ゲーム感覚で自分を試そうと思ったのは、とても面白くて良い案かもしれないと思っていたが、早速挫折しそうだ。

車で学校の傍まで来たのは良いが、助手席に座ってる彼女の白い足元が気になって運転に集中できなかったし、尋未は尋未で、

 

「…あの、…行ってきますの、キスは…?」

 

と、恥じらいながら見上げてくるし。

俺に一体どうしたら良いんだ。どこまで我慢すれば許してくれるんだ。

とりあえず、彼女の機嫌をそこそこ損ねない程度に、部屋でしたようなほっぺにちゅぅで勘弁してもらった。

 

「───ま、雅都くん…!?」

 

これまで以上に疲れた運転をしたためか、化学準備室に入るなり純也さんに驚かれた。

 

「…え?」

「…なんっか、凄い疲れてる…?」

「………」

 

はぁ、とため息を着いてから、「解ります?」と返事を返すと、彼は力一杯頷いてくれた。

純也さんに自分の現在の状況をどう説明すれば良いのか解らなかったが、とりあえず苦笑混じりに「疲れてます」と公言しておいた。

人間、自分に素直にならないと。

企業のトップに立った人間なんていうのは、素直になれずに自分で溜め込んでしまうからむっつりだの、なに考えてるか解らないだの言われてしまうんだから。

俺は、そうならないためにも、心配そうにこちらを見つめてくる純也さんを後目にハンガーに掛かった白衣に腕を通した。

今日から二週間、夏期講習中は教室で授業をやることになっている、そのため、早めに準備室を出なければ予鈴に間に合わなかった。

 

「……純也さん…、……我慢って得意ですか…?」

「……はぁ?」

 

白衣を着ながら、「唐突すぎたかも」と思ったときには遅く、くるりと振り返ると純也さんが怪訝そうな顔してこちらを見ていた。

 

「…雅都くんどうしたの? 夏バテ…???」

「いえ、…いや、まぁ夏バテもきっとあるような…、ないような…」

 

椅子に座り、次の時間、生徒にやらせるプリントをデスクの上に用意しながら曖昧な返事をしていると、聞き慣れた声がしてきた。

 

「おはようございまーす」

「失礼します」

 

準備室に入ってきたのは、絵里ちゃんと尋未。

これから顔を見に行くって時に、顔を見てしまった。

極力彼女の顔は見ないようにしよう、と思って学校にきたっていうのに…、いじめか、これは。

 

「あっれー? 雅都先生どうしたの?」

「え?」

 

気を抜いていたら、絵里ちゃんに話しかけられて我に返る。

 

「…その顔。これからうちの授業だっていうのに……、死にそうな顔してるよ?」

「………解ってる」

「解ってるなら、うなぎ食べるとか、肉食べるとか、にんにく食べるなりして精力付けないと元気にならないよ?」

 

いや、もう十分元気だから。

これ以上精力つけてどうしろっていうんだ。

拒否する。その夕飯は辞退する。

…ていうか、絵里ちゃん、どうしてそんなに俺を元気にさせようとするんだ…。

 

言いたいことが山積みだったが、それを全部言ってしまえば勘の良い彼女のことだ、尋未になにか言うに違いない。

とりあえず、うんうん、と適当に首を縦に振ってその場を凌ぐ。

 

「あーもう、駄目だ。尋未、こんな堕落教師なんて放っておいて、さっさと教室戻るよ!」

 

しかし、その場凌ぎの返答なんて、あの絵里ちゃんが許してくれるはずもなく、彼女もこの夏の暑さからか、イライラしていた。

こんな堕落教師、という言葉に反論したかったが、本気で今はそこまで元気がないし、自分でも堕落教師だと思ってる分、些か気持ち良く反論が出来ずに、後ろ髪引かれるように絵里ちゃんに手を引かれる尋未を見ながら、大きなため息が出た。

 

「…悪いね、雅都くん」

 

頭を項垂れていると、純也さんがこちらを見ながら苦笑を浮かべていた。

 

「え?」

「絵里」

「……ああ。良いですよ、気にしてませんから」

「あいつもイライラしてるからって、雅都くんに八つ当たることないじゃないか…。つっても、俺も雅都くんの体調、実は結構気にしてるんだけど?」

 

今までデスクに座っていた純也さんに、顔を向けるとまじまじと顔を眺められた。

 

「…ほら、いつも以上に無表情」

「……すみません」

「別に謝ることないよ。俺だって、今若干夏バテ状態だし。……ただ、生徒ってのは教師のことを実はとても良く見てるんだよね。こちらが思ってる以上にさ」

「…はい」

 

そうだ。こちらが機嫌が悪くなったり、具合悪くなると、それが生徒に影響を及ぼしてしまう。

機嫌が悪くて授業をされる立場にもなってみれば解るが、あれは相当痛い。

痛いっていうのは、見ていてハラハラしたり、至る所に「怒り」をぶつけられるもんだから対処のしようがない。

それこそ俺はもともと無表情なもんだから、生徒達にも「怖い」と思われがち。

 

プロ意識低下してるなー…。

 

純也さん、感謝。

 

「…ありがとうございます」

「うん、雅都くんなら解ってくれると思ってたよ」

 

いかにも爽やかそうな笑顔でこちらを見つめる純也さんに、精一杯の「笑顔」を見せると、もっともっと頑張らないといけないな、と思った。

 

 

 

 

 

────そして、夏期講習初日は滞り無く、終わった。

 

 

 

 

 

プリントをやらせて、答え合わせをして、解らないところを補足付けながら説明して、質疑応答。

ま、プリントをやる時間の方が多いから質疑応答の時間をとってもすぐに授業終了だ。

夏期講習終了後は、お昼まで化学部の活動があるので、少し化学準備室で休憩してからまばらに生徒が集まってきた実験室に顔を出す。

実験室では、化学部の子らが集まって研究発表用の実験をしていた。

そこへ、授業を終えた絵里ちゃんと尋未、そして他の三年部員も集まってくる。

実験室内は若干ではあるが空調が効いているので、結構涼しい。先ほどまで準備室でしていた雑務から開放されるように体を伸ばすと、絵里ちゃんに呼ばれた。

その隣には、うつむき加減に大人しくしている尋未の姿。

まずいな…、これは相当俺の態度を気にしてる。

 

「…なに?」

「環境省で募集しているあれ、テーマを「酸」か「溶解」にしようと思うんですけど。…どっちがいいと思います?」

「……うーん、どっちも結構研究している子が多いと思うから…。実際、どっちをやりたいか、だと思うけど」

「……そっかぁ。…んーじゃあ、酸にしようかな。結局、酸の中で溶解も含まれるし」

「そうだね。いいんじゃないかな?」

「うん。そうします」

 

お、イライラは収まったのか?

絵里ちゃんはいつもと変わらず普通に接してきた。

これならすぐに放してくれそうだな────

 

「それから先生?」

 

──やっぱりただで俺を放すわけないか…。

胸中、ひやひやさせながら今度はしっかりとした返事を返してやると、絵里ちゃんはいつにも増して鋭い視線で俺を見上げた。

 

「尋未、体調悪いみたいなんですけど」

 

しれっとした顔で、瞳だけは「脅迫」してるように細くなった。

 

「…え?」

「え、絵里…!?」

 

話題の中心人物である尋未も驚きに声を上げる。

 

「先生の様子がおかしくて、尋未まで調子悪いみたいなんで、保健室連れていってもらえます? あ、部活の方は気にしなくて良いですから」

 

まるで、マシンガンのようだ。

鋭い一言を俺にだけ聞こえるぐらいの声で投げつけて、有無を言わせない気迫があった。

 

「尋未の研究課題の方も、大丈夫ですから。だから…、保健室」

 

───連れて行け。

と、声無き声が聞こえてきた。

絵里ちゃんを怒らせたのは自分なんだし、ここはひとまず彼女の言うことを聞いておくか…。

 

「……解った」

「え?」

「……赤坂、おいで」

「え、と…」

「良いから、おいで」

 

驚きに瞳を開けてる彼女に声を掛ける。

一瞬驚いていたが、俺が実験室のドアの方まで歩いていくと尋未も後ろから着いてきた気配がした。

 

 

「───まーったく、…ほんと、手がかかるんだから…」

 

 

まだ真っ白なレポート用紙に、「酸」と書きながら、絵里は小さく呟いた。



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