「おはようございます」
「おはよ……え、もう? 羽織ちゃん、早起きだね」
「そうですか?」
 がんばりました、なんて口が裂けても言えない。
 いつもより寝る時間は早かったけれど、起きる時間は昨日と比べたら数時間単位で違う。
 6時過ぎに起きてきた祐恭さんは、寝室とおぼしき部屋からすぐキッチンへ歩いてきた。
「朝食のために早起きしなくてよかったのに」
「え?」
「まだ春休みなんだし、ゆっくり寝てていいよ。朝苦手でしょ?」
「う」
 心配そうな顔ではなく、どちらかというと悪戯っぽい顔で言われ、反応に困った。
 うぅ、お兄ちゃん余計なことをきっと吹き込んだに違いない。
 私はあの後すぐ寝てしまったけれど、昨日片付けたはずのビールの缶がテーブルにあるということは、もしかしたら祐恭さんも遅かったのかな。
「起きてすぐ味噌汁の匂いとか、旅館みたいだな」
 言いながら、表情が柔らかい。
 ああよかった、少しは喜んでもらえたかな。
 そんなことを気にしながら、ふと、我に返る。
 お兄ちゃんはまだ起きてこない。
 テレビも付いていないから、音は互いの会話だけ。
 わ……なんか、ふたりきりって初めて。
 正確には、昨日の買い物の最中も行き帰りもずっとふたりきりだったけれど、これはこれでなんだか違うというか。
 まるで、ふたりで暮らしてるみたい。
「っ……」
 にやけそうになる顔を押さえ、視線を外す。
 ああなんか、恥ずかしいな。
 ひとりであれこれ、思い込んでる自分が。
「準備はできたので、あとは好きな時間に言ってくださいね。用意します」
「じゃあ、顔だけ洗ってくるから一緒に食べよう」
「はい!」
 朝いちで笑顔を向けられ、元気な返事になりすぎた。
 もしかして、おかしかったかな。
 くすくす笑いながら洗面所へ向かうのを見て、ちょっとだけ恥ずかしくなった。

「羽織ちゃん、いつから学校?」
「金曜日です」
「そっか。いいね、1日行ったら連休って」
「今年は、4月の始まりが月曜日だから、なんだか長く感じますね」
「まあ、社会人になればそんなもんかな。むしろそれは、俺なんかより新人君たちがキツイんじゃないかな。長い春休み明けに、1週間まるっと働かなきゃいけないから」
 厚切りのベーコンと目玉焼き、ベビーリーフを添えた簡単なサラダと、悩んだけれどウィンナーも添える。
 朝から祐恭さんがどの程度食べられる人かわからなかったけれど、お味噌汁にごはんのセットを付けても、すべて平らげてくれた。
「3年生だね、いよいよ」
「はい」
「行きたい大学はもう決まってるの?」
「えっと……理想はあるんですけれど、実が伴っていないというか……」
「でも、まだあと1年あるようなもんだし、間に合うんじゃないかな」
「だといいんですけれど……」
 弱気なお返事しかできないあたり、情けないなぁと思う。
 絵里が目指している大学と同じ大学に行きたいと思う。
 一番近いというのもあるけれど、行きたい学部があるのもそう。
 去年行ったオープンキャンパスで、とても魅力的だと思ったからそこから1年これでも努力は積んできた。
 内申点もそこそこがんばってきたつもりだし、得意な英語でなんとか苦手な分野を補いたいとも思う。
 でも、問題なのは数学。
 うう、本当に苦手なんだよね。私。
「俺がついてるから、大丈夫って言ったら?」
「え?」
 食後に緑茶にしようか悩んだけれど、昨日淹れてくれた紅茶がとてもおいしかったので、それを出すことにした。
 紅の深い色が、白いカップの中で光を波打たせる。
「昨日の感じでも、まだ伸びると思う。もっとも、羽織ちゃんが付いてきてくれるなら、って感じだけどね」
「え、私はっ……あの、すごく嬉しいです。祐恭さんの教え方、すごくよくわかったし、どんな初歩的なことを聞いても叱らずに待ってくれたのって、初めてで……すごく嬉しかったです」
 昨日、数学だけで3時間もの勉強時間を達成した。
 これは私の人生上快挙と言ってもいい。
 中学のころから数学は不得手だったから、都度お兄ちゃんやお父さんに教えてもらったりしたんだけど、お父さんは忙しいからほとんど聞けなかったし、お兄ちゃんに至っては『お前馬鹿だろ』が必ずつくから、とても嫌な気持ちになるんだよね。
「普段、孝之に教わってた?」
「毎回じゃないですけど……」
「アイツ、口悪いからね。頭の回転は早いけど、人に教えるのは向いてない気がする」
「さらっと人のことディスってんじゃねーよ。馬鹿かお前」
「いや、思ったことを言ったまで」
 いなかったはずの声がふいに聞こえたと思ったら、洗面所のほうからすでに着替えたお兄ちゃんが姿を見せた。
 もうすでに、時計は7時半を指している。
 お兄ちゃん、本当は何時から勤務なんだろう。
 家を出るのが私とほぼ同じなので、毎回とても不思議でたまらない。
「何食べる? 普通に用意しちゃっていいの?」
「いや、味噌汁だけでいい。つーかお前、よくふつーに飯食えるな。胃がどうかしてんじゃねーの」
「お前が飲み過ぎなだけだろ」
「それにしたって、あの時間まで起きててよく食えるモンだって感心する」
 首にかけていたネクタイを抜いてテーブルへ置いたお兄ちゃんが、祐恭さんを見て眉を寄せた。
 あの時間、ということはやっぱり夜起きてたんだ。
「そんなに遅かったの?」
「2時まで起きてたんだよ。つか、お前もともと朝からそんながっつり食わねぇだろ」
「いや、それは……」
 さらりと告げられた事実で祐恭さんを見ると、若干困ったようなというよりは、申し訳なさそうな顔をしていた。
 ひょっとして……無理して食べてくれた?
 だとしたら、とても申し訳ない。
 ああ、私が朝から張り切ったせいだ。
「ごめんなさい、私……」
「いや、悪いのはこっち。あんな時間まで起きてたのがまずかったんだしね。それに、朝ごはんは普通に食べれたよ」
「でもっ……」

「そんな顔しない」

 ふわり、と大きな手のひらが頭を撫でる。
 温かく、優しい手つきに一瞬、今がどういう状況なのか理解するまで少し時間が必要だった。
「う、きょうさ……」
「なんでもかんでも謝るのも、自分のせいだと感じすぎるのも、あまりよくはないところだよ。俺が食べるって選んだんだから、羽織ちゃんが気にする必要はないよね? 無理してまで食べようとは思わなかったし、朝からちゃんと食べれるって、昨日も言ったけど俺は普通に嬉しかったよ」
 だから、謝るのはなし。
 目の高さを合わされただけでなく、かなり近い距離で見つめられ、何も言えなかった。
 変、だよね。
 今朝までは、ちょっとしたことでどきどきしていたのに、こんなに特別なことが起きてる今は、どきどきしないなんて。
「……はい」
「ん。いい子」
「…………アホかお前ら」
「ああごめん、忘れてた」
「つか、なんでこういう展開になってるのか解せねぇ」
「お前と違って純粋だから、大事に扱わないとね」
 にっこり笑った祐恭さんが離れる瞬間、スローモーションのように見えた。
 ゆっくりと時間が流れ始めて、いろいろな音が戻ってくる。
 ああ、なんだろう、変なの。
 どきどきするの。もちろん、今は。
 でも、さっきまでは違った。不思議な感じがする。
 なんだかこう……ううん、やっぱり特別なことに違いない。
 お兄ちゃんとは全然違う扱い。
 頭を撫でられたのなんて、小さいころ以来だなぁ。
 立ち上がってキッチンへ向かうとき、無意識のように頭を自分で触れてみると、ほんのりぬくもりが残っているかのように感じた。

「じゃあ、家の中は好きに使ってもらってかまわないから。勉強しててわからないところがあったら、まとめておいて。あとで一緒に解こう」
「ありがとうございます」
 お兄ちゃんはバタバタと先に出て行ったけれど、祐恭さんは家を出る時間が決まっているようで、ニュースのあるコーナーが始まると同時に車の鍵を手にした。
 玄関までお見送りは、クセというより、私がしたかったからというほうが大きい。
 だって、家にいるときはリビングでお母さんたちを送ってばかりだったもん。
「なんか……いいね」
「え?」
「学生のころはさ、ひとりが気楽で自由だからって思ってたんだけど、昨日ふたりが来てからのほうが生活っぽいなってすごく感じる」
 茶色とも黒とも言えない、不思議な深みのある色の革靴。
 ああ、こういうところもお兄ちゃんとは違うんだなぁと改めて思う。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
 両足を揃えた彼が、振り返りざまにくすりと笑った。
「このあいさつも、実家以来だよ」
「そう……ですよね。ひとり暮らしですもんね」
「うん。だから、結構嬉しい。……って、時間配分が難しいな。じゃあ、あとはよろしくね」
「あ、はいっ。いってらっしゃい」
 腕時計に目をやった祐恭さんが、玄関のドアに手を伸ばした。
 体を滑り込ませ、閉まるーー寸前で、小さく手を振られる。
「っ……」
 きっと、彼にとっては何気ない仕草。
 でも、私にとってはとんでもなく大きな出来事で、顔が熱くなったものの反応ができなかったことを後悔。
 カチャリ、と小さな音を立てて閉じたドアを見ながら、なんともいえない気持ちでいっぱいになった。
 

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