「ありがとうございました」
「またのご利用をお待ちしております」
 覇気のある声に背中を押され、広いあのロビーを抜ける。
 幸いにも美月さんと葉月の姿はなく、外まで出られた。
「はー……」
 息が詰まっていたわけでもないのに、日の落ちかけている空を仰ぐとため息が漏れた。
 茜よりも藍に近づいている色。
 日没まであと少し、か。
「お前、ホントに葉月ちゃんに会わなくていいのか?」
「は? なんで」
「なんでって……せっかくここまで来たんだし、会ってやったら喜ぶんじゃねーの?」
 躊躇することなく駐車場へつま先を向けると、なぜか壮士のほうが納得いかないみたいな顔で肩をつかんだ。
 いや、なんで?
 俺がいいっつってんだから、よくね?
 そういう意味で言えば、やっぱコイツ世話好きなんだな。きっと俺よかよっぽど。
「別に、今日逃がしたら会えねぇわけじゃねーし。そのうち帰ってくる」
「そりゃそーかもしんねぇけど。今日、ここにいること知らないんだろ?」
「当たり前じゃん」
「だったら尚更。お前がいるって知らないのに会えたら、絶対喜ぶんじゃねーの?」
 なんだよ、絶対って。
 どういう根拠からはじき出された憶測だ。
 足を止めずに駐車場へ向かうと、ほどなくして白い車が目に入った。
「っ……」
「おや。なんだい珍しい」
「……なんでここに」
「それはこっちのセリフだよ。来たならあいさつがてら顔を出すのが常識じゃないのかい?」
 大きな竹箒を手にしていた女将が、駐車場の一角へ落ち葉を集めていた。
 てか、まさかこんなとこにいるとか聞いてねぇ。
 しかも、女将が直々に掃除してるとか想像もしなかった。
「まさか帰るんじゃないだろうね」
「いや……帰りますけど」
「あいさつもせず帰るなんて、いい度胸じゃないか。瀬那君にはよろしく伝えておくよ」
「っ……いや、それは……」
「葉月だって、坊やがここにいるって知ったら会いたがるだろうに。ちったぁあの子の気持ちくらい考えておやりよ」
「……けど」
「立場が逆だったらどうだね? 坊やは嬉しくないかい?」
 言葉と表情がまったく合っておらず、さすがに『げ』と小さく漏れた。
 のを、数歩後ろにいた壮士に拾われたらしく、振り返ると腕を組んだままにやにやと人が悪そうな顔をしていた。
「おや、ひとりじゃなかったのかい。ようこそ、流浪葉へ。お湯加減はいかがでしたか」
「さすが、としか言えない風呂でした。おかげさまで、日々の疲れが取れましたよ」
「それは何より。どうぞまたお越しください」
「ありがとうございます」
 俺がまったく見たことのない表情で会話するふたりを見ていたら、疲労感にも似たものが背中に乗っかってきた。
 が、次の瞬間、壮士はわざとらしく大きな声をあげた。
「あー、ワリ。忘れ物してきたわ」
「は!?」
「ついでに、もっぺん風呂入ってくるから、お前ちょっと待ってろ」
「ばっ……何言って……!」
 びし、と人さし指を向けると同時に真面目な顔をされ、一瞬何を言ったのかわからなかった。
 つか、どうしてそうなった。
 あまりにも取ってつけたようなセリフを並べられ、大きく口が開く。
「ほら、もうじき日没だろ? どうせなら満喫してから帰りてぇじゃん」
「……ふざけんな。帰るつってんだろ」
「どうせ暇だろ? なんなら晩飯も食ってから帰ろうぜ。もちろんお前の奢りで」
「あのな」
 飄々としている表情を見ながら、瞳が細まる。
 ついでに奥歯がきしんだが、壮士は肩をすくめただけでまったく動じなかった。
「電車で帰る」
「馬鹿言うな。すんなり帰れなかったってことは、遣り残したモンがあるからだろ? ちゃんと葉月ちゃんに会ってこいよ」
「だから、そんなつもりで来たんじゃ――」
「なんだい。葉月を随分軽んじてくれるじゃないか」
「いやだかっ……そういう意味じゃなくて!」
 ふたりそろって俺を見てはいるが、浮かべている表情は180度違うと言ってもいい。
 つか、壮士は事情知らねぇはずなのに女将に乗っかりすぎなんだよ!
 初対面だろうに『コイツ素直じゃないんすよ』なんて女将へ軽口叩けるコミュ力をここで発揮すんな。
 そういうのは求めちゃいない。望んでもいない。
 俺はただ……ただ、なんかかっこ悪いだろ。
 これじゃまるで、我慢できなくて会いに来たみたいで。
「はー……」
 ガシガシと頭をかき、上着のポケットへ片手を突っ込む。
 と、スマフォが小さく震えた。
「…………」
「平気だって。置いて帰らねぇでやるから」
「それなら、食事処で揚げたての天セイロ食べておいき。目の前で職人が好きなネタ揚げてくれるよ」
「うわ、それ絶対うまいやつ。ごちそうになります」
「稼ぎのいい坊やが喜んでご馳走するだろうよ」
 スマフォの画面に表示された短いメッセージを見たままでいたら、女将と壮士がすっかり意気投合していたように聞こえた。
 が、そっちじゃなくて意識はこっちに向いたまま。
 それはそれは珍しいひとことがそこにあって、どう反応すればいいか悩んだせい。
「……アイツ、本宅にいるんすか?」
「ああ。今日はもう上がってるはずだからね。……まあ、一応鍵を持っておいき」
「え。いつも開けっ放しなんじゃ」
「そんな物騒なわけないだろうに。もしかしたら、まだいないかもしれないからね」
 チャリ、と小さな鈴の音とともに手渡されたのは、いつぞや美月さんが持っていた鍵。
 夕日のかすかな光を受けて、金色が濃く見えた。
「先に帰っていいっつの」
「ンでだよ。気遣ってやるから、今後も俺を敬え」
「……暇じゃん」
「お前ほどじゃない」
 ともに流浪葉へ足を向けた壮士に舌打ちすると、それはそれは楽しそうに笑った。
 ほんと、厄介なもんだな。
 さっきまでとは大違いだ。
「で? 葉月ちゃんなんだって?」
「言わない」
「いや、教えろよ! 減らねぇだろ!」
「そういう問題じゃねぇんだっつの」
 つか、なんでメッセージの相手がアイツだってわかってんだよ。
 察するチカラありすぎだろ。
「大事にしてやれ。自分以上に気遣ってやんなきゃダメな相手だぞ」
「……失敗したくせに」
「うるせぇよ!」
 いかにも“教師”めいたセリフを言われて吹き出すと、嫌そうな顔で舌打ちした。
 あー、世話焼き相手は面倒くせぇな。
 これだから……そばにいると、厄介な気になるんだっつの。
「ま、3時間は待っててやるよ。休憩には十分だろ?」
「あのな。致さねぇっつの」
「わかんねーじゃん。そのときの雰囲気だろ?」
「ない」
 お前は知らないから言えるんだよ。
 恭介さんが鍵を持ってるかどうかは知らないが、少なくとも美月さんは持ってる。
 現場を押さえても言いはしないでくれるだろうが、俺のメンタルが死ぬっつの。
「んじゃ、終わったら一応連絡しろ。メシ食おうぜ」
「気が向いたらな」
 ひらひら手を振った壮士と正面玄関で別れ、裏手に回る方向へ足を向ける。
 今、アイツが本宅にいるかどうかはわからない。
 が、少なくとも……こんなメッセージ送ってくるってことは、今ひとりなんだろうよ。
 宿の中でひとりになれる場所があるのかどうかは知らないし、もしかしたらあのときのように、湯上り処にいるかもしれない。
 はたまた甘味処か……それこそキッズスペースかもな。
 どこにいるかはわからないし、想像もできない。
 ただ、いなかったら呼べばいいだけだろ?
 鍵をもらった以上、きっとふたりきりになれるだろう本宅の部屋へ。

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