「……先生、あったかい」
「ったく。もっと早くくればいいのに」
「だって……」
 そっと彼を見上げると、くすくす笑いながら私を見下ろした。
「……で? どうだった?」
「え?」
「俺の射形」
「……あ」
 少し眉を寄せて睨まれ、思わず小さく笑う。
「カッコよかったです」
「……ホントに?」
「うんっ。すごくきれいで……真剣な目をしてて。それに! 袴じゃないですか」
「まぁね」
「すごく……本当に、カッコよかったの」
 そう。
 彼が今着ているのは、弓道衣と袴といういでたち。
 これまでまったく見たことがなかった姿だけに、ついついまっすぐ見られないほどのカッコよさを感じる。
 なんでも、ジャージを持ってきていないことを女将さんに話したら、それじゃあって貸してくれたらしい。
 ……女将さん、ステキ。
 内心彼女へ拍手を送るとともに、かなり感謝していた。
「……えへへ」
 彼を見上げながら、また頬が緩む。
 だって、本当にカッコいいんだもん。
「惚れ直した?」
「うんっ」
 まったくブレることなく素直に即答すると、嬉しそうに彼が微笑んでくれた。
 すごく……優しい笑顔。
 思わず、その頬に手を伸ばす。
「……弓道部とどっちがいい?」
「え?」
 瞳を閉じた彼が、そっと呟く。
 ……ん?
 どっちが……って……えっと、どういうことなんだろう。
「えっと、何がですか?」
「だから。カッコよかったんだろ?弓道部」
 …………?
「そんな話、しました?」
「したんだよ。昨日、彼らの練習を見にきたとき」
「……あ。ああー、あれですか?」
「あぁ、じゃない。……ったく」
 ふい、とそっぽを向いてしまった彼の仕草が少しだけかわいくて、くすっと笑ってから首を横に振る。
 私が言ったセリフ。
 その、意味を告げるために。
「あれは、別にあの弓道部の人たちを言ったんじゃないんですよ」
「……え?」
「弓道をやってる人、っていう意味で言ったんです」
 ぽつりと呟くと、彼がうっすら瞳を開けてから額を合わせてきた。
 それは、ちょっと疑っているような感じだったけれど、すぐに違う雰囲気になる。
 ……ほ。
 彼の表情が緩んだのが目に見えてわかって、身体から少しだけ力が抜けた。
「そうなの?」
「うん。なんか、真剣にやってるのって、カッコいいじゃないですか。男の人でも、女の人でも」
 にこっと笑うと、少し困ったように彼が笑った。
 そして、そのままぎゅっと抱きしめてくれる。
「……なんだ」
「? ……どうしたんですか?」
「心配したよ。……ほっとした」
「っ……」
 ゆっくりと頬に手を当てた彼が、そのまま頬へ口づけた。
 さらりと彼の前髪が当たって、くすぐったさに身をよじる。
 けれど、まるで『逃がさない』とでも言わんばかりに、彼が腕へ力を込めた。
「……でも」
「ん?」
 そんな彼の瞳を見つめて、言葉を続ける。
 今なら、言える。
 これだけは。
「……先生の袴姿は、特別だから」
 頬が染まるのがわかったけど、言うって決めたんだ。
 彼に聞いてもらうんだ、って。
 ……だって、本当に特別なの。
 私の、すべてにおいて1番の人だから。
「すごく、どきどきしたんです」
 彼を見たまま微笑むと、一瞬目を見張ってからぎゅっと抱きしめてくれた。
 肩へ回された腕が力強くて、少しだけ息がつまる。
 でも、本当に一瞬。
 おずおずと私も腕を回すと、耳元で小さなため息が聞こえた。
「せ、んせ……?」
「……そんな顔するな」
「っ……」
 吐息交じりの言葉に、思わず鼓動が早くなる。
 頬に唇を寄せられてすぐ、瞳を覗きこまれて喉が鳴った。
 ……きれいな瞳。
 双の瞳を見ていると、ふいに距離がゼロになる。
「んっ……」
 舌先で撫でるように唇を舐められた。
 くすぐったいような、変な感じ。
 ……でも、嫌なんかじゃない。
 舌で唇をこじ開けられ、舌先が触れると、そこからぞくっとした快感が広がった。
「ん……」
 何度か絡めるように軽く吸われ、そのたびに甘い痺れが走る。
 ……好き。
 先生のしてくれるキスは甘くて……すごく気持ちいい。
 これだけで、すぐに落ちてしまいそうになる。
 何度されても慣れることがない、特別なもの。
 崩れないようにしっかり身体を支えてくれながら繰り返される口づけは、あまりにも甘美で『酔う』という言葉そのもの。
「……ふ」
 唇が離れてから、やっとのことで息をつく。
 けど――……。
「んっ……!」
 すぐにまた塞がれてしまった。
 いつもと少し違う、優しい溶けるようなキス。
 まるで――……そう、あの日。
 あの、初めて彼とキスをしたあのときのようだった。
 歯列をなぞり、上顎を撫でられ。
 そのたびに、もう――……。
「っ……」
「っと」
 途端、かくんと膝が折れた。
 抱きとめるようにして膝をついたまま座った彼に、身体を預ける。
「……は……ぁ」
 身体に力が入らず、握ることすらままならない手を彼の腕に添えると、足の間に座らされる格好でゆっくりと髪を撫でてくれた。
「……譲らないからな」
「え……?」
「あんなヤツに」
 回してくれた手に力がこもる。
 あんなヤツ、って……?
「……好きなタイプがそうだからって、俺の彼女なんだ」
「っ……」
 真剣な眼差しを向けられ、思わず目を見張る。
 ……慶介君のこと、だ。
「……何?」
「えと……そんなふうに言ってくれるなんて、思わなかったから……」
 思わず彼を見たまま、ぽろっと本音が漏れた。
 あ。
 え……!?
 もしかして、先生……その顔、あの……怒って――……!
「あ、えっと、そういう意味じゃなくて……!」
 慌てて首を振って訂正するものの、眉を寄せて瞳を細めた彼に、必死の素振りは映っていないのかもしれない。
 彼の怒っているような瞳に、ごくりと喉が鳴る。
「言うに決まってるだろ! 俺がどれだけ――……っ!」
「ごめんなさいっ! 嬉しかったの!! すごく……すごくっ」
 ぎゅ、と瞳を閉じてしがみつくようにすると、程なくして、ため息をついてから背中を撫でてくれた。
「……離してなんかやらないから、覚悟しとくように」
「…………はいっ」
 彼の胸に顔をうずめたまま、深くうなずく。
 それから――……。
「……そう簡単に離れてなんか……あげませんよ?」
「覚悟してるよ」
 おずおず見上げると、くすっと笑ってから頬に手を当てた。
 鼻先を近づけ、もう1度口づけをくれる。
 ……もう先生なしじゃ駄目なんだもん。
 微笑んで彼の頬に両手を添えてから、今度は私が額に唇を寄せる。
 ちゅ、と響いた小さな音に満足して微笑むと、いきなり彼が首筋を舐めた。
「ひぁっ……」
「……そんなかわいい声出して」
「……ん……やっ」
「羽織ちゃんが誘うから悪いんだろ?」
「誘ってなんか、いなっ……ん!」
「……わかった。それじゃ、寝直そうか」
「っえ……?」
 笑いを含んだ囁きに目を丸くすると、あの意地悪な笑みを浮かべた彼と目が合った。
「一緒に」
「っ……! だ、駄目ですよっ! もうすぐ朝食じゃないですか!」
 慌てて首を振るものの、腕時計を見てからニヤリと笑う。
 ……う。なんですか、その顔。
 だめですよ、本当に! 絶対!
「まだ1時間あるじゃない」
「い、1時間しかないんですよ!?」
「いやいや。1時間あれば十分」
「だ、駄目ですってば!」
 身をよじって逃れようとするものの、彼がすぐに腕を回してことごとく阻んだ。
 ……うぅ。
 このままだと、『じゃあ時間がもったいないからここで』なんて言い出しかねない。
 ……って、さ、さすがにそれはないと思うけれど。
 でも!
 これまでにいろいろなことがあっただけに、絶対ないとは言えないのが……ちょっぴり切ないところ。
「イヤなの?」
「っ……だからそれは……」
 やっぱり、彼は意地悪だ。
 眉を寄せて見つめると、くすくす笑いながら唇を親指でなぞられ、そのまま唇を閉じた拍子に指をくわえるかたちになった。
「……なんか」
「?」
「やらしいな」
「っ……」
 瞳を細めた彼が、指を差し入れた。
 目を合わせたまま指先を舌で舐めると、満足げに笑みを浮かべる。
 ……もぅ。えっち。
 先生のほうが、よっぽどやらしい顔してると思いますけれど……とはさすがに言えないものの、あむ、と指先を含むように唇を閉じると、くすぐったそうに笑った。

 ――……その瞬間、音を立てて引き戸が開いた。

「ッ……!」
「……え?」
 入ってきたのは、慶介君だった。
 ばっちりと真正面から見られ、反射的にそちらを向いたために目が合う。
 ……見られた……!
 祐恭先生から離れるだけの余裕がなく、彼の指を舐めたままの姿を。
「……っ!」
 慌てて俯くと、カランっと矢が落ちた音が響いた。
 どくどくと鼓動が速まって、恐くて恐くて、苦しくてたまらない。
 ……どうしよう。
 どうしよう、どうしよう……!
 きゅ、と彼の弓道衣を掴むと、わずかに手が震えているのに気付いた。
「……何して……。え?だって、彼氏ってその人の弟なんだろ?」
 ……何も、言えなかった。
 だって、違うんだもん。
 本当は、先生が彼氏なんだから。
「っ……」
「ま、そういうことなんだ」
 ふわりと感じた感触で顔をあげると、まるでかばうかのように彼が抱きしめてくれていた。
 戸惑う私を落ち着かせ、安心させるかのように背中を大きな手のひらで撫でられ、思わず泣きそうになる。
「黙っててくれ、とは言わないけど」
「別に……誰に言うつもりもないです」
 静かにそう呟いた慶介君が、矢を拾い上げたのが見えた。
 だけど、私には彼の動きひとつひとつが怖くて、目を逸らすしかできなかった。
「それじゃ、邪魔みたいだから失礼するよ」
「っ……」
 そう言った祐恭先生が、私を立たせてくれてから肩を抱き、そのまま扉へと足を向けた。
 慶介君は、それ以上何も言わなかった。
 きっと、誰にも言わないでいてくれると思うけれど……でも。
「……もしバレたら、そのときはそのとき。俺が護るから」
「せんせ……」
「大丈夫。なるようにしか、ならない」
 扉を閉めた先生が、笑ってから肩を引き寄せてくれた。
 不安げな表情は相変わらずだけど、彼を見てからしっかりうなずき、しがみつくように腕を回す。
 ……これから、どうなるんだろう……。
 迂闊だったとは思う。
 でも、大丈夫……だよね。
 だって、私には彼がいるんだから。
「…………」
 彼に言ってもらえた言葉が、1番強い勇気。
 頭を撫でてくれた手が大きくて、優しくて、すごく嬉しかった。


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