「ノート、貸してくれる?」
「ん? いいよー」
「ありがと」
 そう言って、絵里から受け取ったノート。
 これってば、私にとってはものすごくありがたいんだよね。
 貴重な休み時間。
 なのに、私たちがいるのは、化学室。
 ……なぜか?
 それは、すごーく簡単な理由なんだけど……。
「実験、終わった?」
 ドアの閉まる音とともに聞こえた声でそちらを見ると、なぜか楽しそうな顔をした彼がいた。
 ……なんで、そんなに楽しそうなんだろう。
「普通、この実験でこんなに時間かかることってないんだけど」
「しょーがないでしょ! いろいろあったんだから」
「……いろいろ、ね」
 ふーん、と小さく言ってから手近の椅子に座り、頬杖ついた彼。
 ……と、やっぱり目が合う。
「いろいろあったワケ?」
「……なんで、そんなに楽しそうなんですか」
「そう?」
「そうです!」
 先生、自覚ないのかな……。
 今、ものすごーく意地悪な顔してるんだけど。
 なんて彼を見ていたら、ふいに手元へと視線が落ちた。
 そこにあるのは――……私のノートだ。
「なんですか?」
「……いや……」
「間違ってます?」
「ううん。あってるよ」
 じゃあ、どうして?
 そう聞こうと思ったら、先に彼が顔を上げた。
「兄妹だな、と思って」
「はい?」
「いや、だからさ。孝之とそっくりだな、って」
「……お兄ちゃんと?」
「そ」
 相変わらず頬杖を付いたままで何を言うのかと思いきや……。
 てっきり、彼のことだから何か突っ込まれると思ったのに。
 でも、お兄ちゃんとそっくりって……何がだろう。
「いつも思うけどさ。……ノート、几帳面だよね」
「そうですか? ……自分じゃわからないけど」
「そりゃそうだろうけどね。なんつーのかな……こー……几帳面だよ。うん」
「……それじゃ、わからないです」
「まぁね」
 彼に言われてノートを見てみる。
 ……几帳面。
 そうかなぁ?
 確かに、あとで自分で見てわかりやすいようにって書いてはいるけど。
 でも、それが几帳面に繋がるかどうかはわからない。
「俺さ、昔アイツに言われたことあるんだよね」
「え?」
「ノートが、見づらいって」
「……先生が?」
「うん。でも、アイツが言う気持ちはわからないでもないんだよ。……こうして羽織ちゃんの見てると、思い出すっていうか」
「……へぇ……」
 意外だった。
 だって、先生の字はきれいだし。
 ……まぁ、確かに彼のノートなんて見たことないけど。
 なんて思っていたら、パラパラとノートをめくりながら見ていた彼が、小さく笑ってこちらに再び視線を戻した。
「孝之のノート、見たことある?」
「え? ……あー……あったような気も……」
「じゃあ、わかるだろ? アイツの性格」
「……性格、ですか?」
「うん」
 性格……って言われてもなぁ。
 いい加減で、適当で、不真面目で、理屈っぽくて、飄々としてて、いい加減で――……あ。いい加減って2度目だ。
 うーん。
 彼に言われて出てくるものは、どれもこれもよくないことばかり。
 でも、以前彼のノートを見たときは、そうは思わなかった。
 だって……性格に似合わず、すごくきれいにノート書いてたんだもん。

「数学の宿題、やったか?」
 昼休みもあとわずかというとき。
 ストローをくわえたままで、孝之がこちらを向いた。
「……お前、やってないの?」
「やってない」
「…………あ、そ」
 聞いた俺が馬鹿だった。
 ……そうだよ。
 こいつがこう聞くときは人をアテにしてるときだってのは、短い付き合いとはいえわかってることなのに。
「ほらよ」
「サンキュ」
 机の端に置いていたそれを渡すと、『悪いな』とひとこと残してから前を向いた。
 ……ホントに悪いと思ってないだろ。
 それはまぁ、今に始まったことでもないので言わないでおくが。
 しかし、コイツと知り合ったときからそうなんだが……。
 孝之が、教室でノートや教科書を開いている姿を見たことがないのはどうしてだ。
 ちなみにそれは、テスト前も変わらなかった。
 開いてるものって言ったら、それこそ文庫本とか漫画とか。
 ……なのに、どうして赤点取らないで済むんだ?
 家で猛勉強してる……って感じでもないし。
 予習復習っていう言葉は、コイツの中にないんだろうか。
 ……いや、まぁ、ないんだろうな。
 自分だってするほうじゃないと思う。
 けど、少なくともコイツよりはやってるハズだ。
 それでも、塾に行ってるワケでもないし、部活やってるわけでもないコイツは、毎日学校から帰って何をしてるんだろう。
 まぁ、こっそりバイトしてるってのは聞いたけど。
「ん?」
 なんて考えてたら、こちらを振り返った。
 噂をすれば……とでもいうか、考えていて振り返るとはね。
 さすがっちゃ、さすがだけど。
「終わったなら返せよ」
「お前さ」
「……なんだよ」
 眉を寄せて思いっきり訝しげな顔をされ、こちらも眉が寄る。
 なんなんだ、その顔は。
「お前、ノート汚ねぇよ」
「……は?」
 何を言われるのかと思いきや、面と向かってそんなことを言われた。
 そう……か?
 あんまり自覚ないんだけど。
 つーか、俺には読めるし。
「お前さー、字がウマいクセになんでノート汚いワケ? 信じらんねぇ」
「そう言われても……つーか、そんなに言うほどか? わかりやすいと思うけど」
「はぁ!? わかりやすい? これが!?」
 ぼそっと呟いた言葉に、予想以上に反応された。
 ……なんだよ。
 ぱらぱらとノートをめくって見ていたかと思いきや、こちらに向けたのは案の定嫌そうな顔。
 言いたいことは、だいたいわかる。
 どうせ、文句と嫌味だろ?
「相変わらず大雑把だよな、お前」
「……まぁ、自覚あるけど」
「あんのかよ!」
 いきなり、突っ込まれた。
 正直に言えばこうだし。
 ……俺にどう言えと?
「だいたい、これの答えはどこにあるんだ? え!?」
「これ? これなら、ここに書いてあるだろ」
「っ……ここかよ!!」
 指差された数式の続きを指してやると、大げさに反応を見せた。
 ……面白いな、コイツ。
「おかしいだろ! 普通、続きなら下に書くだろうが!」
「しょーがないだろ? 余白なかったんだから」
「だったら、次のページに書けよ!」
「は? なんでだよ。ここが空いてるんだから、これが妥当だろ?」
「妥当じゃねぇって!!」
 どうやら、数式の続きをノートの下部から空いていた中央へ書いたのが気に入らないらしい。
 確かに、上から読んでいくとおかしな順序になるとは思うが、俺にはどこに何が書いてあるかすぐにわかるし。
 はっきり言って、これまでにこのやり方で不便を感じたことはない。
 ……あー、でも待てよ。
「お前のノートは?」
「よぉーく、見てみろ!」
 言う前に、彼が差し出してきた。
 というわけで、受け取った自分のノートを見比べてみる。
 ……。
 …………あー……。
「お前、几帳面だな」
「感想はそれかよ!!」
「……なんか……。あー、なるほどね」
「だろ? わかっただろ? このほうが見やすいってことが」
 確かに、見やすい。
 どこに何が書いてあるか、すぐにわかるし。
 ……でも、な。
「けどお前、これじゃ余白できすぎだろ」
「はぁ!? だから! お前は、そんなんだからノートが見づらくなるんだよ!!」
「そうか? 俺には見やすいけど」
「俺には見やすくない! だいたい、ノートはいかに見やすく書くかが勝負なんだぞ!?」
 ……あーそーかよ。
 つーか、勝負ってなんだ。勝負って。
 ぶんぶんと首を振って否定した彼に、思わずため息が漏れる。
「じゃ、ほかのヤツのノート借りればいいだろ」
「うぁ!? あ、ちょっ……!」
「どーせ俺のは見づらいからな」
「いやいやいや、ちょっと待て! だから、それとこれとは違うんだって!!」
「どう違うんだよ」
「いろいろ!」
 そっぽを向いてノートをしまいかけたら、慌てて孝之が手を出してきた。
 ……ったく。
 文句ばっかり言うなら、見なけりゃいいじゃねぇか。
 まぁ……結局、そのあとはもう文句言わなかったからいいけど。
 しかし、そんなに見づらいか?
 改めてほかのノートを見てみるものの、書き方はどれも一緒。
 あちこちに走り書きのように、書いてある多くの文字。
 ……まぁ、わかりにくいかもしれないけど。
 でも、俺には見やすい。
 というワケで、俺はこれまで不便を感じることは当然なかった。
 ノートは、自分の使いやすいように使う。
 これは、鉄則だろ?
 孝之に指摘されて1度は改めようかとも思ったが、結局変わらなかったんだよな。

 ――……そして、現在。
「ここ」
「……え?」
 目の前に座った彼女の手元にあるノートの、余白部分を指してみる。
 確かに、彼女のノートは見やすいと思う。
 けど、気になるのは余白。
 ……少し空けすぎだろ。
「なんで、こんなに空ける?」
「え? だって、このほうが見やすいじゃないですか」
「でも、ここにも書けるだろ?」
「それはそうですけど……でも、このほうがいいのっ」
「……あ、そう」
 そう言われると、まぁ、それ以上は言えないんだけど。
 でも、これで改めて実感。
 やっぱり、なんだかんだ言って彼女はあの孝之の妹なんだな……と。
 似てない似てないと思ってたけど、そうでもなかった。
 ……頑固だし。
 って、こんなこと聞かれたらそれこそ機嫌損ねるだろうから、やめておくけど。
 丁寧にペンを何色も使って、それはそれはきれいにノートを作り上げる彼女を見ながら、そんなことが浮かんだ。
 しかも、なんだかものすごく楽しそうだし。
 まぁ、何も言わないでおくか。
 ――……とか思いながら、結局そのあとすぐに口を出したけどね。


2005/3/11


目次へ戻る