教師という仕事に就いて以来、昼間に堂々と昼寝なんて機会には恵まれていない。
…そりゃそうだ。
っつーか、普通は社会人になればそんな余裕あるわけ無いんだけど。
ま、それが普通の社会人。
なのだが、俺は――…今現在少し違った境遇にあったりするわけだ。
壁に掛けられている時計を見ると、丁度11時少し手前。
………もう少し寝るか。
現在は、通常ならば4時限目が行われている時間。
当然、教師である俺自身も授業中のハズ。
そんな俺がなぜこんな余裕綽々で居るのかといえば…そう難しい話じゃないけど。
若干、風邪気味というのを理由に保健室に訪れたのは、数時間前の事。
薬を貰って戻るつもりだったのだが――…意外や意外。
保健医が会議で留守にするという事を聞いて、冗談半分で寝かせて欲しいと言ったんだが、あっさりと二つ返事で承諾してくれた。
お陰で、誰も居ない保健室で職務中に休めるという好機にありつけた。
…でも、これってある意味…職務怠慢だよな…。
寝返りを打ってから、ふとそんな事が思い浮かんだ。
………まぁ、いいか。
今日だけ、今日だけ。
時折響く時計の針の音を聞きながら瞳を閉じると、もう一眠りさせてもらう事にした。
風邪気味というのが一番の理由であるのだが、ここ数日少し寝不足気味なのだ。
平日というのにも関わらず、終業後に平塚の実家まで往復する事が多いから…というのが理由の1つ。
もう1つの理由には、慣れない場所に足を運んでいるからってあたりか。
…俺は、やっぱり会社員って向かないかも。
特に、身内の経営する会社なんてなると、最悪。
「……ったく、厄介な事言い出しやがって…」
両手を布団から出して頭の後ろに組むと、自然にため息が漏れる。
先日、俺宛に届いた封書。
差出人は書かれていなかったが、祖父である浩介からだろう。
きっちりと祖父の経営する会社の社名と社章が入っていたので、間違いない。
事前に何も言われていなかったので少し不信感が募ったが、まぁ、とりあえず不審物じゃないだろうという甘い考えのもとで、その場で封を明けた。
――……ら。
確かに不審物じゃなかったものの、ある意味では不審物とも言える類のもの。
その封筒に入っていたのは、しっかりと祖父の名前が表に記されている封筒だったからだ。
それと同封されていた、一筆箋。
そこに書かれていたのは―――…
と、その時保健室のドアが遠慮がちにノックされた。
……途端に寝たフリを決め込んでしまうのは、人間のサガだろう。
別にやましい事をしてるんじゃないんだけどな…。
我ながら、少し笑えた。
カラカラというドアの閉じられる音の後、僅かに聞こえる人の足音。
確か、保健医は『外出中』の札を掛けていったはずなんだが…。
――…って、このベッドかよ!
足音がぴたっと自分の足元で止まり、思わず焦る。
カーテンはしっかりと閉めてあるものの、気まずい事は気まずいワケで。
…だったら、起きろよって言われるだろうけど。
そっとカーテンが開くのが分かり、そちらに背を向ける。
……ったく、誰だよ…。
とか思っていたら、聞きなれた声が響いた。
「…もー。先生、サボっちゃダメですよ」
少し呆れたような、声。
………あれ?
「……そういう羽織ちゃんだって、今授業中だろ?」
「やっぱり起きてるんじゃないですか!」
「…いや、休養中だから」
「もぅ…。折角作ったのに」
「……え?」
少し残念そうな声でようやくそちらに顔を向けると、エプロン姿の彼女がそこに居た。
さすがに三角巾は付けていないが、いかにも『料理してました』という格好。
「…あれ?」
「調理実習で作ったから持ってったんですけど…。田代先生しか居ないんだもん」
「……あー…。そうか。家庭科か」
手に持っている白い皿の上には、店に売ってる物とほぼ変わらないマフィンがあった。
どうりで、こんな時間に出歩けるわけだ。
「俺に?」
「…と思ったんですけど…。療養中じゃ、仕方ないですよね」
身体を起こして彼女を見ると、少し悪戯っぽく笑ってから皿を遠ざけた。
「いや、ほら。こういう時こそ栄養取るもんだろ?普通」
「でも、甘いし――」
「いーから」
どうしようか悩んだ顔を見せた彼女の手を引いてベッドに座らせ、笑みを見せる。
と、彼女も柔らかく微笑んだ。
授業中であって、普段ならば会う事の無い時間。
こんな時にこうして二人きりになれるのは、日ごろの行いのお陰とでもしておこう。
「じゃあ、どうぞ」
「ん。ありがとう」
やっと差し出してくれた彼女から皿を受け取ってラップを外すと、少し甘い香りが広がった。
…マフィンねぇ。
自分から食べる事なんてまず無いせいか、まじまじと見てしまう。
普段は口にしないものも、彼女が作ってくれたとあれば違うわけで。
……単純だよなぁ、俺。
苦く笑ってから包みを外し、早速一口貰う事にした。
「……どう…ですか?」
少し不安げに尋ねる彼女を見たまま、欠片をその口元に運んでやる。
「…え?」
「どーぞ」
「……あ。うん」
きょとんとした彼女に食わせてやると、程なくして笑みを見せた。
「おいしい…」
「だろ?」
「うんっ」
嬉しそうな顔は、やっぱり何度見てもいい。
飽きる事無い笑顔を俺だけに向けてくれるのは、物凄く贅沢な気もするし。
2つ目のマフィンの包みを剥がしながら……まだ彼女に言っていなかった事を思い出した。
そう。
例の、祖父からの手紙の件だ。
「…羽織ちゃんさぁ」
「え?」
相変わらず几帳面な性格で、先程のマフィンの包みを丁寧に畳んでいた。
…細かいなぁ。
なんて考えながら彼女を見ると、軽く首をかしげて見せる。
「パーティって、得意?」
「……はい?」
「いや…。実は、クリスマスパーティの招待状を貰ったんだけど…さ。俺、ああいうの苦手なんだよ」
そう。
先日の祖父からの手紙に同封されていたのは、音羽グループという大きな企業主催のパーティの招待状だった。
無論、相手側としては俺なんかじゃなくて、瀬尋製薬の経営者である祖父を招いたんだけど。
…大方、俺が強く断れないのをいい事に、面倒くさくて押し付けたんだろ。
「…パーティなんて、出た事無いですよ…?」
「……だよなぁ…。俺だって、無いし」
面倒くさい事に関わりたくないのは、孫の俺だって同じ。
それに、彼女はごくごく普通の家庭に育ったんだし…俺以上に機会に恵まれているわけが無い。
「先生、行くんですか?」
「……んー…行くにはパートナーが必要なんだけど」
2つ目のマフィンをかじりながら、彼女を見つめる。
すると、何度かまばたきを見せてから唇を動かした。
「………私……?」
「…他に、どこに俺のパートナーが居るんだ?」
「……そっか…」
とか言いながらも、嬉しそうな顔。
そんな顔見せられると、こっちも幸せになれる。
「行ってくれると、助かるんだけど」
「…でも、私でいいのかな…?」
「それを言ったら、俺でもダメだと思うけど。主催者は、俺じゃなくてじーちゃんを呼んでるんだし」
「え?浩介さん…を?」
「そ。…でも、まあ…事情話せば平気じゃない?それに――」
…言いかけて、言葉を飲み込む。
「…それに?」
「いや、何でもない」
面と向かって言うのは、なんかこう…照れくさいよな。
『ドレス姿が楽しみ』
……いや、そりゃあ楽しみなんだけど。
「もぅ。なんですか?」
「何でもないってば」
顔を覗き込む彼女に首を振りながらマフィンを食べきり、視線を他に向ける事にした。
実際に口にするのは、もう少し後でもいいだろ。
やっぱ、照れくさい。
「あ。先生、寝ちゃダメですよ?」
「分かってるって」
空になった皿を受け取ってくれながら眉を寄せられ、つい苦笑が漏れた。
…しょうがない、起きるか。
ベッドの上で伸びをしてから布団をめくり、彼女の横に並ぶ。
「うまかったよ。ご馳走様」
「ホントですか?良かったぁ」
心底嬉しそうな顔を見せてくれた彼女の髪を撫でながら、ドアまで共に歩く。
なかなか学校で二人きりになれる時間なんて無いからな。
珍しく、貴重な時間を過ごす事が出来た。
…しかし、パーティか。
我ながら、ガラじゃないと思うんだけどなぁ…。
「パーティ、楽しみですね」
「ん?ああ」
…ま、彼女が楽しみにしてくれてるから――…いいとするか。
こぼれた笑みをそのままに、ドアを開けてお互いの時間へと戻る事にした。

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