将を射んと欲すれば、まず馬を射よ。
 戦国時代の乱世。
 そんな言葉が生まれたという。
 ……しかし、ホントに的確な言葉だな。
 まさに、今の俺にもぴったりと恐ろしいくらいマッチしているから。
 でも……少し、違うか。
 目の前にある射るべき対象は、ちょっとやそっとの矢や剣で倒れることのない、屈強な賢馬であるに違いないから。
「…………」
「……ごめんなさい、先生。まさかこんなことになってるなんて、思わなくて……」
「いや……別に、羽織ちゃんのせいじゃないよ」
「でもっ! ……ごめんなさい」
「いいんだよ。大丈夫だから」
 所変わって、小さなカフェの1番奥まった席。
 そこに場所を移したものの――なぜか第2ラウンドが幕を開けようとしていた。
 俺の隣には、ずっと捜し求めていた羽織ちゃんいる。
 だからこそ、俺としては何ひとつ申し分ない……のだが……。
「…………」
 テーブルを挟んだ向かいには、ひどく機嫌が水平を保っていない葉月ちゃんの父こと……瀬那さんがいて。
 ……あー……。
 まるで、蛇に睨まれている蛙よろしく、ものすごく胃に穴が開きそうなほどの雰囲気をかもし出していた。
「瀬尋君と言ったか」
「っ……はい」
「君は教師だそうだな」
「そうです」
 突然始まった、詰問口調の第2ラウンド。
 まるで、警察の取り調べさながら。
 葉月ちゃんと話していたときとは180度違い、まったく声に温かさが滲みもしない彼に視線を向けるものの、目が合ったら石にされそうな勢いの言葉が飛んできた。

「教え子に手を出すことは、許されると思っているのか」

「っ……」
 それは、と言いかけて言葉に詰まる。
 それが倫理的にもあってはならないことだし、決して許されることじゃないというのも重々承知だから。
 ――が、しかし。
「でも、伯父さんと伯母さんもそうでしょう?」
「……葉月。お前は少し黙ってなさい」
「そうはいきません。……ねぇ、お父さん。瀬尋先生は、羽織がお付き合いをしている方なんだよ?」
「ッ……だから、それは――」
「それに、許してあげるも何も、伯父さんと伯母さんはちゃんと許してるのに……。お父さんの出る幕じゃないでしょう?」
「くっ……葉月。……お前な……」
 ほよん、とした顔で意外と鋭い助け舟を出してくれる葉月ちゃん。
 ……これは。
 目の前では『娘にはからっきし弱いお父さんの典型』みたいな姿が繰り広げられていて、俺と羽織ちゃんは、さっきから何ひとつとして言葉を発していなかった。
 ……強いな葉月ちゃん。
 気分的には、大船どころか、絶対無敵な軍艦にでも乗り込んでいる気分だ。
「とにかく。お父さん、瀬尋先生にちゃんと謝罪してね」
「なんで俺が!」
「当然でしょう? 羽織と私を勘違いして怒鳴ったりして。間違いとはいえ、十分よくない行為だよ?」
「う。……それは……」
 言葉に詰まった彼を見て、ようやく我に返った。
 ……いや。
 むしろ、今の葉月ちゃんの言葉で、と付け加えてもいいと思う。
「すみませんでした」
「ッ……なんだね、急に」
「いえ、勘違いしたのは自分も同じですから。失礼な真似をして、申し訳ありません」
 1度背を伸ばしてから、彼に向かって頭を下げる。
 すると、これまで俺に向けていた凍てつくような眼差しではなく、驚いたように瞳を丸くした。
「…………」
「……わかってる」
 ゆっくりと下げた頭を元に戻すと、まるで隣にいた葉月ちゃんにでもせっつかれたように、彼が小さく咳払いをした。
「……すまなかったな、瀬尋君。こちらも勘違いをしていた」
 1度視線は逸れたものの、確かに下げられた頭。
 それで、思わず慌てて手を振っていた。
「いやっ……あの、申し訳ないです。そんな……こちらこそ、無礼なことを……」
「……そうだな」
「お父さん!」
「……う」
 この子にしてこの親あり……か?
 いや、でもなんか違うような気もするけど。
 しかし、父親ってつくづく娘に弱いんだな。
 ……なんて、相変わらず続いているふたりのやり取りを見ていたら、そんなことが浮かんだ。
「もういいだろう?」
「え?」
「失礼する」
「……あ……」
 ため息をついた彼が、葉月ちゃんを見てから席を立った。
 伝票を手にレジへ向かい、会計を済ませようとする。
 ……って、いや、だから!
「自分が払います」
「そんなわけにいかないだろう。気持ちだけ受け取っておくよ」
「っ……」
 慌てて彼の元へ向かうと、一瞥してから小さく笑った。
 ……あれ。ホントはこの人、いい人なのか?
 それこそ、孝之にも似た……あー。
 あーー。なるほど。
 孝之から聞いたことがある。
 歳の近い叔父貴がいる、と。
 そして、その人がある種の目標でもある、と。
 ……この人だったのか。
 対峙していたときとは違い、『悪かったね』と苦笑を見せた彼は、まさに“大人”の男そのものだった。
「もう……お父さん! 瀬尋先生、ごめんなさい」
「いや、俺のほうこそ。……ほんと、失礼しました」
「とんでもないです」
 ふたたび頭を下げた葉月ちゃんへ同じように謝罪し、背を伸ばす。
 葉月ちゃんは何やら言っていたが、それを聞きながらひどく申し訳なさそうな……かつ、つらそうな顔を彼はしていた。
 というか……ひょっとしなくても、アレだな。
 俺を葉月ちゃんの彼氏と勘違いしたということは、孝之と葉月ちゃんのことをまったく知らないんだろう。
 というかそもそも、葉月ちゃんがアイツへ向けている感情すら気づいていないんじゃ。
「……え?」
「がんばって、って伝えといて」
「えっと……誰にですか?」
「葉月ちゃんの想像したヤツ」
 ご愁傷様。
 そんな思いを込めて、苦笑を浮かべる。
 すると、初めのうちは不思議そうな顔をしていたものの、ようやく意味を理解したのか、瞳を丸くして苦笑してみせた。
「……用事って、彼と出かける予定だったの?」
「うーん……そうといえばそうなんですけれど、なんか、お兄ちゃんがこじつけたっていうか……」
「え?」
「よくわからないんです。確かに、会うのはすっごく久しぶりなんですけれど」
 すぐ隣へ歩いてきた羽織ちゃんを見ると、どこか腑に落ちてない表情で首をかしげた。
 となると……考えられるのは、ひとつ。
 孝之が、身の保身のために羽織ちゃんを売ったってことだな。
 ……なんでだ?
 それこそ、娘の葉月ちゃんだけでも十分なはずなのに。
 そこまでして守りたい何かは、なんだ。
 ……って、いくら考えたところで理由なんてわからないけど。
 とりあえず、次に会ったときは改めて口に出しておく。
 ご愁傷様、と。
「このあとは、予定あるの?」
「あ、ううん。もう買い物も終わったし、帰るだけだと思いますよ」
「それじゃあ……ちょっとだけ、うちに来ない?」
「え?」
「……明日からまた“先生”するから。今日だけ……ダメ?」
「っ……だめじゃないです」
 ほんの少しだけ顔を近づけ、目の前でささやく。
 すると、意外そうな顔をしたものの、彼女はふるふると首を横に振った。
 まだ、日は高い。
 彼女を送り届けるにしても、十分に時間は残されている。
 ……ああ、神様。
 なかなかな計らいを、どうもありがとう。

「羽織、帰るぞ」

「っ……な……!」
 と思った矢先、よく通る声が響いた。
 慌ててそちらを見ると、店から出た彼がこちらを見つめていた。
「お父さん!」
「今日はもう日曜だ。明日から学校だろう? 学生の本分はなんだと思ってる」
「ぅ……それは……」
「だいたいお前は受験生だろう。遊ぶのはもう少しだけがまんできるよな?」
 眼差しは厳しい。
 そして、言い分は……ごもっとも。
 慌てたように葉月ちゃんが彼の腕を引いているが、頑として譲らない眼差しを向けている。

 ……詰めが甘かった……!

 悔しいが、そう実感せざるを得ない。
「……はー。行って」
「え……?」
 答えなんてひとつしかない。
 なんせ彼は、俺よりも遥かに腕の立つ(つわもの)だから。
「でもっ……」
「いいんだよ、俺は。……それに――」
 今ここで彼女を行かせなかったら、どうなると思ってるんだ。
 なんせ彼は、瀬那先生の弟。
 ……身内に勝るモノはないってな。
 何を吹き込まれるかわかったモンじゃないというのもあるし、先ほどあれだけの啖呵を切った事実があるからこそ、俺が強く出れるはずはなかった。
「はぁ……」
 頭を下げてから彼の元に向かった羽織ちゃんの背中を見つつ、ため息が大きく漏れる。
 ……そういや、孝之も言ってたっけな。
 その叔父貴には散々いろんなことを教わったからこそ、どうしても頭が上がらないと。
「…………」
 まさか彼と会うことになるとはね。
 しかも俺まで、孝之と同じ立場になり下がるとは。
「……はぁあ……」
 いったい誰がこんなこと想像できただろう。
 あまりにも厳しい現実に直面して、自分の進む道がこれからは一層平坦じゃなくなったことを実感した。
「瀬尋君」
「……っはい」
 思わず視線を落としていたら、遠くから名前を呼ばれた。
 すでに、反射になって染み付いてるんだろうか。
 弾かれるよりも早く、そちらへ顔が向く。
「ひとつ忠告しておくが――俺は、兄貴と違って陥落は難しいぞ」
「え……」
「まぁ、そのほうがいろいろと励み甲斐があるよな」
「……な……」
 かつかつ、と靴音を響かせながら、彼はそんなセリフを残してその場を去った。
 あとには、なんとも言いようのない重たい空気と気持ちだけ。
 な……んてことを。
 思わず、冷や汗が背中を流れる。

 難攻不落。

 不意に浮かんだ言葉で、一瞬眩暈がした。
 いや、別に瀬那先生が容易いとかそういう意味じゃない。
 そうじゃないんだが……。
「はー……」
 勘弁してくれ。
 別にこれまでぬくぬくと過ごしていたつもりはなかったんだが、思いも寄らぬところで、思いも寄らぬことを突きつけられたわけで。
「…………」
 彼が最後に見せた口元だけの笑みが、どうしても『いつでもかかって来るんだな』なんて言っているように見えて仕方がなかった。

 ――ちなみに。
「もぅっ! 先生、なんですかこれはっ! ……こんなに買って……」
「……いや、それは俺じゃな――」
「ああもぉっ……まだ、これも食べれそうなのに……もったいないですよ?」
「あー……ごめん」
 後日、羽織ちゃんが家に来たとき、大量に冷蔵庫へ詰め込まれている食材を見て怒られたのは……言うまでもない。
 いや、若干違うとは思うんだけどさ。
 でもそりゃあ……彼女にしてみれば、俺が大量に買い込んだように見えるわけで。
「…………」
 とはいえ。
 お袋の、思いつき料理と称したゲキブツを食べさせられなかっただけ、感謝してもらいたいものだとは思うんだけどね。


ひとつ戻る  目次へ