人間万事、塞翁が馬。
 いつだったか、葉月が口にした言葉。
 そのときは『らしくねぇな』と鼻で笑ったのに、なんであんなことが起きたんだかな。
 葉月とともに図書館をあとにしてすぐ、野上さんが駆けてきた。
 俺宛の電話だと聞いて戻ったものの、内容は俺個人宛てでもなく、単なる図書館の利用方法。
 なんでわざわざ俺にと思ったが、当たり障りない説明を伝え……たものの、やけに食い下がる。
 それがまず不審であり、堂々巡りのような質問を繰り返されたところで、ふと我に返れたのはデカかっただろうな。
 壁時計を見るとすでに5分足止めを食らっていたことがわかり、一旦保留にして野上さんに確認すると、俺に名乗った名前と彼女へ伝えた名前が異なったことがわかり、そこもあわせて副館長へ報告。
 着信番号、日時と内容、そして野上さんの証言と俺の主観ではなく相手が言ったセリフを書き残し、すべてまとめての記録として控えてもらうことにしたおかげで、組織としての威力業務妨害届けを出してもらえることにもなった。
 気づくのが遅かったといえば、それ。
 あと数分引き伸ばされていたら、確実に拉致られていた可能性がデカい。
 だから、葉月が嫌な思いしたのは俺の落ち度でもある。
 あのとき、あんなタイミングよく電話が掛かってきたことも、おかしいと思えばよかったし、何より、鍵を渡すんじゃなくて一緒に引き上げさせるのがベストだった。
 泣かなくていいのに泣かせたのは、俺の不手際。
 今、こうして笑顔は戻ったが、確実に大きな傷として残っただろうな。

 『私、どうしたらいいのかな?』

 普段、葉月は自分で決めるし、あまり人に相談しない。
 それは悩まないのではなく、自分で責任を負おうとするから。
 なのに……あんなふうに俺へ切り出したってことは、相当参ってる証拠だろう。
 電話がなければ、俺が葉月と図書館へ戻っていれば、たらればばかりだが、あんな目に遭わずに済んだかもしれない。
 が、たとえ昨日が防げたとしても、次は……それこそもっと別の形で現れていたかもしれない。
 だから、よかったんだろう。
 結果的な意味では。……恐らく。

「お父さんのこと、知らないよね?」

 勝ち誇ったかのように言った男のセリフが、一瞬わからなかった。
 だが、男を見ていた葉月の顔。表情。
 みるみる青ざめるのがわかって、ようやく把握した。
 それからのことは……よく覚えてない、わけじゃないが咄嗟にスマフォで証拠を残すほうへ動いたこともあり、冷静ではあったのか。一応は。

 強いのは、勝つことじゃなく逃げないこと。

 遠い昔、恭介さんに言われた。
 それは俺にとって、もうずっと何年も頭にある。
 あの男にされたことは、葉月にとって決してプラスなんかじゃないし、日常茶飯事なんてレベルじゃもちろんない。
 それでも、怯まなかった。
 逃げなかった。
 背筋をまっすぐに伸ばし、決してアイツに負けまいと見つめ返していた。
 凛とした姿。
 あの顔つき。
 ハタから見ていて、イイ女だと素直に思った。
 本当は、怖くてたまらないはずなのに。
 なのに、涙もその弱さも決して見せまいとしていた姿。
 普段の、穏やかでどこかほわんとしている雰囲気とまるで違う姿に、思わず喉が鳴った。
 ……そして、改めて思う。
 さすがだ、と。
 ああ、だから俺のモノにしたくなったのかと、つい先日なかば無意識に手を伸ばした夜を思い出す。
「ずっと海沿いなんだね」
「あ? ああ、湯河原まではこのルートしかねーぞ」
「そうなの?」
「まあ、箱根の山越えてくルートもないわけじゃねぇけど、どう考えたってこっちのほうが早い」
 国道134号から西湘バイパスを抜け、さらに真鶴道路へ。
 冬瀬からはずっと海沿いを通っており、天気がいいこともあって海はきらきらと眩しいくらい光を反射していた。
 つってもま、合流でそこそこ混むんだけど。
 西湘バイパス出口は、それこそ万年混雑地帯。
 FMの交通情報でも必ず出てくるある意味名所ってところか。
「わ、みかん売ってるよ?」
「ンな珍しいか?」
「そういうわけじゃないんだけど……つい、目に入ったの」
「まぁ混んでるしな」
 『海風みかん』と書かれた看板には、おそらくゆるキャラを目指したであろうキャラクターが描かれている。
 でも、あれってゆるさなくね?
 合流して少しずつ流れ始めたのを見ながらギアを入れると、いかにも海沿いの観光地らしく、干物や蒲鉾店が両サイドに現れ始めた。
「海沿いのドライブって、気持ちいいね」
「まぁ、見た目最高だよな。山も楽しいけど」
「もう。山道でスピード出したら危ないよ?」
「ンな出さねーって。つか、なんで俺が山道つった途端、峠攻める前提なんだよ」
「違うの?」
「最近はしてない」
 そういや、箱根に上ったのも最後はいつだったか。
 社会人になると時間制約がデカくなるのもあって、そういやずっと走ってねぇな。
 かわりに、高速へ乗る機会がぐっと増えた。
 時間はないが金はある。
 学生と社会人の差は、当然デカい。
「そもそも、さっき煽って抜かされたのに舌打ちもせずスルーしたろ」
「え? そんなことあったの?」
「ああ。バイパスでな。道譲ったのに張り付くとか、ワケわかんねぇのいたじゃん」
「……白い車?」
「それ」
 この車だと、見た目そのままってこともあって、割と煽られることも多い。
 ひとりかつ公道じゃなけりゃ応戦も考えるが、さすがにな。
 つか、葉月がいるのにンなことしたら、恭介さんの耳に入った瞬間キレられそうだ。
「追わなくてよかったのかな、って少し思ったの」
「なんだよ。追ってほしかったのか?」
「そういうわけじゃないんだけど……」
「祐恭に言われたぞ。どんなお守りよりよっぽど安全運転するじゃないか、って」
「……私?」
「ああ」
 たまたま、出張帰りの祐恭を駅で見かけて拾ってやったとき、家へ送る道中でそんな話になった。
 つか、葉月が乗ってようがいまいが、公道でスピード出さねぇんだけど。俺。
 人のイメージって、っとにてきとーだよな。
「……ねえ、たーくん」
「あ?」
「今日のことって……お父さんになんて聞いたの?」
 両手を組んだ葉月が、ふいに俺を見上げた。
 なんて都合よく信号なんだかな。
 ほぼ青信号だろう場所で停まるはめになり、そっちへ視線をよこさないわけにもいかず。
 ギアを抜いて葉月を見ると、少しだけ不安げな顔をしていた。
「先週、恭介さんに会った」
「え? そうなの?」
「ああ。成人の日、たまたま会合があったんだけど、その帰りに藤沢駅でな」
 口に出してみると、意外にもまだ数日しか経ってなかったんだなと気づく。
 もう、だいぶ前の印象だ。
 きっとそれだけ今週は密度が高かったってことだろう。
「その足で、湯河原へ付き添った」
 ちょうど信号が変わり、アクセルを踏み込む。
 そのとき、葉月が少しだけ反応した気がしたが、そちらは見ずに正面へ視線を張り付かせる。
 逆に、葉月が恭介さんにどこまで何を言われているのか、俺にはわからない。
 だから、正直言いようがない部分もある。
 ……どこまで伝えていいんだか、俺じゃわかんねぇし。
 それもあって、話は途中だが葉月へ矛先を変えることにした。
「恭介さん、なんだって?」
「……11月に試験を受けにきたあと、お父さんと話したの」
「何を?」
「お父さんが言ってた、私に会わせたい人について」
 11月、葉月は帰国子女入試を受けるために一時帰国した。
 そのとき、恭介さんに言われた言葉で、葉月は『再婚の話』を予想したが、事実とは大きくかけ離れていたことは知ったんだろう。
 が、だからといって具体的にどんな会話をしたのかは、俺は聞いていない。
 ただ、恭介さんからは『葉月に必要な部分は伝えた』とだけ聞かされた。
「あのときたーくんに話したのは、本当の気持ち。私がそうするように、お父さんにも自分の人生を歩んでほしかったから、1月に七ヶ瀬を受けたいと伝えたの。それで、9月の誕生日に会わせたい人がいるって言われて……でも、まさか私に会わせたい人っていうのが、お父さんの好きな人じゃなくて、私のおばあちゃんだなんて……思わなかったの」
 あのとき葉月は、勘違いしていた。
 が、そこは恭介さんらしいとも思う。
 ……お互い、思いやりすぎなんだって。だから。
 結局のところ、恭介さんは葉月を一番に考えて動いているんだよな。
 当然、葉月は葉月で恭介さんを第一に考えていて。
 まあもっとも、親子だから相手を思いやりすぎてすれ違うってのも、あるのかもしんねぇけど。
 特に、この親子の場合は。
「おばあちゃんに会いに行きたいって話をずっとしていたんだけど、実は、おばあちゃんがそれを受け入れてくれてなかったって聞いて……私ね、手紙を書いたの」
「受け入れてくれなかった?」
「うん。でもね、ずっと会ってなかったのに急に『孫です』って言われても戸惑うでしょう? だから仕方ないよね。それに……お父さんは私を会わせたいって言ってくれてたけど、向こうはそのつもりじゃないのかもしれないって思って……だから、手紙を書いてお父さんへ託したんだけど、もしかしたらいけなかったのかもしれない」
「なんで」
「だって……私だけ、会いたがってるのかな、って……」
 真鶴道路の分岐をさらに右へ進み、有料区間へ。
 トンネルを抜けると、まさに両サイドひらけた風光明媚な道になり、気落ちした葉月が一瞬顔を上げたのがわかった。
「なんで会いたくないって言われたのか、その理由は聞いたか?」
「っ……」
「……あのな」
「だって、その、拒否されているのに……強くお願いするのは違うかなって思って……」
「つか、恭介さんもそこは説明するべきだろ」
「…………」
 勘違い第二段が起きてることを、果たして恭介さんは知ってるのか。
 先週、俺は葉月よりも先に祖母である女将と会っている。
 あのとき読んでいた、それこそ巻物のような手紙は、やっぱりコイツが書いたもので間違いないらしい。
 が、どう考えてもあのときの女将のセリフと、葉月の言葉は合致してない。
 つか、恭介さんにしちゃ随分ツメ甘くねぇか?
 敢えてそうしてるのか、それともなんらかの意図があるのかはわからないが、今の葉月は『拒否されてるのにムリヤリごねて会う約束をした』としか思ってねぇじゃん。
 こんな状態で会って、ホントに平気か?
 真鶴道路も間もなく終わり。
 『終点』の看板が目に入り、逆にこっちが不安になる。
 ……って、俺が不安になってどうすんだよ。
 ここから始まりだろ。全部。
「……湯河原温泉」
「よく見ろ。歓迎って書いてあんだろ」
「ん。そうだね」
 デカいタヌキのイラストとともにある文字をあえて声に出し、ギアを落としてから葉月の頭を撫でる。
 ここから目的地まで、車なら3分もかからないかもな。
 電車で来たときとは違い、海沿いから山を登る形で右折しながら、地元とまるで違う景色に少しだけ期待することにした。

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