「……ん?」
 昼食後、コーヒーブレイクを兼ねた雑談を終えてから、ひとり先に化学室へ戻るため階段を上がってすぐ。
 ちょうど、渡り廊下と南館の間の柱の陰に、ちらりと人影が見えた気がした。
 ――が、立ち止まって正解。
 ほどなくして出てきたのは、優人だった。
「あれ、祐恭……センセ? 何してんの?」
「何って……」
 確かに、おかしいとは思った。コイツが俺に対して“センセ”なんて敬称をつけるのは、年に何回あるかないか。
 だが、それは決まって近くに生徒がいるときだったため、こちらもついクセでか軽口を押さえる。
「もうじき、5限目始まるだろ?」
「知ってますよーだ。俺だって授業あるし」
「……じゃあその手はなんだ」
「まあ、いいからいいから」
 にこにこと相変わらずうさんくさい笑顔で対応してるくせに、片手はしっしと追い払う仕草なわけで。
 それを見てなんとも思わない人間は、いないだろ。少なくとも。
 理由がわからないからこそ、余計にどういうことかと勘繰りたくなる――が、柱の陰からちらりと見えた制服のスカートに、思わず口ごもる。
 と同時に優人へ向けるのは、それはそれは氷点下に相当する眼差し。
 昔からあけすけで、あまりキレイとは言えない恋愛生活を送ってきた人間だけに、舌打ちしなかったのはせめてもの配慮だと思ってほしい。
「……お前」
「あー、瀬尋先生忙しいんだもんなー。残念残念。もう昼休み終わっちゃうよ? ほらー、そろそろ準備に戻らないとな」
「おまっ……ちょ、なんだよ」
「何じゃないって。手助け? サポート? ヘルプユー?」
「だっ……! 引っ張るんじゃない!」
「わかったわかった。アンダスターン、えーんどバイバーイ」
「うわっ!?」
 ワイシャツの袖を引っ張られ、なかばつまづきかけた。
 わけのわからないというか、意味不明なエセ英語もそうなら、その笑顔もそう。
 何もかもうさんくさくて、だからこそ気になる。余計に。
「……?」
 おそらくはかばったつもりなんだろうが、ちらりと見かけたのは……ああ、あのシューズの色は1年だな。
 この学校では、シューズの色で学年をわけているため、緑のマークがあるのは1年の証拠。
 だが、優人は1年の担当じゃなかったはず。
 だからこそ余計に、なぜ1年の生徒とともにあるのか理解しかねる。
 が。
「……椎名さくら」
 ふ、と目が合った拍子に、ぺこりと会釈した顔には見覚えがあった。
 かねてから、優人がよく口にしていた生徒。
 優人こそ自分の好みのタイプだと話している子で、それを聞いた優人本人もまんざらではなさそうだった。
 だからこそ、そのたびに『絶対ダメだからな』とみんなで進言していたのだが――……聞いてないなアイツ。
 しかもまだ、新学期が始まってたった1週間なんだぞ。
 俺にいたっては、3年の全クラスで授業を行えていない。
 ただでさえ、新学期は身体計測やら何やらで、平常日課を組むことができないため、噂の孝之の妹もまだ確認できていなかった。
 ってまぁ、別にそこはどうでもいいんだが。
 しかし今、目の前でどうでもよくない事態を目撃してしまったわけで。
 これで見てないふりをすれば、黙認になる。
 それだけはなんとしても避けたかった。
「椎名。ゆ――菊池先生の授業じゃないだろう? 戻ったほうがいい」
「だめですか?」
「当然ダメだろう。というか、そもそも菊池先生と一緒にいないほうがいいというか……正直、キミが卒業したあとでさえまったくおススメはしない」
 これは、これまで付き合ってきたからこその言葉。
 学生時代から見てはきたが、まったくもって優人をひとことで表すことが難しい。
 孝之以上に飄々として、なのに突然当たり前のようなことも平気でやってのける。
 だから、一時の感情で関わるのはある意味精神衛生上もよくないヤツなんだ。
「大丈夫です。というか、祐恭先生こそ戻ったほうがいいですよ?」
「……俺が?」
「はい。私は大丈夫です。ちゃんと見極めてます。でも……祐恭先生は、本気になっちゃいますよ?」
 にっこり笑われ、思わず何も言えなかった。
 今、彼女は何を言ったのか。
 まさに、それが把握できなかった。
「本気になるって、何に?」
 眉を寄せると、一瞬目を丸くしてから、それはそれは意味深な顔で彼女がにっこり笑った。
「きっと、今週中にはわかります」
 彼女がそう言いきるのと同時に、優人がその肩を引き寄せて回れ右。
 南館へそろって消えていったが、首だけで振り返った際、『まだ内緒だけどな』と、優人すらもまったくわけのわからないセリフを残したのが、とても気になった。
 なんなんだ……? いったい。
 身に覚えなど皆無ならば、心当たりすらもない。
 本気になるって、何に? しかも今週中にはわかるというのは、何に対して?
「…………」
 所詮は生徒の言葉。
 そう割り切れば問題もなかったんだろうが、思いのほかしこりのようになって自身に残ったと気づいたのは、“それ”が実際身に起きてからだった。

「失礼します」
 もやもやとした気分のまま化学準備室へ戻り、次の授業の支度を整えようかと席へ着いてすぐ。
 聞きなれない高い声に、そちらへ顔が向く。
「3年3組の瀬那です。化学の授業係がお休みだったので、代理でまいりました」
 俺を見つけて、まっすぐにここまで歩いてきた彼女は、丁寧な口調で説明するとご丁寧にメモ帳まで広げながらあいさつした。
 深々とお辞儀したため、長い髪が流れる。
 印象としてはほかの子たちと相違ない、どこにでもいそうな女子高生だったのだが、口調といい物腰といい育ちの良さがあったのと、“瀬那”というデジャヴめいた自己紹介に一瞬時間が止まったように感じた。
「あの。瀬尋先生?」
「あ……あ、ごめん。次の時間だよね?」
「はい」
 どうかされました? などと続けられ、さらに面食らうところだった。
 俺の知ってる女子高生は、どちらかというと仕切りを作らずに来る子が多かったせいか、ここまでかしこまられると逆に不思議に思うものなんだな。
 本来であればこれが正しいというか、年上に対する模範であってもいいはずなんだが、俺もだいぶ感化されたらしい。
 ……しかし、だ。
 “瀬那”というからには、彼女が噂の孝之の妹であり優人の従妹で間違いないだろう。
 が、顔を見てもまったく似ていないどころか、同じように育ったであろうに、この品のよさたるはいかに。
 妹は妹でも、何かわけありなのか……いや、しかしそこはさすがにツッコむべきではないんじゃないか。
 はたまた、男女差でここまでの違いがあるのか。
 同じく妹がいる身ながら、性差によってここまでの品の違いというか淑やかさが現れるのはどういう状況か、を考えつくだけ考えようとしている自分が、我ながらおかしかった。
「ええと、次の時間は教室じゃなくてこっちの実験室でやろうかな。オリエンテーションじみたことは……まだやってなかったっけ? だとしたら軽い自己紹介でもいいんだけど、正直まあ、それはしなくてもいいかなって思うんだけど……どう?」
「はい。私以外の子もそうですが、そろそろ授業を受けたいねと話している子も多いです」
「じゃあ、授業に必要な物を持って実験室へ集まるように伝えてくれるかな」
「わかりました」
 はきはきとした受け答えで、印象はとてもよい。
 そして、孝之と似ているといえばまあ似ているのか、コミュニケーション能力の高さはアリか。
「葉月ちゃ……とと、瀬那さん」
 きびすを返してドアへ向かいかけた彼女へ、反対側から声がかかった。
 同じく、化学科の甲斐先生。
 慌てた様子で口元に手を当てたが、呼ばれて振り返った彼女は彼を見ると苦笑しつつも『こんにちは』と口にした。
「恭介さん、元気?」
「お陰さまで、毎日メールが来ます」
「ほんとに? 相変わらず、キミのことが大切なんだなぁ」
「大切というか……なんでしょうね。でも、ありがたいことではありますけれど」
「そりゃそうかもしれないけどねー。今度、俺もメールでちょろっと伝えておくよ。葉月ちゃんの普段の生活態度とか」
「もー。甲斐先生、そんなことしたらまた厄介なことになりませんか?」
「なるかもね」
 と言いながらも、互いの口調はどこか楽しげで。
 むしろ、その“厄介事”を望んでいるかのようにも見えた。
「……甲斐先生、知り合いなんですか?」
「うん、まぁ……なんていうのかな。昔の知り合いの知り合い、みたいな? 葉月ちゃんね。“葉月”って書いて、“はるな”って読む子なんて、俺の知り合いじゃひとりしかいないなぁ」
 二度目の『失礼します』を口にして廊下へ戻った彼女を見送ったあと、甲斐先生が空中に字を描いた。
 なるほど。確かに、なかなかない読み方だ。
 が、そういうところはある意味の孝之らしさを感じもする。
「まあ、今度機会があったらゆっくり」
 予鈴のチャイムが響いたところで、彼が先に立ち上がり話を切り上げた。
 そういえば、まだ教科書すら準備してなかったな。
 遠くから、ざわざわとした声が聞こえ始めるまで余分な時間はなく、立ち上がってすぐ教科書類をまとめるも、ちょうど戻ってきたらしい純也さんに『余裕じゃん』と笑われる始末となった。


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