「……羽織。あんた、珍しいわね」
「え?」
 金曜の化学の授業。
 無事にそれを終えて立ち上がろうとすると、絵里が不思議そうな顔を見せた。
 ……珍しい? 何が?
 別にいつもと違った髪型も服装もしていないし、ましてやこんな1日の終わりに変わったところなんて何もないと思うんだけど……。
「珍しいって……何が?」
「何が、じゃないわよ。寒がりのあんたが、ブレザー脱いでるじゃない」
「……あー、そうだね」
 そう言われれば、そうだ。
 授業中に暑くて、ブレザーの上着を脱いだんだっけ。
 ……忘れてた。
 今日は朝から冷え込んでいるというニュースを見たんだけれど、今はそんなことないんだよね。
 むしろ、ちょっと暑いくらい。
 だから、今はニットのベストの格好。
 それでも、やっぱりちょっと暑かった。
「だって、暑いじゃない? 今日」
「……は?」
「え? ……あ、じゃあアレかな。この部屋が暑いのかも……」
 だけど、ぐるっとあたりを見渡してみても、誰も自分のように暑そうな子は見当たらなかった。
 ……あれ?
 みんな、暑くないの?
 絵里を見ても……確かに、暑くはなさそう。
 というよりも、むしろものすごく怪訝そうな顔をしている。
「……あれ?」
「あれ、じゃないでしょ」
「あぃたっ!」
「っ……ちょっと、あんた少し熱いわよ? 熱あるんじゃないの?」
「え? ……そう?」
 眉を寄せた絵里がぱちんっと音を立てて額に手を当て、さら怪訝そうな顔を見せた。
 ……そうかな……。
 熱?
 んー、でも今日は朝も普通にごはん食べれたし、お昼もちゃんと食べたよ? だから、今だって別に………………確かに、少し熱い気がする。
 けど、寒気はないし……なんだろう。
「でも、大丈夫じゃない?」
「……大丈夫じゃないでしょ。今日は部活やめて帰ったら?」
「んー……そうしたほうがいいのかな」
 まぁたしかに、もし自分が風邪を引いているのであれば、絵里の言う通りにしたほうがよさそうだ。
 ヘタに風邪菌を蔓延させても申し訳ないし……この時期、いろいろとシャレにならない。
「祐恭先生だって、風邪引いてるって聞けば無理強いしないでしょ?」
「うん。……だと思うよ?」
 苦笑を浮かべると、呆れたように絵里がため息をついた。
 ……だ、だって。
 あんまり自信ないんだもん。
 週末しか会えないからっていうのもあるけれど、今週末はちょっと特別だった。
 というのは、この前私が見たいと言った洋画がスカパーで放送されるのだ。
 彼の部屋に行ったときに番組ガイドで見つけ、違う映画を見たがっていた彼と勝負して手に入れたチャンネル権。
 どうしても見たくて、じゃんけん3回勝負をやったんだけど……。
 あれだけ見たいって言ってたのに、行かないなんて言ったら……先生、どんな顔するだろ。
 それが、少し心配だった。
 ……けど、風邪をうつしちゃうわけにいかないもんね。
「…………」
 絵里に促されて教室に向かう途中、ずっとどうやって切り出すかばかりを考えていた。
 ……どう言ったら、1番いいかなぁ。
 不自然じゃなくて、さりげない言い方。
 そんな言い訳というものが存在しないのは、わかってるんだけど。
 ……でもまぁ、普通に風邪引いてるからと伝えればいいよね。
 熱っぽいらしいし。
 ……うーん。あんまり自覚ないんだけどなぁ。
 頭も喉も痛くないし、咳も出ていない。
 そういった身体的特徴がないからこそ、このときはイマイチ実感できなかった。
 そう。
 ――……この、翌日になるまでは。

 ……だるい。
 だけじゃなかった。
 寒いし、少し喉が痛い気もする。
 そして何よりもお布団をたくさんかぶっているはずなのに、ひどく寒気があった。
 ……でも。
「っ……ぅ」
 起き上がろうとすると、途端に頭が割れそうになる。
 ……風邪……なのかな。ホントに。
 節々が痛くないから、きっとインフルエンザじゃないと思う。
 だけど、何もこんなときにこんな状態にならなくてもいいよね……。
 ぼーっとする頭で寝返りを打ちながら、少しだけ神様を恨んだ。
 ――……昨日。
 素直に風邪だと告げると、彼はとても心配してくれた。
 逆に、いつもより強く家に来てほしいと言われたくらいだ。
 でも、風邪をうつすわけにはいかないから……と丁重にお断りして、部活を休んで帰ってきた。
 夜はしっかりごはんを食べて、お風呂に入って……早々に休んだんだけど……。
 ……なんていうタイミングの悪さなんだろう。
 お父さんは、先日から東京で行われている英語関係のセミナーで出張しており、帰ってくるのは今日の夜。
 お母さんは、実家に顔を見せがてら行ってしまっているし……お兄ちゃんはお兄ちゃんで、昨日から家に帰ってすらこなかった。
 さすがに熱があるのを知ったお母さんは家に残ると言ってくれたんだけど、ずっと前からおばあちゃんが会えることを楽しみにしていたので、今さら予定を中止してほしくなかった。
 それに、きっといつものように大したことないと思っていたから。
 ……なんだけど……。
「はぁ……」
 寒い。
 ぎゅっと両肩を抱いて、何度も寝返りを打つ。
 ……暖房とか入れたほうがいいのかなぁ。
 あ、でも……乾燥するとよくないよね。
 夏風邪と違って、この時期の風邪のウィルスは湿気に弱いって言うし。
 じゃあ……加湿器……?
 ええ、そんなのどこにあったかなぁ。
 咳が出ないのが幸いだけど……でも、家にひとりで寝込んでいるという、この状況。
 これは、なんとも言えない孤独感を非常に強くさせるとわかった。
 ……誰でもいいから、早く帰ってきて。
 荒くなる息をついて瞳を閉じたまま、自然にそんなことばかりを強く願っていた。

「…………」
 彼女の具合がよくないらしい。
 そう聞いて、かえって離れることが不安だった。
 もちろん、俺だって今朝の時点で電話を入れようと考えた。
 だが、もし寝込んでいたら……と思うと、その行為は自然に阻まれる。
 ソファにもたれながらテレビをつけているものの、頭には一向に中身が入ってくるわけもなく。 
 ただただ時間だけが過ぎ、10時を少しすぎてしまった。
 彼女からの、風邪という言葉。
 普段病気らしい病気をしたりしないからか、やはり心配になる。
 ……それに、今週末はお袋さんが不在だと聞いていて、だからこそ何も気に病むことなく一緒にすごせると思っていた。
 それが、ここに来て……だ。
 彼女に会えないのはもちろん寂しいが、それ以上に心配が募るわけで。
 熱を出して今ごろ苦しんでるんじゃないかと考えると、いてもたってもいられなくなる。
 そもそも、孝之が看病している姿は思い浮かばないし。
 だいたい、アイツ人の看病なんてしたことないだろ。
 ……まあ、俺自身も人に自慢できるほどの経験も知識もない。
 だが、相手が彼女となれば話は違う。
 できないことは多いかもしれないが、それでもそばについていてあげたいわけで。
 自分がいない場所で苦しんでいる姿を考えると、非常に苦しくなる。
 ……やっぱり、電話しようか……。
「っ……」
 などと考えていたら、ふいにスマフォが震えた。
 とはいえ、相手は彼女ではなく――……兄貴だったが。
「もしもし」
『今、いいか?』
「ああ。……どうした?」
 いつもと同じ調子の声に訊ね返すと、小さくため息をついてから続けた。
『今、お袋から電話あったんだけど。羽織、家で熱出して寝てるらしいんだよ』
「……だろうな。昨日から調子悪そうだったし」
『なんだけど、家にひとりなんだよ。アイツ』
「……は?」
 思わず、口がぽかんと開いた。
 家に……ひとり? ってのは、どういうことだ。
「え? なんでだよ。お前は?」
『いや、俺はちょっとヤボ用で昨日から帰ってなくて。親父も出張でいないし』
「は……!? じゃあ何か? 今ごろ、もしかしたら家でひとり倒れてるかもしれないってことか!?」
『っ……かも』
「何!?」
『いや、わり。よくわかんねーけど』
 あくまで、想像だぞ?
 などとわけのわからないことを続けた孝之を怒鳴り、キーケースと上着を掴む。
「お前な!! どうすんだよ! 今ごろひとりで最悪な状態になってたら!!」
『そうは言っても……。いや、俺もアイツが調子悪いって知ったの、今だし』
「そういう問題じゃないだろ! お前、今から帰ってやれないのか?」
『あー……ちょっと無理だな。今、県外だし』
「県外!?」
 予想外の答えに大声で返すと、バツが悪そうに笑いながらうなずく姿が目に浮かんだ。
 おい。……お前マジか。
「……もういい。俺が今から様子見に行く。……けど、鍵とかってないのか? 合鍵とか」
 行ってインターホンを鳴らしてもいいが、それで出てこれない状態を考えると、正解とは思えない。
 せめて、どこかに鍵があればいいんだが……。
『あー、多分お袋が置いてってるよ。玄関トコに』
「玄関? 玄関の、どこだよ」
『いいか? 一度しか言わないからな。しっかり覚えろ』
「……は……? ……まぁいい。で? どこだ」
『階段上がりきった場所から3歩右に進んで1歩左に入ったところにある石から数えて、15歩目のブロックの1番左』
 …………ちょっと待て。
 なんだって……?
「待て。それはなんだ。宝のアリカか?」
『まぁ、ある意味宝だろ? ポストとか鉢植えなんてトコにあるのは、全部ダミーだからな』
「ダミーってお前…………あのな。お前の家はいつからスパイ対策するようになった」
『うるせーな、俺に言うなよ。お袋に言ってくれ』
 ……まぁいい。
「えーと? 階段から3歩右に行って、左に入って……だっけ?」
『まぁそんなトコ。わかんなかったらブロックの中見ていけばいつかは合う鍵にぶち当たる』
「……ちょっと前。それじゃお前、あんまり隠してる意味ないだろ」
『だから、俺に言うなって』
 ともあれ、鍵があるならば都合がいい。
 孝之の電話を切って玄関に向かい、とっとと彼女の家へと向かうべく靴を履く。
 ……どうか、無事でいてくれますように。
 どうしても、ひとりで熱に苦しんでいる姿が浮かんでしまい、簡単には振り切れない。
 ホントに大丈夫だろうな……。
 実際この目で見ないと、嫌な考えばかりがあとからあとから浮かんできてしまい、心底イヤだった。
 救急車、なんてことにならないようにと願いつつ、鍵をかけてから早々にエレベーターホールまで向かう。
 無事でいてくれ。……頼むから。
 今の願いは、ただそれだけだ。


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