「あら、これ安いわー。いいわねぇ。冬瀬は野菜が安くて」
「……あ、そう」
 カートにカゴをふたつ乗せた母に、一応相槌を打っておく。
 ……野菜、ね。
 そんなモノを見ながら会話する相手なんて、それこそ羽織ちゃん以外には考えられなかったんだけど。
 視線はいろいろな物を捕らえているが、当然、俺の思考は遠くへ飛んでいて。
 微妙に母との会話を聞いているようで聞いていない。
 多分、ここで『で、どう思う?』なんて意見を求められたとしても、今の俺には答えることができず、それどころか反感を買うだけってのは想像に容易い。
 ……そもそも。
 なぜ、午前中まで彼女とともにすごせていた俺が、今ここに母親と一緒にいるかというと――……それは割と、簡潔にまとめることができる。
 お袋が突然、彼女に労いの手料理をこしらえようなんて奇天烈発想を持ってきたからだ、と。

「…………」
 …………はぁあ。
 最悪だ。
 わざわざ考えずとも結末が予想できて、また、頭の隅が痛んだ。
 ……つーか、手料理って。
 しかも、労いって。
 いったいどんだけアンタは偉いんだ、とつっこんでやりたい。
 そもそも、お袋が自ら料理をしようなんてときは、それこそ年に3度あるかないかなのに。
「……はー……」
 よりにもよって、そんな天変地異に俺と彼女がふたり揃って巻き添え食らわなくてもいいじゃないか。
 ……ある種の幸運と言えばそうかもしれない。
 だが、だったらまだ俺はもっと違う物を選びたいと思う。
 そりゃそうだろ?
 誰だってわざわざ、自ら願ってまで地雷を踏みたくはないだろうに。
「…………」
 嬉々として様々なものをカゴに容赦なく突っ込んでいるお袋を見たら、ものすごく不安と同時に大きなストレスを感じた。
 つーか、だ。
 ほいほいと躊躇なくカゴにぶち込んでるけど、はたしてそのうち幾つの食材の調理法を知ってるんだ。
 不安だ。
 激しく不安だ。
 ……まぁ、今日これから彼女が家に来てくれるってなら、話は別だけど。
「…………」
 でも、それはそれでやっぱり――……ありえないよな。
 あの……あんな、俺の知らない男と一緒にいるのを見てしまったら。
 少なくとも、彼女が自ら赴いてくれる保証と希望はないに等しい。
「……はー……」
 彼女ならば、こんな買い物の仕方絶対にしないんだけどな。
 やっぱり、それこそが普段料理に携わってるかどうかのラインなんだろう。
 と、久しぶりに……それこそ、ものすごく久しぶりにお袋の買い物へ付き合っていたら、彼女の有難さが身に沁みた。
 ……ホントに、俺って恵まれてるよな。
 あんなよくできた彼女と一緒にいられて。
「あらー、コレおいしいわねー」
「そうでしょう? お客様、今ですと3つで千円! お買い得ですよー」
「あらあら、安いわねぇ。いただこうかしら」
「ありがとうございますー!」
 ……はたり。
 どこかから聞こえた、よく抜ける高い声。
 足を止めてようやく自分の居場所を再認識すると、びっくりするくらいの勢いで顔がそちらへと向いた。
「お客様、こちら新製品の牛乳なんです。いかがですか?」
「あら、そうなの? それじゃ、早速……っ……おいしーい」
「今ですと、もれなくこちらのウシ君ストラップが付いてきますよ」
「あらっ! ウチの息子にぴったりだわー。ありがとう、それじゃあ2本いただける?」
「ありがとうございますーっ」
「……ッ……!!」
「あっ! お客様!?」
 ぞわぞわっと鳥肌が立ったのは、いったいいつ振りか。
 脱兎の如く母に近寄り、ガーッと音を立ててカートごとその場を去る。
 ……あぁもう、ああもう……ッ……!!
 頼むから、もう少しキチっとした買い物をしてくれよ!
「んもー、なぁに? 祐恭ったら。せっかくお姉さんがストラップ――」
「いらないだろっ!!」
「……そぉ? でも、あのヨーグルトとかもおいしそ――」
「だからっ……! イチイチ試食試飲に捕まるなって!」
「え? でも……」
「でもじゃない!!」
 なるべく声を抑え気味にしながら、だけどしっかりと灸をすえる。
 ……これじゃどっちが親だかわからないだろうが、ホントに。
 ああ、ものすごく疲れた。
 恐ろしく身体が重たい。
「まー……久しく会わない内に、随分と堅実になったのねぇ」
「……そういう問題じゃないだろ……」
「そお?」
 …………はー……。
 なんか、よく俺無事だったな。今まで。
 ほかを知らないってのは、ひどく恐ろしいものなんだな。
 改めて、羽織ちゃんという有識者を得た今の自分に感謝していた。
「えーっと……それじゃ、あとは……」
「は? ……何? まだ買う気か?」
「あら。そうよ? だって、明日のパンとか……」
「……じゃあこの袋はなんだ」
 けろりと言ってのけたお袋に、カートへ引っかかっていた茶色いビニール袋を叩いてやる。
 重たいらしく、持ち手の部分が若干伸びてる感のあるソレ。
 中身は言わずとしれた――……。
「……あら?」
「あら、じゃないだろ」
「いつの間に……って、ああそうね。そういえば、さっき買ったんだったかしら」
「…………」
 けらけらと笑われ、そんなお袋を見ながらまたため息が漏れた。
 ……若年性の病気じゃないだろうな……。
 自分から『ここのパン屋さんおいしいのよ』とか言ってごってり買ったクセに。
 本気で、いろいろな心配が頭を巡る。
「んー……それじゃまぁ、こんなものかしら」
「……やっと終わった……」
「ん? 何か言った?」
「いや、別に」
 きょとんとしたお袋に肩をすくめてから首を振り、改めてあたりを見回す。
 ……そりゃ、いないよな。
 さっきまで、すぐそこの通りを歩いていた羽織ちゃん……と、知らない男。
 ふたりの姿は、さすがに時間が経った今だからこそすでに見当たらなかった。
「…………」
 どこに行ったものか。
 募るのは、当然ながら不安ばかり。
 ……クソ。
 落ち着かないし、本当ならばいてもたってもいられない。
 だが。
「……っ……またかよ……!」
 ふと視線をお袋へ戻すと、また性懲りもなく試食販売に捕まってあれこれといらん物を勧められていた。
 アレを放置しておいたら……なんて想像は、本当に容易い。
「ったく……!!」
 もちろん、愛しの彼女の動向が激しく気にはなる。
 だが、今はまずこっちが先。
 妹や弟に『お兄ちゃんがついていながら』などと妙な叱責をもらわぬように、また、お袋の元へと小走りで向かうのだった。
 ……はー……。俺は子守りのためにいるんじゃないぞ。
 子の心親知らずな現状に、やっぱり深いため息が漏れた。


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