で、同じコメントを繰り返すだけ。
 それを見ていた羽織と孝之さんは、葉月ちゃんとブツとを見比べながらもう1度顔を合わせた。
「……昔のお父さんの料理――……ふたりとも、知ってるでしょう?」
「う」
「あ」
 小さく小さく苦笑とともに囁かれた言葉で、ふたりの動きがぴたっと止まった。
 それこそ私のときとは違い、まったく微動だにしない上――……なぜか、少し青ざめた顔で。
「……5、6年前からはちゃんと食べれるようになったんだけどね」
「…………そういえば、恭介さんの前歴があったな……」
「そうだね……そんなことも、あったよね……」
 しみじみと言うか、げんなりと言うか。
 どこか遠くを見つめる羽織と孝之さんを見て、葉月ちゃんも小さく笑った。
 ……だけど。
 彼女は、相変わらず私の『手ごねハンバーグ1号』を食べ続けてくれている。
 しかも、明らかに『真っ黒』に変色した部分を除いた、68%程度の部位を完食済みときたもんだ。
 ……これは……。
 こ、これはこれはこれはっ、もしかして――……いや、もしかしなくても……アレよ!
 歴史的大発見と言うか、史上稀に見る稀少な理解者と言うか……!!
「葉月ちゃんて……もしかして、地上の天使?」
「……え?」
 一瞬、ぱぁああっと眩しい後光が差したように思えて、瞳を細めながら口元が緩んでいた。
 ……あぁ、神様。
 なんか今、よくわからないけれどものすごくありがたい物を見たような気がします。
 ……なむなむ、感謝感謝。
 両手でお箸を持ったまま手を合わせると、自然に深々と頭を下げていた。
 捨てる神あれば、拾う神あり……ね。まさに。
 今度みんなに自慢してやろう。
 世界初! そして、ただひとり。
 私の料理を褒めてくれただけじゃなく、『見込みあるよ』と太鼓判を押してくれた救世主のことを。


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