「おかえりなさい」
「ただいま。……腹減った」
「たーくん、お昼食べられなかったの?」
「いや、弁当食った。ごっさん」
 鞄から空の弁当箱を取り出し、包みごと葉月へ渡す。
 学食が休みになってから、昼食難民がかなり出た。
 学生がいないとはいえ、教職員はほぼほぼ通常業務。
 格安の昼飯にありつけていた人間は、コンビニかチェーンの弁当屋かはたまた俺みたいに持参するかとそれぞれにわかれた。
 最初のころは習慣化されてなかったものの、今となっちゃ逆にルーティンになってるけどな。
 だがまあ、学食が復活したらそれはそれで間食できるし、どこかであの味も恋しい。
「やーね。トイレットペーパー、まだ品薄ですって」
 いつもよりだいぶ早い時間の、まだ16時過ぎ。
 平日ど真ん中の水曜のこの時間に帰宅ってのは、ある意味感覚を失いそうになる。
 日常と明らかに違う時間軸。
 2月末からの1ヶ月間、休校とは縁遠い身分ながらも業務には大きな変化があって、通常できなかった雑務がまぁはかどるはかどる。
 おかげで、5月発行予定の図書館通信までさばけたぜ。
 今週までは休館にし、週明けから通常業務の予定。
 だが、政府の発表によっちゃ左右されるだろうよ。当然。
「マスクもそうなら、消毒薬もそうだし……なんといっても手洗い用の石鹸が品薄なのが一番困るわ」
「市から優先的に配給きてねーの?」
「ウチの保育園がいくら市立だって言ってもね、そーゆーのは加味されないのよ。おかげで、職員が自腹で見つけて買ってきてくれたわ」
「率先して並べばいいじゃん。暇だろ?」
「失礼ね。じゃあバイト代出すからアンタ行きなさいよ」
 どうせ暇でしょ。
 テレビを見ていたお袋へうっかり口を滑らせた途端、面倒な方向へ飛びそうになった。
 あー、やめやめ。寄らぬことが得策。
 そういやこの間もテレビ見てトイレットペーパー難民がどうのっつってたから、うちの納戸に買いだめあったろと言った途端、『誰が日常的にストックしてると思ってんのよ』と飛び火した。
 まだ何も言ってねーのに、過敏すぎね?
 まあ、カリカリしたくもなんだろーけどよ。
 恐らくは我が家でもっとも感染症に敏感な職種だろうから。
「チョコ?」
「うん。ホットチョコレートにしようと思って。牛乳安かったんだよ」
「へぇ」
 避難も兼ねてキッチンへ行くと、コンロ前で葉月が小鍋を温めていた。
 かなり甘い香りと、手元にあった銀紙とで推察。
 そういやネット上でも、牛乳消費レシピがどうのって一時期流行ってたな。
「たーくんも飲む?」
「ひとくちでいい」
 がっつり甘いだろうコレを、マグカップ1杯飲み干せる自信はさすがにない。
 おおかた、お袋はクッキーやらなにやらと一緒に飲むんだろうが、あの年でンな食生活で大丈夫かと半分程度は心配してやる。
「あ」
 湯煎で溶かしたチョコレートを牛乳と混ぜようとしたらしいが、珍しく失敗。
 チョコを混ぜていたヘラをボウルの中へ倒してしまい、みるみるチョコレート漬けになった。
「……わ」
 指先ですくいあげたものの、当然べったりとチョコレートは付いていて。
 そこそこの量だったこともあってか、葉月は洗おうか拭き取ろうか逡巡してみせた。
「っ……」
 なんの気なしなのは、当然。
 すくうように手のひらを取り、指先を舐める。
 あま。
 固形より液体になってるほうが甘く感じる。
「…………」
「…………」
 まじまじ目を合わせたまま、人さし指に続いて中指。
 舌に触れるチョコレートと指の感触に、ああそういやこんなことするのはいつぶりかと思い返す。
 つかそもそも、自分の指すら舐めることねーしな。
 たまに紙ですっぱり切ることはあっても、そういやいつからか舐めることはしなかった。
「っ……」
 ふ、と短く息が漏れたのがわかり、唇を離す。
 満足した。
 何にって……さあ、何にだ?
「あま」
「もう……どうして、目を見たままなの?」
「いや、お前が逸らさないからだろ」
 ちゅ、とらしくもなく音が立ち、唇に付いたチョコを舐め取る。
 だが、なぜか葉月はひどく困ったようにどころか、頬を染めてうつむいた。
 知ってる。
 中指を舐めたとき、こくりと喉が動いたのもな。
 ついでだからどんな反応すンのかとおまけでチョコが付いてないトコも舐めたが、何か言いたげに唇を開いたものの一切言葉を漏らさなかった。
 いや、正確にはできなかった、んだろ。お前。
 その顔が十分物語ってんぞ。
「やっぱ半分もらう」
「え?」
「気が変わった」
 肩をすくめ、冷蔵庫から冷茶のポットを取り出すと、少しばかり意外そうな顔を見せた。
 甘いものは嫌いじゃない。
 まあ、がっつり甘い飲み物はそこまで飲む習慣ねーけど。
「今のよか甘くねーだろ」
 空いたグラスをシンクに置くと、何か言いたげな顔をしたものの唇を結んで視線を逸らした。
「メシは?」
「さすがにまだできてないけど……あ、でもおやつならあるよ」
「マジで。食う」
 入れ違いで冷蔵庫へ向かった葉月が、中から紙袋を取り出した。
 あれ。それって……デジャヴか?
 なんか、つい最近っつーか今日見たのと同じのじゃねーか。
「たーくん、お弁当足りなかった?」
「いや、15時休憩で……ほら、この前話したサンドイッチ屋あるだろ? あそこに行ったんだよ」
 16時上がりは決まっていたが、久しぶりにパソコンへ1日張り付いていたこともあってか、糖分がかけたらしく14時過ぎには腹が減った。
 一服の休憩がてら覗いてくると伝えたら、思いのほか同僚も食べてみたいという話になり、買出しをこうむったってのが顛末。
 15時から限定のフルーツサンドが発売されるらしく、野上さんは嬉々として俺に諭吉を渡したほどだった。
 いや、さすがに断ったけどな。買い占めてこねぇっつの。
「時間がまずかったのかもな。エビアボカドも売り切れてて食いっぱぐれた」
「っ……」
「さすがに10食限定のローストビーフサンドがねぇだろうとは思ったが、通常メニューのそっちもねぇってので、余計腹減ったんだよ」
 ま、フルーツサンドは食ったけど。
 季節のフルーツたっぷりで、クリームよりもよほど果物の率のほうが高かった。
 普段果物をそこまで食べない俺がうまいと思ったんだから、いつも好んで果物を食べる葉月はよほど喜ぶだろうよ。
「……あ? どうしたお前」
「え……っと……あの、あのね?」
 いつもなら相槌を打ちながら話を広げようとするくせに、珍しく黙りこくったまま。
 それどころか、両手の指先を所在なさげに絡め、視線を泳がせる。
 ……何か隠してるっつーより、バツが悪いときの顔か。
「エビアボカドにすればよかったね」
「は?」
「あの……今日、絵里ちゃんと羽織と一緒にサンドイッチを買いに行ったの」
 予想外の言葉で、自分では気づいちゃいなかったがどうやら表情が変わったらしい。
 目を逸らさないまま、慌てたように葉月が言葉をつむぐ。
「ふーん。葉月は何食った?」
「えっと……エビアボカド……」
 正確には、エビ、アボ、カドってとこか。
 別に睨んだつもりはこれっぽっちもなかったが、まじまじ俺を見たまま返事した葉月は、最終的に唇をきゅっとつぐんだ。
「へぇ。うまかったろ」
「う、ん。おいしか……っ、あのね? この間話してくれたから、てっきりもう食べたことがあったんだと思って……」
「ま、うまいよな。当然だ。俺の間食になったであろうブツだもんな」
「っ……たーくん」
「食ったことはある。だからもっぺん食いたかったんだよ」
 ずい、と顔を近づけると、シンクと俺とに挟まれてそれはそれは困ったように眉尻を下げる。
 別に、お前のせいだとは言ってないしぶっちゃけ思ってもない。
 だが、申し訳なさそうに言われたらそーゆーふうに対応してやるのが筋かなと思っただけ。
 ここで俺があっさり引いたら、おもしろくねぇだろ?
 つか、コイツが困る姿ってのを普段ほとんど見ねぇから、ってのもあるけどな。
「っ……ンだよ」
「あの……あのね? せっかくだから、この間食べたいって言ってたローストビーフサンドにしたの。ずっと保冷バッグで持ち歩いたから平気だと思うんだけど……」
 瞳を細めてより近づいた瞬間、目の前にあの紙袋を差し出された。
 すぐ、ここ。
 小さな文字で――あの、サンドイッチ屋の名前が入っている。
「おま……買って来たのか?」
「だって、食べたいってずっと言ってたでしょう? 11時のオープンには、たーくんじゃ間に合わないだろうし。かといって、お休みの日にわざわざ行きたくないって言ってたから」
 ああ、確かに。まったく同じセリフを口にした。
 食ってみたいとは思うが、さすがに休みの日に車を出してまで行くのはな、って。
 だが、まさかわざわざテイクアウトしてくれるようなヤツがいるとは思わなかった。
 あー……お前ってホント、俺のことよくわかってる。
 苦笑を浮かべて『あと少しでごはんできるから』なんて言われたら、育ち盛りの子どもかってツッコミたくもなるけどな。
「うわ……すっげぇ。限定10食、よく買えたな」
 紙袋を開けると、まごうことなきローストビーフがぎゅうぎゅうに詰め込まれているサンドイッチが入っていた。
 15時のときに『完売しました』とステッカーが貼られていた写真と、まごうことなき同じもの。
 俺にとっては写真映えがどうのというより、腹にがっつり収まるかどうかのほうがよほど重要。
「んじゃ、お前にはこっちやるよ」
「え?」
 紙袋を受け取りながら、弁当箱のあと出そうと思ってた紙袋を取り出す。
 ついさっきまで職場の冷蔵庫に入ってたし、崩れちゃいねぇだろ。
「わ、フルーツサンド!」
「っ……お前、今日イチの笑顔だな」
「だって! わぁ……嬉しい。一度食べてみたかったの」
 中を覗いた葉月が、満面の笑みを浮かべた。
 あまりの差に、小さく吹き出す。
 食べ物にあまり関心がないというより、そこまでがっつり食うタイプじゃないのは知ってるが、果物は別ってこともよく知ってる。
 だから、結果的にパシられたあのときでさえ、ああいい大義名分かもなとは少し思った。
 どうせなら、自分の周りでダントツに果物好きなコイツに食わしてやりたいと思ったし。
「ふふ。ホットチョコレートより、お茶のほうが合いそうだね」
「そーだな。あとで飲む」
 揃いの紙袋を手にしたまま葉月が電気ケトルを手にし、一度小鍋を見てから小さく笑った。


ひとつ戻る  目次へ  次へ