「おはよー祐恭君」
 職員会議と呼んでいいのか悩ましい朝のひと時が終わってすぐ、純也さんが声をかけてきた。
 隣には当然のように孝之がいるが、俺を見たところで無反応。
 当然だ。お前とは、出勤してすぐ駐車場で会ったしな。
「そういやさ、今日から来る実習生のこと聞いてる?」
「実習生ですか?」
「うん。なんでも、ぴちぴちの女子大生らしいよー? かわいい子が来てくれれば、それこそ『理科は変な先生が多い』ってレッテルもはがれるもんなんだけどねぇ」
 苦笑交じりにつぶやいた純也さんに、孝之が笑う。
「あー、確かに。自分の学生時代振り返ってみても、理科系の先生って変わってましたね」
「そうなんだよなー。特に、お年を召せばなお……ってね。ま、好きなモンだけとことん突き詰めて実験とか数値とか取ることに生きがいを感じてたらさ、マニアックだとは思うよ? 十分」
 マニアック……まあ、確かに。
 ストイックと言ってもらえれば、もう少し違った意味になるような。
 まあ、あんまり変わらないものだろうが。
 それにしても、実習生ともなれば職員会議で紹介がありそうなものの、それは行われていない。
 ……もしかしてあの校長、忘れてるんじゃないのか?
 あー、アリだな。
 もしかしたら今ごろ、その実習生とやらは校長室でしょんぼりしているかもしれない。
 この学園、もう少し監査とか人事とか厳しくしたほうがいいんじゃないのか。
「おはようございます」
「あ。おはようございます。って、珍しくないですか? こっち理科棟なのに」
「えっと……ええまあ、いろいろありまして」
「さら先生が迷子になったんですよ。久しぶりのpanicでしたねー?」
「っ、レナ先生……!」
 純也さんが意外そうな顔をしたのも、わかる。
 本館から渡り廊下でつながっているこの中館は、化学室をはじめ、生物室、物理室などが集まっているため、“理科棟”と呼ばれている。
 ちなみに、さらに廊下を渡った先には、美術や音楽、家庭科といった実技系と、日本史や世界史、地理の各教室にわかれているため、“選択棟”とも呼ばれていた。
「西島先生って、すごいしっかりしてそうなのに」
「……う。田代先生……それ、褒め言葉じゃないです……」
「いや、ごめん。そういうつもりじゃないんだけど、なんていうのかなー。見た目デキる先生って感じなのに、意外と抜けてるっていうか天然っていうかで。生徒たちが『西島先生ってギャップかわいい』って言ってたのも、うなずけるなーと思って」
「えぇ……? なんですかそれ」
 眉を寄せながらも苦笑に変えた彼女は、数学科の西島さら先生。
 生徒たちからは『さらちゃん』呼ばわりされているが、本人は気づいているのかどうか。
「さら先生、今朝もバスから降りるときステップで転びそうになったんですよー。危うくスカートめくれちゃうところだったんですから」
「……も?」
「ちっ、違いますよ! あれは事故で……っていうか、もうレナちゃんやめて!」
「えー? いいじゃないですか別にー。cuteなんですから」
 くすくすと笑いながら、このままではとんでもない秘密をどんどん暴露してくれそうなレナ先生は、金に近い髪を指先で弄りながら、それはそれは楽しそうに笑った。
 彼女は、英語科のレナ先生。見た目はまさにハーフだが、実は代々続く日本料亭のひとり娘であるという噂もあり、どちらが本当かはわからない。
 会話に挟まる英語はとてもきれいな発音で、嫌味がない。
 そういえば、生徒たちも彼女の口癖のように真似てしゃべっていることがあるが、それはこの人柄ゆえのものなんだろう。
「ところで、純也先生はthis weekお暇ですか?」
「まあ、そこそこには」
「じゃあ、ちょっとIzakaya行きませんー? この間話してたんですけど、おいしい鶏のから揚げが食べ比べできるらしいです」
「へぇ。てことは何? しょうがとかにんにくとかの風味が違うってこと?」
「いえ、どちらかというと日本各地の鶏料理と言ったほうが近いかもしれません。とり天や、ザンギといった……」
「あーなるほど。いいすね、それ。え、じゃあ何人か誘っていいですか?」
「もちろんです! あ、ちなみに瀬尋先生はすでにjoinですからね?」
「……え? 自分ですか?」
「当然です! 純也先生のbuddyでしょ?」
「いや、そう……ですか?」
「まあ、よく一緒にいるしね。どっちかっていうと孝之君のほうがそうかなーとも思うけど、学内じゃ俺としょっちゅういるし」
 思わず純也さんを見ると、レナ先生のセリフをほぼほぼ肯定した。
 が、次の瞬間、笑顔のまま目だけが色を変える。
「それともあれかな? 俺が相方じゃ不満って話? それならまあ、今後の付き合いも含めてもろもろ考えが……」
「いやいやいやいやなんでそうなるんですか。そういうわけじゃないですって!」
 一瞬訪れた黒いものを察知して、すばやく否定を試みる。
 すると、様子を見ていた西島先生が苦笑した。
「瀬尋先生も、よかったらぜひ。こちらも何人か誘うつもりなので、みんなでおいしいもの食べに行きましょう」
「いや、それはもちろんというか……ぜひ。よろしくお願いします」
 西島先生へ軽く頭を下げたところで、予鈴のチャイムが響いた。
 何やらやらなければいけないことでもあったのか、レナ先生が慌てた様子で西島先生を引っ張り、俺たちが来た方向へと駆けていく。
 去り際に念を押され、思わず何度かうなずいていた。
「それにしても、純也さんって相変わらず知り合い多いですよね」
「そう? 俺よりよっぽど孝之君のほうが多いけどね。あのふたりはたまたま、説明会のときに席が近くてさ、実はふたりともかなり飲めるクチだってわかって、打ち合わせがてら昼間から飲んだってだけだよ」
「昼から飲んだんですか?」
「うん。いやー、なかなかにいい気分だったね。人様が仕事してるうちから飲むってのは、なかなかの悦楽感」
 どうやらそのときを思い出しでもしたらしく、純也さんが腕を組みつつも楽しそうに笑った。
 まあ確かに気持ちもわからないではない。
 といっても社会人になってからその経験はなく、学生時代の花見のときを思い出したまで。
「あ。そういや職員会議のあと、化学科で今学期の授業計画の打ち合わせするって言ってなかったっけ」
「え」
「あれ、聞いてない? んー祐恭君いなかったかな。まあいいや。とりあえず揃って遅刻はマズいから、ちょっと急ぎ目で」
「了解です」
 すでに授業開始は目前とあって、俺たち以外廊下には教員も生徒も姿がなかった。
 一歩踏み出すと靴との摩擦で床が鳴ったが、それすらも大きく聞こえて少しだけ気持ちが焦りもした。


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